2005/9/4 メッセージノート ローマの信徒への手紙15章14-21節(シリーズ第32回)

健康なプライドを持とう 

もうすぐローマの信徒への手紙のメッセージシリーズも終わりに近づいています。今日からはこの長い手紙の結びの部分です。この部分は、@パウロの「自分がどのような者として生かされているのか」という認識と、福音を宣べ伝える者としての基本姿勢(今日のテキスト) Aこれからの宣教の計画と祈りの応援のリクエスト(22-33) B挨拶と最後の勧め(16章) からなっていますが、きょうは@の部分から、パウロの自己認識と宣教スピリットを知る事を通して、私達自身がクリスチャンとしての自分をどう見るのか、どのように将来に向かって歩んでゆくのかという事を考えてみましょう。

皆さんは自分の行き方、存在に自信がありますか?自信とは何でしょう?日本語では自信は自分を信じるという漢字の組み合わせです。ところがクリスチャンは自分に信頼をおくことはやめ、神様に信頼をおく者となった人です。同様に、自分を誇る事をやめ神様を誇る者となった人でもあります。聖書は、神様を信頼せずに自分を信じること、神様を誇らずに自分を誇ることの間違いを教えてくれます。これらの間違いがすべての問題の根となっているのです。

だとするとクリスチャンにとっては自信やプライドは邪魔なものなのでしょうか?いいえ、むしろ聖書は正しい自信、健康なプライドを持つように勧めてくれています。これらがなければ私たちは遣わされた所で、キリストの香をはなつことは出来ません。

先週のメッセージで、神様は私たちに、喜び、平和、希望を与えてくださっている、とお話ししました。正しい自信、健康なプライドはここから生まれます。クリスチャンの自信は正確に言うなら、神様を信頼している自分に対する信頼です。自分自身は神様を信頼するほかない小さな存在であっても、自分は確かな方に生かされているという自信です。プライドも同じように、自分自身に根拠のあるプライドではなく。神様の目に尊い者とされているというプライドです。それらは他の人を軽蔑したり、裁いたりすることのない健康なプライドです。


A 十分な恵みのうちを歩んでいる私たち

1) 与えられている豊かな恵み (14)

先週まで学んできたように、ローマの教会には私たちと同じように問題があり、それらはほっておけば教会の存亡にも関わる深刻な問題でした。パウロは、彼らがせっかく得ることの出来た恵みからそれてしまわないよう、かなり厳しく伝えていたところもありました。それにもかかわらず、パウロは次のようにこの手紙の結びの部分を始めています。14節です。

兄弟たち、あなたがた自身は善意に満ち、あらゆる知識で満たされ、互いに戒め合うことができると、このわたしは確信しています。(14)

それは、ローマの信徒たちが、対処しなければならない問題があっても、自分たちで互いに解決する能力を持っているという確信です。パウロはコリントの教会にも手紙を送っています。コリントの教会はパウロ自身が訪れて始めた教会でした。コリントの教会にも多くの問題があり、実際にパウロが二度も再訪しなければ事態は収拾されなかったのです。ローマの教会はパウロの宣教によって始まった教会ではありませんでした。手紙が書かれた当時はまだ多くの小さな家の教会存在していた状態だったようです。十分に組織されてはいませんでしたが、コリントのように無秩序な状態ではありませんでした。どの時代の、どの地域の教会であれ、問題が起こり、信仰の純粋さが損なわれることが繰り返しあるのです。「私たちの教会は常に正しい」と思うことが堕落への一番の近道です。大切なことは、問題に気付くセンスと謙遜、問題を解決する知恵と力を聖霊の助けによって磨き続けることです。私たちにはそれが出来るほど、十分な恵みを与えられているのです。

2) 祭司という役割 (15-16a)

15節から16節の前半までを読んでみます。

記憶を新たにしてもらおうと、この手紙ではところどころかなり思い切って書きました。それは、わたしが神から恵みをいただいて、異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となり、神の福音のために祭司の役を務めているからです。(15-16a)

記憶は時間が経つにつれて薄れてゆきます。長く憶えておくべき大事なことは、繰り返し記憶に焼き付けておかなければなりません。そのために、パウロはまだ行ったこともないローマの人々に対して、遠慮なく率直に意見を書きました。私たちは生涯にわたって神の言葉に基づく戒めを聞き続ける必要があるのです。残念ながら教会を「卒業」してしまう人がいます。「もう教会で学ぶことは何もありません。今日から私は教会という組織なしに一人で神様に従ってゆきます。」 と言って。けれども教会は学校ではありません。キリストの体です。体を離れて器官が生き続けることが出来ないように、クリスチャンは教会を離れては生きては行けません。目に見える体に属していないなら、自分でどう信じていようと「生きたクリスチャン」ではないのです。

パウロは、ローマの人々がパウロの忠告を受け入れるべき理由をここで説明しています。彼は、「私は神様の恵みによって救われた。救われただけでなくライフワークを与えられている。それは異邦人に福音を伝えることだ。」 と自覚していました。彼は、祭司として、と書いています。自分の神様に対して果たすべき責任として、書いているということです。祭司とはどのような職務なのでしょうか?

