2006/1/8 メッセージ (マルコによる福音書シリーズB1:29-34)

病のいやしと悪霊の追い出し

飛行機にお乗りになった方は多いと思います。でも、どうして重い飛行機が安全に飛べるのか説明できる人はほとんどいません。つまり、理解しているのではなく、航空会社や造った人やパイロットを信じているのです。

 それでは神様のことはどうでしょう?飛行機は信じられるのに、神様をなかなか信じられないのはなぜでしょう?同じ人間が造った飛行機なら、時間と忍耐があれば、その仕組みを理解することが出来、操縦することができるようになります。 しかし神様は人間が造った方ではなく、人間を造った方です。信じることは出来ても、理解できる人は誰もいません。

この国の、宗教を信じない、知識人たとえば大学教授などに聞くと、「もし信じるとしたらキリスト教かな」という人が多いのです。しかし同時に「処女降誕とか、癒しとか悪霊追放、そして三日目の復活なんて言わなければ信じるんですがね」と付け加えたりします。

つまり理性で納得できることなら信じるというのです。でも本当は「理性で納得する」ことは「理解すること」であって「信じる」ことではありません。

 クリスチャンホームで育った方なら、小さな子供だった時に、腹痛や熱のために親が癒しを祈ってくれたことを憶えていると思います。私の家はクリスチャンホームではありませんでした。私が幼児だった頃、母は私のために痛む所に手を置いて、どうしてくれたと思いますか?そのような時母は「いたいの、いたいの、とんでいけ」といったものです。日本の宗教を持たない家庭でも、よくある「ミニストリータイム」の風景です。

A. イエス様がなさったこと

1) 病のいやし

イエス様の癒しというと、目が見えるようになったとか、歩けない人が歩き出したという、著しい癒しを思い浮かべることが多いのですが、イエス様は、深刻な病だけを癒されたわけではありませんでした。ペトロの妻の母親は彼の家に同居していたようですが、この時は熱を出し寝込んでしまっていました。母親が苦しんでいる子供をかわいそうに思って、「熱よ、下がれ」というのと同じように、イエス様は彼女をかわいそうに思ったのです。初めに29-31節を読みましょう。

すぐに、一行は会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った。ヤコブとヨハネも一緒であった。(29) シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。(30) イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。(31)

イエス様がご自分の宣伝のために癒しをなさった方ではなく、「憐れんで」癒される方だということが、このさりげない癒しでわかります。マルコによる福音書は詳しく触れていませんが、ルカは、イエス様が熱を叱った、と記しています。

癒すことと、癒しを祈ることとは厳密に言うと違うことです。イエス様はここで「天のお父様この人を癒してあげて下さい」と祈ったのではなく、熱を叱りつけて追い出したのです。このことは私たちがいつも礼拝後にもっているミニストリータイムのためによいヒントとなることです。後半の、私たちがすべきことの2)で詳しくお話しします。

2) 悪霊の追い出し

32節から34節を読んでみましょう。

夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。(32) 町中の人が、戸口に集まった。(33) イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである。(34)

人々が、日が沈んでから病人や悪霊に取りつかれた人を連れてきたのは、安息日が終わるのが、日没だからです。大変多くの人々が、ペトロの家の戸口に集まってきたようです。イエス様があらわれる前には、癒されることや解放されることがなかった人々がこのコミュニティーの中に大勢取り残されていたということです。そして、イエス様は人々の重荷を取り除かれました。

 癒しについては、納得できても、「悪霊の追い出し」と言われると、何か気味が悪くて関わりたくない、と思っている人が多いのです。せっかく人々に評判のいいキリスト教なのに、オカルトと同じに見られると心配します。しかし、イエス様や最初の弟子たちだけが実際に行ったことが聖書に記録されています。私たちはそれをなかったことにすることは出来ません。 

 悪霊に取りつかれているとみなされていた人々の中には、現代の医療では精神疾患であって、治療可能な例もあったと思われます。でも、2000年前には、治療できることは今ほど多くはありませんでした。イエス様に追い出していただくしかなかったのです。

 しかし全ての追い出しの例が、合理的に説明できるわけではありません。このことは、謙虚にならなければ、医療で救われない人から「悪霊の追い出し」のチャンスを奪うことになります。

 イエス様が単に、今で言う精神医療を、その時代にあった方法でなさった、というだけではないことが34節後半で分かります。「悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである。」

 イエス様を知っていたということは、「イエス様は神の子、救い主」と知っていたということです。まだイエス様が公にご自身の本質をなさる前に、悪霊は知っていたことになります。悪霊は人間の人格以上の存在であり、人を支配していたことが分かります。しかしイエス様の権威の前には滅ぼされるしかない存在でもあったのです

