2005/8/28-9/2 メッセージノート ローマの信徒への手紙15章7-13節(シリーズ第31回)

ユアチャーチへの手紙?

パウロはそろそろこの手紙を書き終えようとしています。今まで懸命に説いてきた、互いに受け入れあうこと、愛しあうこと、仕えあうことの大切さを、もう一度ここで繰り返しています。どうか「もううんざり」と言わないで下さい。このことは、何度でも繰り返す価値のある事柄であると同時に、繰り返し自らを戒めていなければ容易に忘れてしまうことでもあるからです。先ず全体を読んでみましょう。

だから、神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい。(7)

わたしは言う。キリストは神の真実を現すために、割礼ある者たちに仕える者となられたのです。それは、先祖たちに対する約束を確証されるためであり、(8)

異邦人が神をその憐れみのゆえにたたえるようになるためです。「そのため、わたしは異邦人の中であなたをたたえ、あなたの名をほめ歌おう」と書いてあるとおりです。 また、「異邦人よ、主の民と共に喜べ」と言われ、更に、「すべての異邦人よ、主をたたえよ。すべての民は主を賛美せよ」と言われています。また、イザヤはこう言っています。「エッサイの根から芽が現れ、異邦人を治めるために立ち上がる。異邦人は彼に望みをかける。」 (9-12)

希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。 (13)

A パウロは互いに受け入れあう事を勧めた (7)

私たちが受け入れあうことの根拠はイエス様が私たちを受け入れてくださったという事実です。イエス様の目的は神様の栄光が現れるためでした。栄光というと抽象的ですが、それは、神様だけが与えることのできる正義、平和、喜びが世の闇を退けまばゆい光のように私たちを包むということです。そのためにまずイエス様は私たちを、栄光の子として受け入れてくださったのです。

だから、神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい。(7)

神様の栄光が輝くチャンスをイエス様は与えてくださいました。しかしその栄光はまだ世界に十分に表れてはいません。なぜでしょう?それは、神様がご自身の輝き、すなわち「愛」を表すために、イエスを主信じる神様の子供たちを用いようと決められたからです。わたしを?こんなにダメな私を?誰もがそう考えてしまいますが。神様はそうお決めになったのです。


1) 強い人と弱い人

私たちがなかなか一致することが出来ないひとつの理由は、一人一人の信仰の表現が違っているからです。ローマの教会にも信仰の強い人と弱い人がいたように私たちの教会でも、一人一人の信仰の表現は違うのです。同じ真理に出会ってもそれに対する一人一人の反応は異なります。祈り方とか、礼拝の仕方、クリスチャンとしての生活態度。それらをめぐってパウロはずっと互いの違いを受け入れ合いなさいと勧めてきました。信仰の表現という点で一つ一つの教会に個性があってはいけないということではありません。たとえば町田には40位キリスト教会があります。違っているからこそひとつの教会になじめない人でもクリスチャンになれるのです。町田の教会のほとんどが使徒信条を告白することにおいて一致しています。それは、神様をどのように信じるのか、聖書・教会をどう考えるのかという点で決して妥協してはいけないところです。その上にユアチャーチはこのようなあり方で、このようなヴィジョンを持ってやってゆくという公開された教会の理念「信仰とヴィジョン」を持っています。このことに賛成できない、ということでなければどんなに個性的な人とでもユアチャーチは受け入れあうのです。


2) ユダヤ人と異邦人

受け入れあう必要のあるもうひとつの大きな違い。受け入れるのが難しい違いは、生まれ育った文化の違いです。当時ローマの教会は、異邦人とユダヤ人の混合した教会でした。当時のユダヤ人にとっては異邦人との違いは決定的なものだったのです。ユダヤ人も異邦人もともに含まれた「神の民」という概念は彼らにはなかったのです。歴史も、言葉も、習慣も互いに受け入れがたく思われていたのです。排他的な「民族意識」は現代社会にあっても、克服されなければならない問題です。

