2006/2/5 メッセージノート

宣教‐そのために私は出てきた
マルコ1:35-45

 「宣教」、クリスチャンが何気なく使っている言葉ですが、どんな意味かご存知ですか?日本語で「宣教師」というと海外から日本に来てキリスト教の布教をしている人、というイメージです。でもこれらの人々がみな「宣教(Preach)」しているわけではありません。実際には英語の先生をしていたり、結婚式を専門にしていたりで、必ずしも、Preacher ではありません。今日の個所の日本語「宣教」は英語の聖書ではPreach が使われています。Preacher は日本語では説教者、説教師です。良い知らせ(イエス様の救い)を宣べ伝える人という意味です。ある教会では「説教」のことを「宣教」と言っています。本当はその方が意味を正しく伝えています。皆さんはきっと、ここまで聞いて海外に出てゆく宣教であれ、教会でなされる宣教であれ、少なくとも自分がすることではないと思っているのではないでしょうか?

 それは誤解です。クリスチャンの誰もが「宣教」する責任を与えられているのです。そうであれば宣教とは何か、自分はどうしたらいいのかを知る必要があります。それではまず今日のテキストを全体を通して読んでみましょう。

朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。 シモンとその仲間はイエスの後を追い、見つけると、「みんなが捜しています」と言った。(35-37)

イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」 そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された。(38-39)

さて、重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。(40-42)

イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、言われた。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」 しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた。それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た。(43-45)

A. 宣教

1) 何を?

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(1:15) イエス様の宣教の第一声です。このことを告げることが宣教の核心です。そしてイエス様はその短い生涯の終わりをあの十字架の上で迎えられました。イエス様が提供する救いの手続きは十字架で完了しました。イエス様は三日目によみがえられました。それは、サタンの支配を象徴する死に打ち勝ったイエス様の勝利、サタンの国を打ち破った神の国の勝利でした。そして、イエス様に続く者の勝利の保証でもあるのです。

勝利は確定しています。しかし残念ながら、勝利は完全であるとはいえません。まだサタンの支配の下に捕らわれている人々がたくさん残されているからです。イエス様が始められた魂の解放の戦いを、今誰が引き継いで戦っているのでしょうか?それはキリストの体である教会です。その中でユアチャーチという部隊は、東京都町田市に置かれているのです。救世軍という教派をご存知ですか?彼らは、地上に置かれた教会の務めの本質をいつでも忘れないように、自らをそう名乗っているのだと思います。

宣教とは教会の業です。だからその枝であるあなたの業なのです。そして教会の中の牧師・宣教師の役割ではありません。あなた自身の役割です。あなたの家族、あなたの友達に宣教するのはあなたなのです。ついでですが、それでは牧師・宣教師の役割は何でしょう。それはあなたが宣教できるように、教え励ますことが彼らの役割です。

あなたが宣教するために、一番大切なことが35節に書かれています。

朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。 シモンとその仲間はイエスの後を追い、見つけると、「みんなが捜しています」と言った。(35-37)

イエス様は一人静かに、いいえ、神様と二人だけの祈りの時から宣教の1日を始めておられます。神様がわたしたちに与えられている任務を果たすために最も必要なことは、聖書研究をすることでも、誰かのやり方を聞くことでもありません。神様と二人だけの静かな時を持つことです。ただ祈ることなら、周りに人がいてもできるかもしれません。しかし、他に誰もいないところでなければ、静かな時とはなりません。イエス様はわざわざ弟子たちから離れて神様との静かな場所を早朝に確保しました。あなたにもそんな時間が必要です。

2) どこで?

イエス様は弟子たちがやってくると彼らに、宣教の1日が始まることを告げました。38-39節を読みましょう。

イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」 そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された。(38-39)

イエス様は宣教するために世に来られました。それがイエス様の生涯でした。でもイエス様は、現代の福音説教者たちのように世界中を回って宣教されたわけではありません。宣教を始められたこのガリラヤ地方からおよそ200Km以内での活動に過ぎませんでした。町田から東海道なら静岡、信越なら高崎、東北方向なら水戸までしか届かない距離です。しかもその多くはガリラヤ湖を中心とした狭い範囲で過ごされました。私たちは宣教というと、遠い外国のことを思い浮かべます。それはもちろん大切なことで、クリスチャンは、自分の国の救いだけを考えていてはいけません。しかし、解放を求めている人々は、遠くにだけいるのではありません。私たちが南関東に、東京都町田市に置かれているのは、そこに必要があるからです。それは地理的な意味だけではありません。イスラムやヒンズー教徒が主に立ち返ることを願うことは当然です。皇族や政治家や有名人が救われることを願わない人はいませんが、あなたのもっと大切な人が、あなたの手の届く所で、今も捕らわれているということです。あなたが家庭で、職場で、学校で神様にいただいた自由や愛をあらわして生きるなら、あなたがどのようにして解放されたかを知りたい人が必ず起こされます。宣教は福音の真理を告げ、その人がそれを受け入れることで完成します。しかしほとんどのプロセスは、その人が、あなたが語る真理を受け入れる心の準備の段階です。そこであわててはいけません。すぐに準備ができる人もいれば、何十年もかかる人もいるのです。

