2005/5/15 メッセージ
無敵の愛
ローマの信徒への手紙 8:31-39 シリーズ(18)

皆さんは自分の信じている神様、イエス様のことをたった一言で表現するとしたらどんな言葉を思い浮かべますか?私は日本語なら「愛」、英語なら「Love」以外の何ものでもないと思っています。でもそれは多くの人が普段使っている意味とは、重なる所もありますが、ずいぶん違うところがあります。私たちは普通「愛」を「すごく好きです」という感情や、この感情によって何かを、あるいは誰かを自分の手の内に置きたいという「欲望」という意味で使っています。

新約聖書が書かれた時代のギリシャ語では私たちが区別せずに「愛」と表現している言葉が三つに使い分けられています。ひとつは「エロース」という言葉です。ギリシャ神話に出てくる神々の一人の名です。 プラトンという哲学者は、「自分にないものを求める欲望」と説明しました。今では性的な欲望を表す形容詞として日本ではエロ、英語ではエロティックとして使われます。ところが聖書には「エロース」は1回も登場していません。つまり、それは聖書の教える「愛」の本質とはかけ離れているということです。

新約聖書のなかでは愛と訳せる二つの言葉が登場します。その一つはフィレオーで「私よりも、父や母、息子や娘を愛する者」(マタイ10:37)、「宴会の上席や会堂の上席を好む」(マタイ23:6)など、主に友情や親子兄弟の愛、好みにつかわれます。

これら、二つの言葉(エロース、フィレオー)が通常世の中で考えられている愛の意味ですが、聖書が一貫して教えている愛の本質は、そのどちらでもない「アガペー」という言葉です。この言葉はイエス様が来られる以前には、フィレオーと同じように使われていましたが、イエス様の十字架の出来事以来、「全く自己中心的でない、献身的、犠牲的、相手に条件をつけない愛」という意味を持つようになったのです。たとえば、「神はです。」(ヨハネ第一の手紙4:8)あるいはマタイ19:19の「父と母とを敬え』。また『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』」。はアガペーが使われています。イエス様は本当の愛を教えるために来て下さったのです。それは何よりも尊く、強い愛です。 すべてのものが形を変え、滅びても決して変わらないものなのです。

A. あなたはこのような愛で愛されている

1) 御自身を犠牲とするほどの愛 (31-32)

ローマの信徒への手紙8章31,32節を読みましょう。

では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。 わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。(31-32) 

私たちは何気なく「神様を愛します」「神様に愛されています」と口にしますが、それがどのようなことを意味しているのか、あまり深く考えてこなかった人もいると思います。今朝は神様がどのような愛で、あなたを愛していてくださるのか、深く心に刻んでいただきたいのです。

それはあなたひとりの人生に大きな影響を与えるだけではありません。あなたがどのように人を愛するか、ということとして、あなたの大切な人々の人生に大きな影響を与えるのです。そして、その人がまた誰かをそのように愛することを知ります。この連鎖は世界を変えることもできるのです。大げさに聞こえますか? 神様はすべての人を愛し、すべての人にとって、この世界がより平和で、喜びと慰めに満ちたものとなることを望んでおられます。神の愛に触れられ変えられた一人一人の小さな働きが、全体として、社会を変えるのです。それは決して大袈裟なことでも、実現しない理想でもなく、神様が進行中の計画です。

ここに書かれている神様の愛の第一の特長は、「ご自身を犠牲にすることをいとわない」ということです。ご自身を与えることさえ、惜しまれないのなら、私達に必要なものはすべて与えてくださる、あなたには恐れるものは何もないのです。

神様の愛は惜しみなく与える愛、ご自身の命さえ与えて下さる愛です。素晴らしいことはこの愛で愛されていると、この愛で愛せるようになることです。もちろん神様の足元には及びません。長続きしなかったり、気分で変わってしまったり。それでも少しずつ、神様はあなたを変えてくださるのです。

2) 一方的にあなたを選ぶ愛 (33)

次の33節を読みましょう

だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。(33)

ここで示されている神様の愛の第二の特長は、神様ご自身があなたを一方的に選んで、正しい者と認められた。という点です。あなたが、何を持っているか、何ができるか、どんな人だからといった理由で「神の子」に採用されたわけではありません。もし神様が、神様の正しさの基準で私たちを量るとしたら、合格できる人は一人もいません。正しくない者を、正しい者と認めて、正しいものとして扱ってくださるのはなぜでしょうか?それは本当に正しかったイエス様が正しくない者のために十字架にかかり、苦しまれ、死んで下さったからです。私たち自身も、自らの弱さを知っています。

とても自分の口からは「私は正しい人間です」なんていえる者ではありません。けれども、神様がそう認めてくださったからには、あなたの「神の子である資格」を誰も剥奪することは出来ないのです。そこでサタンはあなたが自分から神様から離れるように誘惑するのです。どうかこの誘惑に乗って、神様に与えたれた、あなたの「神の子である資格」を疑わないで下さい。

3) とりなして下さっているということ(34)

34節に進みます

だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。(34)

キリスト教には三つの大きな祝日があります。皆さんは、三つとも御存知でしょうか? ひとつはクリスチャンでなくても知っているクリスマスです。もうひとつはクリスチャンなら知っているイースター。そしてもうひとつは、クリスチャンでも知らない人もいる「ペンテコステ」、キリスト教会の誕生日とも言える日です。実は今日がその日なのです。日本語では五十日目という意味の五旬節とも言われます。