大きく異なる文化の違いさえ、ユアチャーチの中では一致できないという言い訳にはならないのです。ここに集う私たちは皆、違う国籍、背景、文化を背負ってここにいます。また同じ国籍でも民族が違えば、互いに偏見や誤解を持ちやすいのです。裕福な家庭に育った人もいれば、苦労してきた人もいます。違う背景を持った者同士が受け入れあうには、より多くの時間と努力が必要です。その意味ではインターナショナルなユアチャーチの一致は、日本の普通の教会よりも困難なのです。しかし、それは同時に私たちに対する神様の大きな恵みです。私たちには、より多くの成長の機会が与えられています。また、より多くの出会いの機会が与えられているのです。

B イエス様は誰のために来られたのか?

イエス様は誰のために来てくださったのでしょうか?ユダヤ人となってこの世界に来てくださったイエス様の教えがなぜ世界の人々の救いとなったのか?今神様はユダヤの民をどうごらんになっておられるのか?それは第一にユダヤ民族のためであり、続いて全ての異邦人のためでもありました。このことについて少し考えてみましょう。8節を読んでみましょう。

1) 第一にユダヤの民のために (8)

わたしは言う。キリストは神の真実を現すために、割礼ある者たちに仕える者となられたのです。それは、先祖たちに対する約束を確証されるためであり、

神様の救いの計画の中でユダヤ人の役割が重要であることに疑いを挟む余地はありません。神様は、神様に対する信頼を忘れた人類に最後のチャンスを与える壮大な計画を始めるに当たって、とてもユニークな方法を用いられました。自らを一人の人として派遣するという方法です。一人の人、イエスとしてこの地上を歩むためには、限定された地域を選ばなければなりません。そこで、神様はイスラエルを選ばれたのです。父祖アブラハムの神様の導きを熱心に求め、従おうとした心が神様の心に適ったのです。神様はアブラハムに約束しました

主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷 父の家を離れて わたしが示す地に行きなさい。 わたしはあなたを大いなる国民にし あなたを祝福し、あなたの名を高める 祝福の源となるように。 あなたを祝福する人をわたしは祝福しあなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る。」 (創世記12:1-3)

この神様の約束について、ペトロはエルサレムの神殿でイエス様を信じることが出来なかったユダヤの人々に向かってこう語っています。

あなたがたは預言者の子孫であり、神があなたがたの先祖と結ばれた契約の子です。『地上のすべての民族は、あなたから生まれる者によって祝福を受ける』と、神はアブラハムに言われました。 それで、神は御自分の僕を立て、まず、あなたがたのもとに遣わしてくださったのです。それは、あなたがた一人一人を悪から離れさせ、その祝福にあずからせるためでした。」(使徒言行録 3:25-26)

多くの約束の民の心はまだかたくなにされていますが、それは異邦人全体に救いが及ぶまでです。神様の救いの計画の中で大きな役割を果たした、この約束の民に対する将来の救いの約束は決して変わりません。やがて来るその日のために、イエス様はその30年ほどの生涯を通して、民族の心にご自身の生と死の記憶を刻み付けられたのです。

2) そして異邦人の望みとなるために (9-12)

さきほど読んだ、神様のアブラハムに対する約束の最後に 「地上の氏族はすべて あなたによって祝福に入る。」 とありました。この約束は主の民を始めとして全ての民族に及ぶというのです。 この約束は今地上を覆い尽くそうとしています。 9-12節を読んでみましょう。

異邦人が神をその憐れみのゆえにたたえるようになるためです。「そのため、わたしは異邦人の中であなたをたたえ、あなたの名をほめ歌おう」と書いてあるとおりです。 また、「異邦人よ、主の民と共に喜べ」と言われ、更に、「すべての異邦人よ、主をたたえよ。すべての民は主を賛美せよ」と言われています。また、イザヤはこう言っています。「エッサイの根から芽が現れ、異邦人を治めるために立ち上がる。異邦人は彼に望みをかける。」 (9-12)

神様のアブラハムに対する約束が異邦人にとっても希望であることは、創世記以降の旧約聖書で繰り返し記されています。カッコ内は旧約聖書の引用です。引用個所は週報右ページの一番下に記されていますから参考にしてください。