B. 癒しと宣教

1) 憐れみによる癒し

40節から42節を読みます。

さて、重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。(40-42)

イエス様の宣教には頻繁に癒しが伴います。イエス様はなぜ癒しを行われたのでしょうか?イエス様は、諸宗教の祈祷師のように、生活のため、お金を得るために癒したのではありません。言い広めるのを禁じる方ですから、自分の宣伝のためでもありません。自分を信じることに対するご褒美でもありませんでした。それではなぜ?イエス様が癒されたのは「深く憐れまれた」からです。不思議なことにこの言葉は「本気で怒って」とも訳せる言葉です。ずいぶん意味が違ってしまうように見えますが、イエス様はこの人を深く憐れまれたと同時に、この人を病のうちに捕らえていたサタンに対し本当に「もういい加減にしろ」と怒っておられたのです。憐れみはその人に対するものですが、その人をそのような状態に捕らえているサタンに対するイエス様の怒りを私たちは共有することができます。

肉体の癒しで苦しんでいる人のためにミニストリーをする時、主の憐れみがそこにあることを覚えて、自分も深い憐れみをもってミニストリーに当たるのです。それと同時にイエス様のサタンに対する憤りをも覚えてミニストリーします。

「怒ることはなんであれ良くない」とクリスチャンは考えがちですが、そうではありません。怒るべきでないことに対して怒り、怒るべきことに怒らないことが問題なのです。赦すべきことを赦さず、赦してはいけないことを赦してしまうこと、が問題なのです。

2) 癒し・悪霊の追い出しと宣教との関係

最後に残りの43節から45節を読みましょう

イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、言われた。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」 しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた。それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た。(43-45)

イエス様の宣教には癒しや悪霊の追い出しが伴いました。神の国がそこに来ているならサタンのために働く悪霊は退散するしかありません。瞬間的な癒しが、救いのきっかけとなったり、私たちの心に信仰の確信や、困難な宣教を続けていく上での大きな勇気を与えてくれたりするのは確かです。

けれども私たちは、癒しや悪霊追放を宣教しているのではないのです。癒されること、重荷がおりることは、誰にとってもわかりやすい、嬉しいことです。しかしそれは宣教の目的ではありません。また、それは、信仰という針に食付かせる餌でもありません。信じることと引き換えに与えられる景品でもないのです。

福音書の中でイエス様に癒されたほとんどの人は、それ以上イエス様との関係は深まりませんでした。二匹の魚と五つのパンの奇蹟で満腹した5000人の内、何人がペンテコステの時に仲間に加わった3000人の内にいたのでしょうか?

誰かに頼まれれば、喜んで癒しのミニストリーをしてあげてください。でもそれはあなたの宣教の本質ではありません。あなたの宣教の本質は、サタンの支配の下にいる人に十字架の福音、真の平和、本当の解決を伝えることにあるのです。

メッセージのポイント

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(1:15) イエス様の宣教の第一声です。今まで神の国が遠かったということは、世界がサタンの支配の下にあったということです。そして、イエス様が世に現れたことは、人々の魂をサタンの支配から解放し神の国に帰還させる戦いが始められたということを意味しています。しかし、先に解放された者は、すぐに天国に帰還することを許されているわけではありません。残りの生涯をかけてイエス様の解放作戦に参加するのです。これは簡単な任務ではありません。なぜなら多くの人は、かつてのあなたと同様にサタンの支配の下にあることすら気付いていないからです。かれらは自分の不安や恐れ、問題の原因を知らずにいるのです。宣教、それは2000年前にイエス様が始めたことで、今私たちが行っていることです。

ミニチャーチのためのヒント

1) あなたは何のために生きているのですか?
2) イエス様はなぜ癒しや悪霊の追い出しをなさったのでしょう?