2005/8/14 メッセージ ローマの信徒への手紙14:13-23 (シリーズ29)

神様に喜ばれ、人々に信頼されていますか? 


聖書には食事に関する印象深い描写が多くあることにお気付きですか?たとえば、エサウとヤコブの争いの発端となった「レンズ豆の煮物」(創世記25章)、イエス様の奇跡によって5つのパンと2匹の魚で5000人が満腹した野外での食事(マタイ14章他)、復活されたイエス様がガリラヤ湖畔で弟子たちに用意してくださった“炭火”焼き魚定食?(ヨハネ21章) どれも、私も食べてみたいと思わせるものばかりです。食べ物ではないですが、カナの婚礼で振舞われたイエス様の奇蹟のワインも想像をかきたてられます。

イエス様は「食いしん坊の大酒飲み」(マタイ11:19)と陰口をたたかれるほど、人々と食事を共にすることをとても大切にされ楽しまれました。食事を共にすると、前よりもずっと親しくなれるのです。イエス様はパリサイ人の夕食の招きさえも断らずに出席なさいました。それはイエス様が本当に「食いしん坊の大酒飲み」だったからではなく、誰とでも親しくなりたいと思われたからです。食事を振舞う、喜んでいただくというコミュニケーションは単に、肉体を維持するための食べ物のやりとりではなく、心の絆を深めるものです。

イエス様は、食事を共にするという良い習慣を、ご自身の命をお与えになったことを記憶させるために用いることを教会に命じたのです。私たちに与えられた真の命、永遠の命が、流された血と裂かれた体に象徴される『十字架』によるものだということを憶えるためです。この聖餐式と呼ばれる教会の儀式は、今でこそとてもシンプルな日曜礼拝の中(ユアチャーチでは礼拝前)での儀式となっていますが、元々、主の晩餐と呼ばれていたように、教会でもたれた晩餐会の中で行われていたものです。

ところが残念なことに、この食べるとか、飲むとかの信仰の本質ではない部分で、教会の中に問題が起こっていたのです。先週からお話ししている「偶像にささげられた肉」の問題です。

人間関係はなかなか難しいのです。神様の子供たちの共同体である教会の中でさえ、関係が損なわれてしまうことがあるのはなぜでしょう?しかもよく考えてみれば、たいしたことではない問題でそのようなことは起こるのです。どんなに素晴らしい信仰も、それが表面だけの受容であるなら、イエス様がおっしゃるとおりに「互いに愛し合うこと」は難しいものです。私たちの内面は、どうしたらもっとイエス様の心に近づくことが出来、互いに愛し合うものになれるのでしょうか?その答えを求めて今朝のテキストを読んでゆきましょう、始めに13,14節です


A 神様を悲しませ、人々の信頼を失いたいなら

1) 自分の確信を、人も持てるように教えてあげよう(13-14)

従って、もう互いに裁き合わないようにしよう。むしろ、つまずきとなるものや、妨げとなるものを、兄弟の前に置かないように決心しなさい。 それ自体で汚れたものは何もないと、わたしは主イエスによって知り、そして確信しています。汚れたものだと思うならば、それは、その人にだけ汚れたものです。(13-14)

汚れたものとは、ばい菌がついて汚いといった意味ではなく、宗教上許されないとか、正しい処理をしていないという意味で、聖くない、という意味です。ペトロが幻を見せられ、教えられたように(使徒言行録10章)それ自体汚れたものなどはなく、それは受け取る人の問題なのです。汚れたものだと思う人に無理に勧めるなら、それはその人の良心に葛藤を起こしてしまいます。それはその人だけではなく神様を悲しませることになるのです。

神様を信じるなら、その神様を悲しませたいと思う人はいないでしょう。神様を信じていない人だって、人を悲しませたいと普通は思いません。むしろ信頼を得たいと思うものです。