パウロ自身は、この約束の真髄をローマの信徒への手紙の4章全体を費やしてわかりやすく説明してくれています。

神はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束されたが、その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされたのです。 律法に頼る者が世界を受け継ぐのであれば、信仰はもはや無意味であり、約束は廃止されたことになります。 実に、律法は怒りを招くものであり、律法のないところには違犯もありません。 従って、信仰によってこそ世界を受け継ぐ者となるのです。恵みによって、アブラハムのすべての子孫、つまり、単に律法に頼る者だけでなく、彼の信仰に従う者も、確実に約束にあずかれるのです。彼はわたしたちすべての父です。 「わたしはあなたを多くの民の父と定めた」と書いてあるとおりです。死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ、その御前でわたしたちの父となったのです。(ローマ 4:13-17)



様々な違いがあっても信じる者は誰でも、アブラハムに始まる神の民に属しているのです。そして互いにそのようなものとして受け入れあうのです。最後の一節からこの一致を保つために大切な事をお話しします。13節です

C ユアチャーチが神様に喜ばれる教会であり続けるために必要なこと

希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。 (13)

それは希望の源である神が与えて下さるものです。そして、ユアチャーチが神様に喜ばれる教会であり続けるためになくてはならないものなのです。

1) 信仰によって得られる喜びと平和 (15a)

第一にそれは、「信仰によって得られる喜びと平和」です。神様はすべての人に喜びと平和を与えたいと願っておられます。それなのに私には平和も喜びもないと嘆く人がいるのはなぜでしょう?それは神様を信頼していないからです。喜びはあなたの心にあふれているでしょうか?もしそうでないとしたら、なすべきことは、もっと神様に信頼をおくことです。そして心がこの喜びで満されている人々の間を、神様は平和で満たすのです。

2) 聖霊の力によって得られる希望 (15b)

もう一つのことは聖霊の力によって得られる希望 です。希望は明日に向って生きてゆくための力です。神様は他のもののようにその時限りの喜びや平和を下さる方ではありません。神様は喜びや平和を未来への希望とともに与えて下さるのです。私たちは希望がどこから来るのか知っています。決してあなたを裏切らな希望は、決してあなたを裏切らないものからしかやってきません。イエス様は天に帰られる時、聖霊様を、いつもともにいて下さる方として私たちに送られました。私たちの希望の根拠はここにあります。目の前が行き止まりのように見えていても希望を持ち続けることは出来るのでしょうか?状況が悪ければ悪いほど、聖霊様はその力を発揮して下さいます。そして私たちは願い求めることが出来るのです。


メッセージのポイント

もしパウロが今の時代に生きていてユアチャーチに手紙を書いてくれるとしたら、彼は私たちに、どんな事を勧めてくれたでしょうか?ユアチャーチにはユダヤ系の人こそ(今のところは)いませんが、世界中の様々な地域から東京に来ている人々によって構成されている教会です。弱い人もいれば強い人もいます。そんな意味ではローマの状況に少し似ているかもしれません。「信仰によって得られる喜びと平和と、聖霊の力によって得られる希望」(13節)、それはパウロがローマの信徒たちに勧めている、「違いを超えて互いに受け入れあう」ことのできる秘訣です。そして、そしてこの秘訣は私たちにとっても大切なものです。

話し合いのヒント

1) ユアチャーチはどんな教会?と訪ねられたら、あなたはどう答えますか?

2) 私たちが神様に喜ばれた歩み続けるために大切なことは何でしょう?

<参照聖句>

神様のアブラハムに対する約束:創世記17章1〜8節、イザヤ書41章8,9節、使徒言行録3章25,26節

割礼について:創世記17章9〜26節、ローマの信徒への手紙4章9〜12節

イスラエルの救い:ローマの信徒への手紙11章25〜32節

すべての人の救い:ローマの信徒への手紙4章

<引用個所>

サムエル下22:50、詩編18:50

申命記32:43

詩編117:1

イザヤ11:10