2006/7/23 メッセージ  イザヤ書8章1-23a(シリーズH)

絶望のトンネルを通る時の知恵

A. トンネルの中で自滅してしまわないために

1) 誰でも大変なところを通る時がある (1-4)

誰の人生の歩みにも真っ暗闇で前が見えない絶望のトンネルを通っているような時があります。突然表れるトンネル、出口の見えない長いトンネル、やっと出たと思ったらまた次のトンネルに入ってしまうような連続したトンネル。それらは私たちから生きる喜びや力を奪い去ります。しかし、たとえ先に外の光が見えなくてもトンネルには出口があることを忘れてはいけません。車の運転でもトンネルの中では特別な注意が必要なように、無事に絶望のトンネルを抜けるためには特別な知恵が必要です。今朝はこのイザヤの預言から、この知恵について学びましょう。

ユダ王国はこのとき国家として最悪のトンネルに入ろうとしているようなときでした。しかし預言者を通して語られた神様の言葉に従わず、不注意な車が事故を起こしてしまうように、このトンネルから出ることなく滅びてしまいました。

私たちはトンネルを避けることはできません。しかしトンネルの中でも焦らずあわてず諦めず着実に安全運転しているなら、ユダ王国のようにトンネルから出ることなく滅びてしまうことはありません。

この時代背景は先月取り上げた7章にも触れられていましたが、もう一度確認しておきましょう。紀元前700年代、イエス様が歴史に登場する700年以上前、イスラエルは北イスラエルと南のユダ王国に分裂していました。北王国とその隣国アラム(シリア)は強力なアッシリアを恐れてユダ王国と同盟を結ぼうとしたのですが、7章に出てきたユダ王国の王アハズはこれを拒んだので、攻め込まれました。アハズはアッシリアに応援を頼んだので、アッシリアは南下してきて彼らを撃退してくれたのです。しかし、それはアッシリアによる占領の始まりだったのです。

1-4節でイザヤはアッシリアによる支配が近い将来起こることを預言しています。預言は言葉だけでなされるのではなく、預言者の行動として示されることがありました。イザヤの場合には、神様から言葉を羊の皮をなめしたものに書くことと、子供にその特別な意味を持つ言葉を名前としてつけるように示されました。なぜそのようなことが起こってしまうのかという説明が、5-8節に記されています。

2) 神様を拒み、ほかの者を頼るなら、状況はさらに悪くなる (5-8)

主は重ねてわたしに語られた。 「この民はゆるやかに流れるシロアの水を拒み/レツィンとレマルヤの子のゆえにくずおれる。 それゆえ、見よ、主は大河の激流を/彼らの上に襲いかからせようとしておられる。すなわち、アッシリアの王とそのすべての栄光を。激流はどの川床も満たし/至るところで堤防を越え ユダにみなぎり、首に達し、溢れ、押し流す。その広げた翼は/インマヌエルよ、あなたの国土を覆い尽くす。」

「ゆるやかに流れるシロアの水」とはギボンの泉と呼ばれた水源から、新約の時代にイエス様が盲目の人を癒されたシロアムの池に向かう水路の水の事です。エルサレムの人々はこの水なしに生きてはいかれませんでした。ここでは、魂のために欠かすことのできない水、神様の恵み、導きの事を意味しています。神様を信頼せずに、レツィンとレマルヤの子つまり北王国とアラムを恐れる余り、もっと強大なアッシリアに蹂躙されてしまうことになるという預言です。ちょうど激流の氾濫と洪水に国土全体が覆われてしまうように。ユダ王国の民は神様を頼らず、その時その時、頼りになれそうな国と同盟して、力のバランスによって危機を乗り越えようとしました。

インマヌエル=神様がともにいてくださると呼びかけられていたにもかかわらず、神様に求めることをせず、人の権威や知恵に頼り、滅びてしまったユダ王国から私たちは人生におけるもっとも重要な原則を学ぶことができます。「ただ神様にのみ信頼をおく」ということです。