自分の確信が、誰にでも当てはまる普遍的なものだと思い込み、人にもそれを押し付けようとするなら、それは神様を悲しませ、人からの信頼を失うことになりかねません。

いろいろな教派のクリスチャンが働くクリスチャン企業ではこんなことが起こります。アルバイトで入ってきたばかりの若い男性が、社員である女性に、友人とビールを飲んだことを話します。 彼女は信じられないといった顔で、「兄弟、それは罪です」と言います。彼女は自分の教会でそう教えられてきたのです。一方彼は、それまでビールを飲むことが罪だなんて一度も聞いたことがありません。それに他人から兄弟と呼ばれるのも初めてでした。それで彼は自分の教会の牧師に聞いてみるのです。牧師は、いくつかの聖書の個所を開いて、「『結局のところ飲んでもいいけれど飲まれてはいけない』ということだよ。」と教えてくれます。それを聞いて安心した彼は次の日彼女に「僕は罪を犯していません。牧師も保障してくれました。それに僕はあなたの兄弟ではありません。」というのです。彼女がなんと答えると思いますか?「あなた、聖書を正しく伝える教会に変わったほうがいいわよ。それに私を○○さんなんて気安く呼ばないで○○姉妹と呼んで下さいね」

 現在の社会では、偶像にささげられた肉の問題はありません。しかしクリスチャンはこうあるべきだ、という教会ごとのローカルルールはいろいろあるようです。私たちはどんな態度でいるべきなのでしょうか?

 私たちの家に、メシアニックジュー(イエス様を主と信じているけれど、律法を守ることも大切にしているユダヤ人クリスチャン)の少年を夕食に招いたことがあります。彼の親から事前に食べていいものを聞いて食事を準備しました。私たちはもちろん普段は、律法のことなど何も考えずに食事をします。でもその日は、彼が食べるべきではないと信じているものは、彼に勧めないばかりか、わたしたちも食べなかったのです。 もし私たちが、「そんな思い込みをしていないで、この海老食べてごらん、美味しいんだから」それは彼に困惑と混乱を与えるだけです。そしてもし押し切られて食べてしまえば、神様を裏切った、両親にそむいたと感じて、こころには大きな葛藤が生じてしまったことでしょう。

 強い信仰、弱い信仰とパウロは表現していますが、要するに、違っていてもいいようなことでは、違いを認め合いなさいということです。そうでなければキリストの体は中から見ても、外から見てもバラバラで、信頼できないものと映り、神様を悲しませることになってしまいます。


2) 確信に従っていつでもどこでも思い通りに振舞おう(15,20-21)

たとえ自分の確信を人に押し付けなくても、あなたが確信に従って行動することによって躓いてしまうことがある、ということも私たちは知っておくべきです。15節そして20-21節を読んでみましょう。

あなたの食べ物について兄弟が心を痛めるならば、あなたはもはや愛に従って歩んでいません。食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはなりません。キリストはその兄弟のために死んでくださったのです。(15)

食べ物のために神の働きを無にしてはなりません。すべては清いのですが、食べて人を罪に誘う者には悪い物となります。 肉も食べなければぶどう酒も飲まず、そのほか兄弟を罪に誘うようなことをしないのが望ましい。(20-21)

神学校に入る時、約束をさせられました。禁酒禁煙の約束です。私の学んだ神学校は、最も保守的なクリスチャンの間では「あんな学校に行くと、牧師になるどころか信仰がなくなってしまう」といわれるようなところでした。

ですから、そんな個人的なことについてのルールがあることを意外に思ったものです。でもいまローマの信徒への手紙を読むと、このルールがパウロの教えに沿っていることがよくわかります。この神学校が属する日本で一番大きな教団は、いろいろな背景を持った教会が合同してできたという歴史を持っていました。そこには、クリスチャンなら禁酒禁煙は当然という教会もあれば、それは個人的なこととしていた教会もあったのです。神学生の多くはやがてはその教団の牧師となってゆきます(私のように教団外の者も入学を許されていますが)。教団の中に「強い信仰」の信徒もいれば「弱い信仰」の信徒もいるのですから、神学生は自分がどちらのタイプであるにせよ、その群れの牧者として相応しくあるためには、未来の牧者が学ぶ神学校も強い者が弱い者を配慮する場所であるべきだと考えられていたのです。