あなたは「今、イエス様はどこにいますか?」と質問されたことがありますか? ここに基本的な答えがあります。十字架で死なれ、三日目によみがえられたイエス様は40日の間彼らに現れ、天に帰られ神の右に座しておられます。

そしてペンテコステはその七日後の出来事です。イエス様を信じる信仰の背景となったユダヤ教にも3つの大祭がありました。最大のものは神様がイスラエルの民をエジプトから救い出されたことを記念する「過越」の祭りで「種を入れないパン」の祭り(出エジプト記12章、13章)イエス様の十字架とよみがえりの出来事はこの時期に起こったことなので、私たちが祝うイースターと重なります。そしてその50日目、今年は今日、ユダヤでは小麦の収穫を感謝する「7週の祭り」のときに、今私たちがペンテコステとして憶える出来事が起こったのです。(使徒言行録2章)、聖霊が待ち望む人々に力強く注がれ、120人の主の証人、世界最初のキリスト教会開拓ティームはこの日3000人の人々が加わりました。教会がスタートしたのです。ちなみにユダヤ教の三大祭の残りのひとつは、エジプトを脱出し約束の地に到着するまでの荒野の旅を記念する「仮庵の祭り」です。秋の収穫の時期に祝われます。

先週は、聖霊が私たちを執り成していて下さる(27節)ことに触れましたが、今日の個所は「イエス様もそうしていてくださることを教えてくれています。「執り成す・intercede」は私たちが普段使わない言葉です。誰かのために、お願いすることです。特に聖書では、誰かの罪が赦されるよう神様にお願いするという意味で使われます。イエス様と聖霊様が共にあなたのために執り成していてくださるということは、あなたにはあなたの弱さを知った上で、いつもあなたの側に立つ強力な弁護ティームがついているということです。サタンが告発するあなたの罪は、いちいちもっとで、私達はいつも自分にがっかりしてしまいます。しかしイエス様はあなたの人生における勝利を望んでいるのです。イエス様は私たちの見えないところであなたの弁護活動を続けておられます。でもそれだけでは不安になってしまうでしょう。そこで聖霊様は日々あなたの心に働きかけて、慰め、励まし、あなたに「自分は、その弱さにもかかわらず神の子としての地位を保証されている」ことを実感させてくださるのです。

B. だから勝利への希望を持って歩もう

1) 現在の困難がどんなであっても(35-36)

神様の愛について3つのことを話してきました。それは(1)ご自身を犠牲にするほどの愛、(2)あなたのすべてを赦す愛、そして(3)いつでもあなたと共にいて、あなたを見放さない愛です。だから私たちは現在の困難がどんなであっても勝利の希望を持ち続けることが出来ます。35節と36節です

だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。「わたしたちは、あなたのために一日中死にさらされ、屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。(35-36)

世の流れに従うのではなく、神様に従って歩こうとするなら、たとえあなたに問題がなかったとしても様々な困難に直面することになります。 カッコ内は詩編44章22(23)節の引用です。キリスト教会は、今でこそ社会に一定の影響力を持つようになりましたが、特定の地域では今でもキリストに従うということが迫害されることを意味することもあるのです。しかし、聖書の中に登場する「神様を愛する人々」は、私たちとは比べようのないほど大きな困難にさらされてきました。パウロ自身も命を失いかける経験を何度もしてきましたから、この詩編を、実感を持って引用したのでしょう。

今日でもクリスチャンとして生きることから来る困難は形を変えて私たちを悩ませます。ここにいる一人一人がそれぞれ人生の課題を持っています。一人一人違いますが、共通することは、「神様の助けなしに成し遂げることのできる課題はない」ということです。しかし、神様の助けは必ずあります。

2) 主キリスト・イエスによって示された神の愛(37-39)

最後の37-39節を読んでみましょう

しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。(37-39)

パウロは、自身が置かれている困難にもかかわらず、私達は輝かしい勝利を収めている、と言い切っています。それは神様があなたを愛することを止めさせることができるものは何もない、と確信しているからです。あなた自身が背を向けない限り、無敵の愛はあなたを守ります。

神様の愛の3つの素晴らしさを心に刻んでいただけたでしょうか?(1)ご自身を犠牲にするほどの愛、(2)あなたのすべてを赦す愛、(3)いつでもあなたと共にいて、あなたを見放さない愛。 それらをここで「主キリスト・イエスによって示された神の愛」と表現しています。あなたはこの愛を糧として生きることが出来ます。そして誰かにこの愛の糧を分け与えることが出来るのです。

メッセージのポイント

あなたが神様から愛されていることを発見することは、自分の価値の再発見でもあります。神様の愛の性質をより深く知る時、あなたは自分のことをもっとよく知り、自分のことがもっと大切に思えてきます。困難を避けて通ることは誰にも出来ません。しかし神様を信じることができる人は、自分を信じることが出来ます。他の物事(財産、経験、能力、地位、容姿など)を根拠に持っている自信は本当に必要なときには役立たなくなる恐れのある不確実なものですが、神様に愛されていることから来る自信は、決して揺らぐことがありません。

話し合いのヒント

1) あなたは神様にどのように愛されているのですか?

2) 自分の生き方に自信がありますか? その根拠は何ですか?