B. トンネルの中で平安を得るために 

1) 主により頼む (9-15)

諸国の民よ、連合せよ、だがおののけ。遠い国々よ、共に耳を傾けよ。武装せよ、だが、おののけ。武装せよ、だが、おののけ。 戦略を練るがよい、だが、挫折する。決定するがよい、だが、実現することはない。神が我らと共におられる(インマヌエル)のだから。 主は御手をもってわたしをとらえ、この民の行く道を行かないように戒めて言われた。 あなたたちはこの民が同盟と呼ぶものを/何一つ同盟と呼んではならない。彼らが恐れるものを、恐れてはならない。その前におののいてはならない。 万軍の主をのみ、聖なる方とせよ。あなたたちが畏るべき方は主。御前におののくべき方は主。 主は聖所にとっては、つまずきの石/イスラエルの両王国にとっては、妨げの岩/エルサレムの住民にとっては/仕掛け網となり、罠となられる。 多くの者がこれに妨げられ、倒れて打ち砕かれ/罠にかかって捕らえられる。

ここで語られていることにイスラエルが従っていたなら歴史はまた違った展開をしていたことでしょう。しかしイスラエルは周りの状況に惑わされ、愚かな人間の知恵に頼り、アッシリアに占領されてしまいます。私たちは思わぬ不都合が生じると、あれこれ原因を詮索し、対策を立てようとします。しかし時には、良いと思えた対策がさらに事態を悪化させてしまうことがあります。イザヤのような旧約聖書の預言者も、福音書のイエス様も、新約聖書の使徒たちも、一貫して主である神様により頼むことが、あらゆる人間的な対策以上に大切だと教えています。それでは神様に頼るとは具体的にどうすることなのか考えてみましょう。

皆さんはペトロがイエス様の声に励まされて風と波に揺れる海の上を歩いた話を知っていると思います。マタイによる福音書の14章22-33節です。

それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。 群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。 ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。 夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。 弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。 イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」 すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」 イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。 しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。 イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。 そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。 舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。(マタイ14:22-33)

ペトロはイエス様を信頼して歩き出したのになぜ溺れかけてしまったのでしょうか?彼はただイエス様の来なさいと言う言葉に信頼して進みだしていました。風が強いことも波が高いことも、気にすることなく歩みを始めたのです。しかし、いざ何歩か進んでみると、風が結構強いこと、波があることがすぐに分かりました。波が高いこと、風が強いことは現実です。しかしそれが気になって、イエス様から目をそらし、溺れかけてしまいました。

結局、主をより頼むとは、イエス様に目を注ぎ続けること、神様の声に耳を傾け続けることです。それは、違う角度から見れば、いろいろな人の言うことに惑わされないこと、ペースを変えないこと、自分の感覚に頼りすぎないことです。

現代は高度に情報化された時代です。ものすごい量の情報の中で生きています。それらの情報に頼って神様に目を注ぐこと、神様の声に耳を澄ますことをやめるなら、ペトロが溺れかけたように、私たちも滅びの水に飲み込まれてしまいます。エヴァも蛇のもたらした「おいしい情報」によって罪を犯しました。ヨブが試練を受けた時も、その友人たちの熱心なアドヴァイスが返ってヨブの心をかたくなにしてしまいました。

また、恐れによって私たちの歩みのペースは乱れるということも知っておくべきです。トンネルに入ったとたんに、怖くなってスピードを落とすドライバー、反対に早く抜けたくてスピードを上げるドライバーはともに事故を起こす危険があります。困難や絶望の中に置かれると、怒りや諦めから礼拝、祈り、交わりをスローダウンしてしまう人がいます。反対に、もっと熱心にならないとここから抜け出せないと感じ、突然誰よりも多くのことをし始めようとする人もいます。しかしそれらはどちらも、良い結果をもたらしません。神様こそがあなたのペースメーカーなのです。

