2006/9/3メッセージ 

心の畑を耕そう マルコによる福音書4章1-20節

福音書にはイエス様がなさった「たとえ」がたくさん出てきます。読み書きのできない人がほとんどだった当時の民衆にとって、自然現象や漁業や農耕など日常生活に即したイエス様のお話は易しく親しみやすいものでした。ここでは、イエス様は「神の国の秘密」を種まきにたとえて話しています。9節まで読んでみましょう。

イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が、そばに集まって来た。そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた。 イエスはたとえでいろいろと教えられ、その中で次のように言われた。(1-2)

「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。 蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。 ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。 しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。 ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。 また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」(3-8)

そして、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われた。(9)

A. なぜイエス様は「たとえ」で語られたのか?

イエス様は集まった多くの人々の前で、このように語られました。とても単純な分かりやすい話ですが、そこにはもっと深い秘密が隠されていました。ここまでのお話しでは、弟子たちにさえその真意は伝わっていないようです。私たちは普通、伝えたい事柄を理解してもらいやすくするために「たとえ」を用いますが、ここでは、イエス様はむしろ反対に秘密を隠しておくために「たとえ」を用いられました。「たとえ」には全く正反対の二つの機能があるのです。真理を隠すための機能と、よく理解させるための機能です。「たとえ」の部分だけを聞いても普通の人には、その奥にある秘密には到達できません。しかし、伝えたい事柄をそれに相応しい「たとえ」を用いながら話すなら理解を助けるのです。

しかし、なぜイエス様は人々には「たとえ」だけしか語らなかったのでしょうか?できるだけ多くの人に神の国の福音を伝えるために宣教を始められたはずなのに、多くの人が集まって聞こうとしているのに、なぜ敢えて隠そうとなさるのでしょうか?10-11節を読みます。

1) 信仰のある人の理解を助けるために

イエスがひとりになられたとき、十二人と一緒にイエスの周りにいた人たちとが「たとえ」について尋ねた。 そこで、イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてが「たとえ」で示される。(10-11)

今でも、イエス様の救い・神の国の福音を伝える方法について多くの人が誤解しているのですが、人にとってもっとも大切な福音の真理を伝えるのに相応しい方法は一方通行のマスコミュニケーションではなく相互通行のパーソナルコミュニケーションなのです。イエス様を信じてもらいたくて伝道集会に連れて行ったり、教会に連れて行って牧師の説教を聞かせればいい、メッセージテープを聴かせようと考える人は多いのですが、それらは伝道の中心ではありません。イエス様の憐れみに分け隔てはありませんでしたから、多くの人がやってきて癒されました。しかしイエス様はすべての人をいっぺんに弟子にするつもりはなかったのです。あなたと誰か一人、多くても数人とのコミュニケーションの中で聖霊は働かれ、信仰は伝わるのです。どんなことでも多くの人に同時に理解させることは大教室での講義のような一方通行では不可能なのです。イエス様でさえ、やってくるすべての人ではなく、数十人の人々、その中でも特に12人の弟子、そしてさらにその中でも特にペトロ、ヨハネ、ヤコブの3人に深く伝えようとなさいました。イエス様の愛は不公平だったのでしょうか?そうではありません。短い地上での歩みの中で、豊かな内容を持つ福音のすべてを伝えるためには、3人が限界だったのです。それはイエス様の限界というより人々の限界でした。ペトロ、ヨハネ、ヤコブは学者でも宗教家でもありませんでした。彼らが真理を獲得するためには、イエス様との親しい生活が不可欠でした。またイエス様の言葉を理解するためには、彼らにも易しいたとえ話が必要だったのです。

2) 神様の意思にかなった人に伝わるように

12節を読みましょう。

それは、『彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち帰って赦されることがない』ようになるためである。」(12)

このイエス様の言葉には皆さんも聞き覚えがあると思います。何回か前のイザヤ書のメッセージで取り上げた、イザヤ書6章9-10節からの引用です。ここで私達が知っておくべきことは宣教の主権は神様にあるということです。信じた私達と同じ言葉を聞き、同じ愛の奇跡を見ても信じられない人はいるのです。タイミングは神様の手にあります。伝道は人をクリスチャンに「する」ことではありません。そう考える人は、ちょっと教会に通いだした人や、少し熱心に話を聞いてくれる人に、そろそろ洗礼を受けたらどうですか?とプレッシャーをかけたりしてしまいます。でも、それはまだ収穫にはまだ早い青い実を無理やりむしりとるのとおなじです。私達には耕すことができます。神の言葉の種をまくこともできます。しかし芽を出させ、成長させ、実を結ばせて下さるのは神様なのです。

イエス様はこの大集会のメッセージの中では、弟子たちに対するようには、秘密を打ち分けようとなさいませんでした。説明をしたところで心の準備ができていない人には悟ることはできないからです。巧みな話術によって人々を感動させることならイエス様より得意な人はいるでしょう。しかしイエス様は、人々を説得したり、洗脳したりするために来られたのではありません。

わからないのは、なぜイエス様は真意を伝えるつもりもなく、多くの人々の前でこの「たとえ」を語られたかということだと思います。このことも、イエス様が神様の主権を尊重してのことだと考えられます。イエス様は地上での歩みの中で常に天の父の意思を聞きながら歩まれました。この「たとえ」を聞いてごく少数の、理解はできないまでも、イエス様のうちに真理があると気付く人もいたのです。この人々は付き従う群衆の一人であることを卒業し、10節に出てくる「十二人と一緒にイエスの周りにいた人たち」となるわけです。「聞く耳のあった」人です。