神様は、どんな時代でも、その時代の理性を超えて働いてくださいます。だから私たちは、人に出来ないことでも神様にはできると信頼することができるのです。

B. 私たちがすべきこと

1) 苦しんでいる人をイエス様のもとにつれてゆく

私たちに与えられている賜物は様々です。誰もが、いやしの賜物をいただいているわけではありません。ましてや本当に「悪霊の追い出し」の賜物を与えられている人は、さらに少ないのです。しかしこのような特別な賜物がなくてもできることがあります。32節に出てくる「人々」のように、苦しむ人々をイエス様のところへ連れてゆくことができるのです。もしあなたに、熱を叱って追い出す自信がなくても、「この人をいやして下さい」と祈ることができます。そうして、あなたの祈りにあってその人はイエス様の前に引き出されることになるのです。また教会に少しでも興味を持っている人なら、聖書の言葉に励まされるように礼拝に誘うこともできるのです。

しかし連れてゆくといっても、それは教会の集りに連れてくることとは限りません。あなたがイエス様と共に歩んでいるなら、あなたが誰かとー緒にいる時にイエス様もそこにいて下さるということになります。あなたが行くところ、行くところイエス様は一緒にいて下さいます。

ところがあるクリスチャンは「イエス様、あなたが私の親友であることはかくしておきたいので、かくれていて下さい」と言いながら人々の中にいます。これでは世の光・地の塩とはなれません。少数ですが逆のタイプのクリスチャンもいます。いつでもどこでも、伝道しなくちゃ、という思いから、自分ではなくイエス様を前面に押し出してしまいます。でもそこにいる人は、あなたのことは知っていても、イエス様のことは知りません。イエス様は、あなたの言葉を通して、あなたの友達と知り合うのではありません。あなたの人格を通して、ご自身をあかしされるのです。ですから職場や教室では、自然な形で、あなたがクリスチャンであることを知られるように、祈り求めて下さい

2) 主のいやしを祈り求めるのか?あなた自身がいやすのか?

ユアチャーチの礼拝ではメッセージのあとミニストリータイムと呼ぶ時がもたれます。ミニストリーとは「務め」「仕える」といった意味の言葉ですが、なぜ「祈りの時」と言わないのか知っていただきたいのです。この時、私たちは互いの必要のために仕えます。もちろん、神様、いやしてあげて下さいと祈ることもできます。でも、「熱よ、さがれ」「恐れよ、去れ」とイエス様のように命じる権威が与えられていることを覚えて下さい。おなかがいたいと泣いている子供の母親はたよるべき権威を知らなくても、情熱をもって「いたいのとんでけ」と命じます。権威が与えられている私たちが、躊躇している必要はありません。(マルコ16)いやしのたまものは、豊かに与えられているかどうか、試してみなければわかりません。ミニストリータイムが礼拝の中にあるのは、それがミニストリーしてもらう人のためだけにあるのではなく、ミニストリーを行う人が与えられている権威と力を確め励まされる時でもあります。そして何より、そこに神様の栄光があらわされ、そこにいるすべての人が感謝と喜びに満される、礼拝に欠かすことのできない大切な要素だからなのです。

3) 現代における悪霊の追い出し

イエス様や弟子たちが悪霊を追いだしたことが事実だとしても、今の私たちにどのような意味があるのか?という疑問があります。精神医学はこの100年の間に非常に発展しました。それでも先にふれたように、霊的な問題がすべて、説明がつくわけではありません。バチカンでは、今でもエクソシスト養成講座が開かれていますが、最近ますます受講する神父さんが増えているそうです。

悪霊に取りつかれた者とはどのような人々をさすのでしょうか?この世界に生きている限り、「神様の願いではなく、自分の欲望に従え」というというサタンのささやきは、誰もが体験するものです。そしてついそれにしたがって、行動してしまう人、カッとなって暴言を吐いたり、暴力を振るってしまうという人もいます。そのように一時的に自分の感情をコントロールできない人がみな悪霊に取りつかれているのではありません。私たちは、病の癒しと違い、日常で経験することがほとんどないので、このことについては誤った判断をしがちです。よほど慎重にならなくては、悪霊がついていると誤解して人をがっかりさせてしまうことになります。私たちは「あなたには悪いものがついている、それが不幸の原因です。おはらいしてあげましょう」とは言いません。あらゆる不幸の原因は罪であることを知っているからです。

その上でもなお、追い出しが必要である場合があるということをわたしは認めています。しかし、それは訓練なしにやれるほど簡単なことではありません。また、みんなができるように訓練する必要があるほど、多くあることではありません。牧師に任せておいていいことです。このことで何か心配なことがあれば、どうぞ私に相談してください。

メッセージのポイント

福音書はイエス様が多くの癒しと、悪霊の追い出しをなさったことを記録しています。イエス様は、苦しむ者を憐れんで下さり、その重荷を取り除かれました。それは神の国が間近に近づいてきたしるしです。イエス様が天に帰られてからも、その働きはイエス様の体である教会にゆだねられ今も受け継がれています。今でも、主が同じように働いて癒してくださることを信じることは大切なことです。しかし同時に神様が私たちに医療という知恵を与えられそれが発展していることも、神様の恵みとして素直に受け取らなければいけません。

話し合いのために

1) 癒しと医療についてどう考えたらよいのでしょうか?

2) 今までに自分が体験した癒しについて分かちあいましょう