暗闇の中で人間の五感が余り頼りにならないように、困難な日々の中では私たちの霊的感覚は当てになりません。今日は神様がすぐ近くにいて守ってくださる感じ、今日は神様はどこにもいない感じ、それは霊的な錯覚というものです。そんなことで一喜一憂していてはいけません。あなたがどう感じようと神様はインマヌエルなのです。

災害が起こると、様々なデマと信頼や情報が飛び込んできます。できるだけ正確な情報を得るために、人は信頼できる人やメディアから情報を得ようとするでしょう。パニックに陥ったら、本当に信頼できる情報源にアクセスしなければいけません。それは神様です。そして、神様に聞くために必要なのはテレビでもラジオでもコンピュータでもありません。祈りと礼拝と交わりです。

2) 主を待ち望む (16-23a)

わたしは弟子たちと共に/証しの書を守り、教えを封じておこう。 わたしは主を待ち望む。主は御顔をヤコブの家に隠しておられるが/なおわたしは、彼に望みをかける。 見よ、わたしと、主がわたしにゆだねられた子らは、シオンの山に住まわれる万軍の主が与えられたイスラエルのしるしと奇跡である。 人々は必ずあなたたちに言う。「ささやきつぶやく口寄せや、霊媒に伺いを立てよ。民は、命ある者のために、死者によって、自分の神に伺いを立てるべきではないか」と。 そして、教えと証しの書についてはなおのこと、「このような言葉にまじないの力はない」と言うであろう。 この地で、彼らは苦しみ、飢えてさまよう。民は飢えて憤り、顔を天に向けて王と神を呪う。 地を見渡せば、見よ、苦難と闇、暗黒と苦悩、暗闇と追放。 今、苦悩の中にある人々には逃れるすべがない。

主により頼むということは、どんな状況の中でも主の光が輝くことを諦めずに待ち望むということでもあります。長いトンネルや、カーブしたトンネルでは出口の光は中々見えてこないのです。イザヤはもっと先に神様の新しい業があることを悟り、人々に伝える活動を中止します。そして人々がどうであろうと、自分は主を待ち望むという決心を明らかにしています。「トンネルはまだ続く、しかし出口のないトンネルはない」という確信に基づき歩み続ける生涯を生きたのです。

困難の中で諦めずに希望を持ち続ける秘訣、主に信頼し続けられる秘訣は、さっき紹介した神様とあなたを繋ぐ三つの通信手段:祈りと礼拝と交わりを活用する事です。

苦しみの日々にあっても、いやむしろそのような時ならなおさら、これらを大切にするべきです。朝に夕に祈り、個人的な礼拝の時を持ちましょう。そして、週に一度の多くの人々とともにささげる聖日の礼拝、そしてやはり週に一度、あなたと同じように主を信頼して歩んでいる人々との交わりの時「ミニチャーチ」を持ちます。

この三つを生活の中心におくなら、あなたは時が良くても悪くても確信を持って歩み続けることができます。

メッセージのポイント

多くの時代の預言者と同じようにイザヤの預言に耳を傾けようとする人はおらず。国は実際に滅びてしまいました。クリスチャンは現代の預言者といえるでしょう。「神様のもとに帰らなければ、いつかあなたも世界も滅びてしまうよ」という神様の言葉を伝えているのですから。預言は言葉だけでなされるものではありません。預言者の生き方そのものが神様からの預言です。クリスチャンは預言的な生き方をしているのです。苦しみ悲しみ絶望の中に置かれたとき、試練の中で預言者として神様に信頼して歩むなら、あなたがやがてトンネルを抜けるようにそれを克服できるだけでなく、あなたの周りにいる神様に頼ることを知らない人々にとっても、神様を信頼するなら、絶望のトンネルに耐え、勝利を確信して待ち望むことができるというよいお手本になることが出来るのです。

ミニチャーチのために

1) なぜ人は絶望的な状態にあっても神様を拒み他のものに頼ろうとするのでしょうか?

2) なぜクリスチャンは現代の預言者なのでしょうか?