2005/10/16 メッセージ コリントの信徒への第一の手紙シリーズ@(1:1-9)

本当の豊かさへの招き

序 <コリントの信徒への第一の手紙>について

使徒パウロは、アンティオケアを基点に三回の長い伝道旅行をしました。コリントにはその二回目の旅行で訪問し、1年半滞在して教会の基礎ができました。紀元50年ころのことです。コリントは交通の要衝で、様々な人々が住む豊かな国際商業都市でした。それはコリントの町の経済的豊かさと、宗教的多様性が、良きにつけ悪しきにつけ、できたばかりの教会に大きな影響を与えました。パウロはコリントを訪れる直前、アテネで宣教しましたが、そこでは思うような成果を得ることは出来ませんでした。皆さんも御存知のようにかつてアテネはギリシャの中心都市でした。しかしローマ帝国が支配するこの時代には、学問の中心はエジプトのアレキサンドリアに、そして商業ではコリントにその座を奪われていました。神話と哲学の過去の栄華を残す保守的な町だったので、福音を受け入れる人は少なかったのです。アテネに比べるとコリントは新しいものを貪欲に取り入れようとする活力にあふれていました。多くの人が福音を受け入れ、パウロの滞在中にクリスチャンの数は大きなものになりました。

人の成長には二つの面があります、身体的成長と内面的な成長です。どちらかだけの成長は完全な成長とはいえません。教会の成長も同じです。特に成長期にはそのバランスが崩れて人が苦しむことがあるように、教会にも問題が起こるのです。コリントの教会はその身体的な成長に、内面的な成長が追いつかずにバランスを崩していました。人はどんどん増えていましたが、コリントの町の享楽的、退廃的文化に影響されない、強さはありませんでした。それで、コリントの教会には様々な問題が起こったのです。パウロはそのために手紙を書き、テモテを派遣し自らも訪問しなければなりませんでした。この手紙は、パウロが1年半の教会開拓を終え。三回目の宣教旅行でエフェソに滞在している時に書かれたものです。

私たちは、この手紙から学び、この地で神様の働きを委ねられた教会としてバランスの取れた成長をしてゆきましょう。

A.招いているのは神様です

1) 召されているとはどういうこと?(1-2)

神の御心によって召されてキリスト・イエスの使徒となったパウロと、兄弟ソステネから、コリントにある神の教会へ、すなわち、至るところでわたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に、キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ。イエス・キリストは、この人たちとわたしたちの主であります。(1-2)

手紙を書いているパウロと読み手であるコリントの人々の共通点は、ともに「神様に召された者」だという点です。「召す」はあまり使わない言葉ですが「人を呼び寄せる」「招く」という意味の尊敬語です。コリントの人々と同様、私たちもまた神様に呼び寄せられて、招かれて、ここにいるのです。今も世界中いたるところで主イエスの名を呼び求めている人がいます。言い換えるなら、イエス様にだけ信頼をおいて、まだ解決していないことでさえ、主に委ねて待つことができる人々です。それが、ほんとうの「クリスチャン」の意味です。クリスチャンとは教会のメンバーになった人のことではありません。行いが立派な人がクリスチャンなのでもありません。毎週礼拝をかかさない人のことでもありません。主イエスキリストを信頼している人がクリスチャンです。主を信頼しているから、人を愛することが出来るのです。もちろん愛することにおいてクリスチャンは完全ではありません。

そこで「聖なる者にされた」という言葉に注目しましょう。「聖くなった」とは書かれていません。内容は伴っていないのだけれども、神様が聖なる者と認めてくださった者です。名実ともに聖なる者は神様以外にはおられません。にもかかわらず、私達をご自身と同様に聖なる者と認めてくださる。これほどの恵みがどこにあるでしょうか?

神様はあなたが道徳的に立派だから、他の人に対する態度が正しいから、素晴らしい才能を持っているから招いたのではないのです。神様は、聖なる者とはむしろ対極にある私たちをただ愛し、赦し、受け入れることを願い、私達を召されたのです。コリントの教会の様子について読んでみると、びっくりするような問題が出てきて、私達の教会は結構いいかも、と思ってしまいます。しかし、日常生活の中で失敗をしたり、傷つけあってしまったりして、自分の無力さや、醜さを感じてしまう私たちもおなじような者です。「聖なる者にされた」者なのです。

神様の願いは、あなたが完全でないこと嘆くことではありません。また、どうせなれやしないと、あきらめることでもありません。むしろ私たちが一生をかけて、聖い神様の完全に向かって、神様の助けを借りながら、歩き続けることが神様の願いなのです。

そういう人生の歩みに神様はあなたを「召され」たのです。


2) クリスチャンはなぜ信仰を誰かに伝えたいのか? (3-4)

わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。 わたしは、あなたがたがキリスト・イエスによって神の恵みを受けたことについて、いつもわたしの神に感謝しています。(3-4)

「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」今、人々はパウロに習って手紙の最初や最後に、このような祈りの言葉を加えることが、しかしパウロにとってそれは、挨拶の言葉以上のものでした。パウロがイエス様に出会ってからの半生は、この言葉のままに生きた人生でした。「私が得ることの出来た恵みと平和をあなたにも」それがパウロのすべての人に対する願いであり。それが実現してゆくことが彼の喜びだったのです。そして、この願い、喜びのために、生涯を賭け、そうしていなければ受けることのなかった苦しみも多く味わいました。でもそれは決して悲壮な覚悟、犠牲的精神で引き受けたものではありませんでした。むしろ与えられた喜びの素晴らしさに、いても立ってもいられなくなって、伝え続ける生涯を続けたのです。