 祭司はイスラエルの歴史のはじめから立てられた務めです。イスラエルの12部族のひとつレビ族は他の部族とは異なり民族の宗教的な役割を担う人々と定められていました。その中心的な働きとして、祭司はこのレビ族に属する者が任命されていたのです。 祭司は、礼拝を主催する者、祝福を取り次ぐ者、掟を教える者として立てられていました。

プロテスタント教会の始まりとなった宗教改革は今からおよそ500年前にヨーロッパで起こりました。この改革の理念の一つは「全てのクリスチャンは祭司である」という新約聖書の教える真理の再確認です。

あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。(ペトロ1 2:5)

しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。(ペトロ1 2:9)

それ以前の教会は、聖職者だけが祭司的な役割を担うという、ユダヤ教的あり方にいつの間にか後退してしまっていたのです。

しかし、新約聖書が教えるところによれば、礼拝を主催することが出来、祝福を取り次ぐことが出来、掟を教えることができる者として誰もが祭司なのです。それは牧師だけの特権ではありません。牧師は教会の責任者ではあっても、その教会の唯一の祭司ではないのです。あなたはミニチャーチや家庭での礼拝を導くことが出来ます。置かれている場所で人々に神様の祝福を与えることが出来ます。そして神様にあって正しい生き方を教えることが出来るのです。それは、「出来る」という権利であるというよりは、あなたに神様が与えておられる「職務」なのです。


3) 神様に献げられた生涯 (16b)

そしてそれは、異邦人が、聖霊によって聖なるものとされた、神に喜ばれる供え物となるためにほかなりません。(16b)

パウロはその生涯を神様に献げられたものと自覚していました。そして異邦人が自分と同じように、生涯を神様に委ねる生き方を選ぶよう勧める事を自分のライフワークと信じていたのです。それが、神様が聖書を通して教える人間本来の生き方だからです。私たちが「神に喜ばれる供え物となる」ということは「私の生涯はあなたにお献げしました」ということです。こういうと何か、みんなが自分の幸せを求めて生きているのに、クリスチャンになるということは、幸せを求めるという当然の権利を放棄して生きることになるのかと、感じる人もいるでしょう。でも聖書はそれが、人の本来の生き方だと教えるのです。自分だけの幸せを求めても決して幸せになることは出来ません。どんなに満ち足りた生活をしていても、どこかで飢えて死んでゆく人の事を考えてしまうと、満ち足りた生活も居心地の悪いものになってしまいます。だからいろいろと理由をつけて自分には関わりのないことと納得しようとしますが、神様があなたに与えてくださった良心は結構しっかりしているのです。だから私たちの心にはいつも欲望と良心が戦う葛藤があります。かといって、自分の欲望を屈服させて、ただ人のために尽せるほどには、私達の欲望は聞き分けが良くはないのです。そこで唯一の解決の道は、あなたの人生を神様に献げることなのです。私はいつも皆さんに、「神様は皆さん一人一人の将来に神様が素晴らしい計画を用意していてくださいます。その計画はあなたが自分で考えている計画よりはるかに素晴らしいものです。」とお話ししています。神様に人生を献げるとはこの計画によって歩むということです。それは神様があなたを造られた本来のあり方に沿っているので、神様に祝福され、人々に喜ばれ、自分にとっても満足な人生なのです。私たちはもう自分の欲望の追求のために生きているのではありません。


B ここに私たちの誇りがある

1) 健康なプライド(17)

そこでわたしは、神のために働くことをキリスト・イエスによって誇りに思っています。(17)

パウロの生涯は困難に満ちたものでした。しかし、死ぬまで自身の生き方を変えようとはしませんでした。神のために働くことをキリスト・イエスによって誇りに思っていたからです。私たちはパウロと同じように、神のために働くことをキリスト・イエスによって誇りに思うことができます。この誇りが、あなたの前に立ちはだかる障害を乗り越えてゆくことの力となります。人が理解してくれなくても、敵対する人がいても、自分のしていることが神様の働きの一部であるなら、働き続けることが出来るのです。ところで自分の働きが、本当に神様の働きの一部であることを、何が保障してくれるのでしょうか?いくら自分が生涯をかけて主にお仕えしたと胸を張ってみたところで、本当に神様のためにはなっていなかったとしたら、それは意味のない自信、間違ったプライドだったということになってしまいます。そうなってしまわないための答えは A-2 祭司という役割 でもお話しした。キリストの体、教会にしっかりとつながっているということです。本当に大切なことですから、パウロに倣って繰り返しますが、教会は学校ではありませんから、卒業も中退も落第もありません。教会はキリストの体です。体を離れて器官が生き続けることが出来ないように、クリスチャンは教会を離れては生きては行けません。目に見える体に属していないなら、正しい自信、健康なプライドを持つことは出来ません。