そこでユアチャーチのルールをお教えしましょう。私たちは、イエス様を信じるのに妨げになる食べ物や飲み物、嗜好品はないと信じます。つまり何かを止めなければクリスチャンになれないとか、飲酒は罪だとは考えません。けれども、人々の魂と健康に悪い影響を及ぼすことは、避けなければなりません。教会としての集まりでは、酒もタバコもなしです。聖餐式ではグレープジュースを使います。そうでなければアルコール依存症になってしまった人は聖餐に与ることが出来なくなってしまいます。このルールはそれらが聖くない食品だからではなく、聖くないと考える人の魂と、すべての人の健康に配慮するためです。


B 神様に喜ばれ、人々に信頼されたいなら

1) 平和や互いの向上に役立つことを追い求めよう(16-19)

16節と17節を読んでみましょう。

ですから、あなたがたにとって善いことがそしりの種にならないようにしなさい。 神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。(16-17)

クリスチャンは自分の体がもはや自分のものではなく神様のものであることを知っていますから節度のある行動をします。暴飲暴食をしたりはしません。しかしクリスチャンは、そのような日常生活の態度を人々に教えるためにこの世界におかれているわけではないのです。私たちがここにいるのは、神様との関係を回復することによって得られる、正義、平和、喜びを伝えるためなのです。

続いて18,19節です。

このようにしてキリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々に信頼されます。 だから、平和や互いの向上に役立つことを追い求めようではありませんか。(18-19)

神様を信じ、従うことによって得られる正義、平和、喜びを伝えることこそが、あなたが神様に喜ばれ、人々に信頼を得るということです。聖書は「だから」と続けます。だから、私達が伝えるべき確信とは、何を食べてもいいとか、何を飲んではいけないというような確信ではありません。「すべての人にとって神様との関係を回復し、確立し、強化するということが必要だ」という確信なのです。


2) “心の中の”確信に基づいて行動しよう(22-23)

それでは生活態度や習慣についての確信は捨ててしまったほうがよいということなのでしょうか?いいえ聖書はそのような確信を持ち続けることをよしとしています。22節から23節を読んでみましょう。

あなたは自分が抱いている確信を、神の御前で心の内に持っていなさい。自分の決心にやましさを感じない人は幸いです。 疑いながら食べる人は、確信に基づいて行動していないので、罪に定められます。確信に基づいていないことは、すべて罪なのです。(22-23)

確信を持っているということは大切なことです。確信がなければ、いつも迷い、やましさを感じていなければなりません。疑いながら食べるということは、実のところ神様を信頼していないということです。神様が信頼できないところに罪の本質があります。だからそれがどのような確信であれ(5,6節)、確信がなければ迷わず行動することは出来ません。

しかしここでは、確信を持つということ以上に大切なことが二つ語られています。はその確信を「@神の御前でA心の内に持っていなさい」ということです。人には関係のない、あなたと神様との間での確信です。神様との真剣な交わりのうちに得ている確信であるかどうか、そうであるならばそれを捨てる必要はありません。しかしその確信は、心に中に持っているべきものです。人に見せびらかすようなものではなく、ましてや人に同じ確信を持ちなさいと強いるものではないのです。

 

今朝、私たちは、違った役割や性質を持ったキリストの体である教会(私たち)がひとつの体として調和を保つ方法を学びました。またその調和を保ちつつダイナミックに愛の働きを続けてゆくために大切なことを学びました。それは、第一に、わたしたちがどんなに違った確信を持っていたとしても、共に神様への信頼という確かな土台の上に立っているということです。そして第二に、イエス様が言葉と行いで示された愛によって、互いに仕え合うことです。それをキリストの体の中で先ず始めましょう。自分の体を愛せない者がどうして、社会や他の人々を愛することが出来るでしょうか?

今週のメッセージのポイント

違った役割や性質を持ったキリストの体である教会(私たち)がひとつの体として調和を保ちつつ、ダイナミックに愛の働きを続けてゆくために大切なことは、わたしたちが共に神様への信頼という確かな土台の上に立ち、イエス様が言葉と行いで示された愛によって、互いに仕え合うことです。自分の体を愛せない者がどうして、社会や他の人々を愛することが出来るでしょうか?

話し合いのために

1) なぜ正しいことであっても、しないほうが良い場合があるのでしょうか?

2) 互いの向上に役立つこととは、どのようなことなのでしょうか?