「神様の恵みと平和」それは具体的に言うならどのようなものでしょうか?完全に信頼できる方が、不完全な私を赦して受け入れてくださった。愛してくださったということです。だから私たちは、どんなに痛い目に合っても、見返りを求めずに、赦し、受け入れ、愛し続けることが出来るのです。時にはあまりにも大きな傷を受けて倒れてしまっても、たった一人の完全な方があなた癒し、また愛に生き始めることが出来るようにしてくださるのです。私たちは生きている限りイエス様を伝え続けます。それは「リバイバル」を起こすとか、教会を大きくするためではありません。自分が何人の人をキリストに導いたという誇りを得るためでもありません。そうではなく一人でも多くの人に「神様の恵みと平和」を得て欲しいからです。物質的には大変恵まれた社会に私たちは生きています。しかしこの社会に決定的に欠乏し、そのために赤ちゃんからお年よりまでが苦しんでいるものがあります。それは「愛し合うこと・赦し合うこと・受け入れ合うこと」です。私たちは生活を通してこの恵みの輪を広げているのです。

B.招きに応えて与えられる豊かさ

1) 言葉・知識・賜物 (5-7)

あなたがたはキリストに結ばれ、あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされています。 こうして、キリストについての証しがあなたがたの間で確かなものとなったので、その結果、あなたがたは賜物に何一つ欠けるところがなく、わたしたちの主イエス・キリストの現れを待ち望んでいます。(5-7)

当時のクリスチャンたちは、イエス様が再び来られるという約束が、すぐにでも成就することを期待していました。過酷な状況にあっても、豊かな心を保つことができたのは、キリストと結ばれることによって、絶えず供給されていた言葉と知識によった、と書かれています。神様の言葉と知識を得るために、私たちはキリストの体の一部となります。その中にあって神様を礼拝し、聖書を読み、互いに教えあうのです。体の一部になるということが、キリストに結ばれること=クリスチャンになるということの意味です。このつながりの中で、心の栄養を満たされ、それを愛に変えて人々に与えることが出来るのです。

この言葉・知識は、人による言葉・知識ではなく神様の言葉、神様の知識です。この言葉と知識が私たちを神様からのあらゆる賜物でさらに豊かにしてくれるというのです。賜物とはプレゼントのことです。

神様は私たちによいものを与えたいと願い、用意して下さっているのです。それをあなたが手にすることができるかどうかは、あなたがキリストに結ばれ神様の言葉と知識を素直に求めるかどうかにかかっています。


2) 確かな土台 (8-9)

主も最後まであなたがたをしっかり支えて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、非のうちどころのない者にしてくださいます。 神は真実な方です。この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです。(8-9)

建物がどんなに立派でも土台がしっかりしていなければ、地震に耐えることが出来ません。さらに、建物が立派で土台がしっかりしたものでも、両方がしっかりと接合されていなければ意味がありません。やっかいなことに、一度、建物が完成してしまうと、土台の善し悪しも、接合した部分も、外からは簡単にはわかりません。大地震がきて初めて分かることになるのです。

私たちは皆、人生という家を建てます。誰もが素晴らしい人生を建てたいと願います。しかし土台について、その土台とどうしっかりと結びつくかを考える人は多くはありません。あなたはどんな土台に人生を建てましたか?聖書は、あなた自身を、世界のすべてを創造された神様という土台に、イエス・キリストという強力なボルト&ナットで固定しなさいと勧めているのです。マタイによる福音書の7章とるかによる福音書の6章にこんなイエス様の言葉があります。今朝はルカによる福音書の6章46-49節から紹介します。

「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。 わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。 それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった。 しかし、聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている。川の水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その壊れ方がひどかった。」(ルカ 6:46-49)

あなたはまだ人生の土台について考えなければと思うほどの人生の危機に遭遇したことはないかもしれません。しかし本当は、地震が来てあわてる前に土台にしっかりと結びつけるなら、それはもっと賢いことです。コヘレトは言っています。

「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。「年を重ねることに喜びはない」と言う年齢にならないうちに。 太陽が闇に変わらないうちに。月や星の光がうせないうちに。雨の後にまた雲が戻って来ないうちに。 その日には家を守る男も震え、力ある男も身を屈める。粉ひく女の数は減って行き、失われ窓から眺める女の目はかすむ。」(コヘレト12:1-3)

聖書は人生の選択を整理して、実は二者択一なのだと教えてくれています。世界の全てを造られた神様が人をお召しになる、招いておられるというのです。そして人はその招きに応えるか応えないかの選択が求められています。クリスチャンとは神様の招きに応えて、神様を信頼して歩むことによって全ての点で豊かにされている者です。

メッセージのポイント

私たちは、何を心のよりどころとして生きるのか?どのような信仰を持つのか、あるいは持たないのか?神様を信じるのか、信じないのか?といった人生の選択肢がたくさんあるように感じています。ひとつを選び取り、後のすべてを捨てることに不安を覚えます。あるいは選択をしないほうが無難だと考える人も多いのです。しかし選択しないことは誤った選択をすることと同じではないでしょうか?態度を保留している間は、選び取ることによって与えられる豊かさを享受できないからです。聖書は人生の選択を整理して、実は二者択一なのだと教えてくれています。世界の全てを造られた神様が人をお召しになる、招いておられるというのです。そして人はその招きに応えるか応えないかの決断を求められています。クリスチャンとは神様の招きに応えて、全ての点で豊かにされている者です。

話し合いのヒント

1) あなたはなぜ神様の招きに応えようと決心したのですか?

2) 神様はあなたにどのような豊かさを与えていてくださるのでしょうか?