2) 私たちは何をどのように伝えるのか?(18-19)

キリストがわたしを通して働かれたこと以外は、あえて何も申しません。キリストは異邦人を神に従わせるために、わたしの言葉と行いを通して、また、しるしや奇跡の力、神の霊の力によって働かれました。こうしてわたしは、エルサレムからイリリコン州まで巡って、キリストの福音をあまねく宣べ伝えました。 (18-19)

神様が自分に大きな恵みを下さっているのはわかるのですが、神様の恵みを人にどう伝えたらよいのかわかりません。と質問してくれる人がいます。この個所にそのヒントがあります。イエス様はあなたを通して働かれます。神様の恵みはあなたの言葉と行いの両方によって伝わります。またあなたを通して表される奇蹟や癒しによっても人々に伝わります。あなたはパウロのように奇蹟を起こすことは出来ない、とお思いですか?そういう人はもっと自信を持ってください。神様は必要なら、あなたを通しても聖書に出てくるような奇蹟や癒しをなさる方です。その時が来て自分がびっくりしないように、心の準備をしておいたほうがいいですよ。もう神様が奇跡的に介入してくださるのでなければどうにもならないというところに立たされたなら、大胆に奇蹟や、癒しを求めてみることです。神様は、あなたの思い通りの方法ではないかもしれないけれど、解決を与えてくださるでしょう。

ここでもう一つ大切なことは、私たちが伝えるのは「キリストの福音」だということです。私たちの文化やライフスタイルではありません。私はユアチャーチの文化が大好きですが、それ自体は「キリストの福音」ではありません。「キリストの福音」とは何でしょう?それは神の子イエスキリスト様が、あなたの罪のあがないとして十字架にかかりました。あなたがそれを信じ悔い改めるならあなたに永遠の命が約束されます、というグッドニューズです。私たちは、この良い知らせが「あなたのものでもありますよ」と伝えるためにユアチャーチと名乗っているのです

3) 誰に伝えているのか? (20-21)

最後にこの良い知らせをどのような人々に伝えたらいいのかということについて、20から21節を読んで考えてみましょう。

このようにキリストの名がまだ知られていない所で福音を告げ知らせようと、わたしは熱心に努めてきました。それは、他人の築いた土台の上に建てたりしないためです。 「彼のことを告げられていなかった人々が見、聞かなかった人々が悟るであろう」と書いてあるとおりです。 (20-21)

私が町田で教会を始めるに当たって、ある人は既に40近くの教会がある町田市ではじめる意味があるのでしょうか?と尋ねました。このテキストを読んで、「私たちはどこか教会のない町で始めるべきだ」と、考える人がいても不思議ではありません。町田市の人口は40万を少し超えたところです。全ての人にイエス様を知ってもらいたいのは当然ですが、先ずは10%の人々が主を受け入れるために、その第一歩で1%の町田市民が日曜日の朝、人々とともに礼拝をささげるために、どれほどの教会が必要か想像できますか? 今ある教会が平均100人くらい収容できれば人口の1%はクリアできます。しかし、今町田にある教会の全部のキャパシティーでは、それぞれ3回くらい礼拝をしなければ、その数をカバーすることは出来ません。

町田にユアチャーチが必要なのは、単に数の問題だけではありません。それぞれの教会にはその教会にしか届くことのできない人々がいるからです。教会を始める時、その地域にある教会のクローンを作ることは意味がありません。町田のそれぞれの教会は違う個性を持っているのです。

私たちは誰にイエス様を紹介しようとしているのでしょうか?それは、町田に定期的に集まるのに無理のない距離(人によってずいぶん違うのですが)に住んでいる、まだイエス様を知らない人々です。また現在教会に属していないクリスチャンにもここにあなたの教会がありますと働きかけます。教会を卒業、中退してしまった人が多くいるからです。私たちは、それぞれの持っている人間関係の中で伝えてゆきます。ホームページを見たことがきっかけとなって集ってくれている方が沢山いることはウエッブマスターとしては大変うれしいことですが、私達の人間関係の中から、イエス様に出会う人々が増えてゆく事を、それ以上に期待して、皆さんの大切な人々のために祈ってゆきましょう

メッセージのポイント

パウロの苦難に満ちた宣教の生涯を支えたのは、神様の何にも比べようのない大きな深い恵みでした。パウロは、この恵みによって成し遂げることが出来たことを、素直に「誇り」と感じています。自分には何も誇るべきことがないとがっかりする必要はないのです。誰も自分の「素晴らしさ」を誇ることの出来る人はいません。しかし、クリスチャンなら誰でも誇れることがあるのです。それは、与えられた恵みによって自分の役割を果たし、生涯を神様にささげて生きているという「誇り」です。あなたもパウロのように、神のために働くことをキリスト・イエスによって誇りに思って下さい。

話し合いにヒント

1) あなたが誇りに思っていることは何ですか?

2) パウロは何を誇りとしていましたか?