福音を伝えるには双方向のパーソナルコミュニケーションが最も重要だとお話ししましたが、このパーソナルコミュニケーションに人々を招き入れるためには、一方通行のマスコミュニケーション(ウエッブサイト・メッセージ)も神様は用いられるのです。

B. わたしたちの心の状態は?

1) 神様の言葉は人々の心に蒔かれている

また、イエスは言われた。「このたとえが分からないのか。では、どうしてほかのたとえが理解できるだろうか。 種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。(13-14)

イエス様の言葉が聖書にまとめられている今、すべての人が福音の言葉に触れるチャンスがあります。私たちの心は神様の畑です。そして豊かに種は蒔かれているのです。人々の心に蒔かれた種が順調に成長すれば大きな収穫を得られるのです。しかしこの国における発芽率はひどいものです。またせっかく芽を出しても収穫を得る前に枯れてしまうケースも多いのです。中国のように聖書が不足しているわけではありません。教会が少ないわけでもありません。種の蒔き方には不足はないのです。問題は耕し方であり、育て方にあるようです。まず15節です。

2) 収穫を得られない三つの理由

道端のものとは、こういう人たちである。そこに御言葉が蒔かれ、それを聞いても、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る。(15)

道端のものとは、まだ御言葉を受け入れる準備の出来ていない人のことです。こういう人でも様々な理由で教会を訪ねてくれます。教会での交わりを楽しみにさえして、何度かは続けて来てもくれるでしょう。しかしこのままでは実を結ぶどころか芽を出すこともありません。私たちがこのような人に出来ることは何でしょう?それは、神様はこの人の心を道端から農地に転換してくださるように、愛を示し続けることと、祈り続けることです。

次に16-17節を読みましょう。

石だらけの所に蒔かれるものとは、こういう人たちである。御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう。(16-17)

例外的なものもありますが、植物は大地にしっかりと根を張らなければ成長することはできません。深く根を下ろすのは、大地から生きるのに必要な養分や水を得るためです。留学やホームステイをした国で信仰を持った人でも、残念ながら日本に帰ってくるといつの間にか信仰を失ってしまう人が大勢います。それは日本の教会に違和感を覚えてつながることができないからです。教会の受け入れ態勢にも問題があるかもしれません。しかしもっとも大切なことは、「土地がどんな状態であれ、根を張らなければ枯れてしまう」という危機感を本人が持つ事です。

日本の教会は成長が遅いといわれます、それはクリスチャンの霊的な成長が遅いということでもあります。その一つの大きな理由は、キリストの体である教会にしっかりと根を下ろしていないことにあります。そうならないように、私はミニチャーチに加わることを勧めます。礼拝に出ているだけでは、十分に霊的な栄養は取れません。信仰の決心と同様に、信仰の成長も双方向のコミュニケーションつまり交わりによってもたらされるのです。伝統的な教会でも週の半ばに、祈り会があるのが普通です。そして大抵の教会でも私達と同じ課題をかかえています。祈り会に出席する人は少ないのです。日本人はよく働く民族だと評判でしたが、それは働いている時間が長いということであって、その長さの割には生産性が低いということが知られています。仕事の能率が悪いという事です。職場には、なかなか定時には帰れない雰囲気もあります。しかし、あなた一週間に与えられている168時間の中からもう2時間をミニチャーチに用いるなら、この国に新しいことが起こると私は信じているのです。あなたがミニチャーチを始めることはあなたに霊的な成長をもたらすだけではなく、人々にもその機会を与えられことにもなります。

18-19節を読みましょう

また、ほかの人たちは茨の中に蒔かれるものである。この人たちは御言葉を聞くが、この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない。(18-19)

茨とは私達の素直な信仰を邪魔する様々な要因の事です。この世の思い煩いや富の誘惑、その他様々な欲望とあります。これらが心の中で大きな部分を占めるなら、成長どころか衰弱の危険さえあります。魂にとっての癌細胞のようなものです。私たちはこれらのことに一人で立ち向かってゆけるほど強くも賢くもありません。だから牧師は、ミニチャーチ、ミニチャーチとうるさく言うのです。日曜日の礼拝は、お祝いであり、神様の言葉を聞く大教室の講義のようなものです。でも毎日が日曜日ではいけないのです。神様の言葉を日常生活に活かしてゆくために、少人数で助け合えるゼミ、実習の時間としてミニチャーチが貴重なのです。ミニチャーチはそこに集まる人々の心の畑を耕し、小石を取り除け、一人ではできない農作業を共同で取り組めるところです。

3) 三つの理由を克服すれば

良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである。」(20)

神様の言葉を聞くだけではなく受け入れるとは、それが自分の生活にいきているということです。人生をとおして豊かな実を結びたいなら、いつも大きな収穫を得る勤勉な農夫のように、日々なすべき作業を怠ってはいけません。良い土地といっても、ほっておけばやがて収穫の期待できない荒れ地となってしまいます。耕し続ける必要があるのです。蒔くのは神様ばかりではありません。悪魔も、思い煩い、誘惑の種を私達の心にばら撒きます。日々の作業はそれほど多くはなくて、何日かサボっていれば大変な作業になってしまいます。そしてせっかくの良い畑を放置して、人生を不毛の地にしてしまう人もいます。

あなたにはそのようになってほしくありません。ですから、「礼拝と交わりと祈り」という基本的な作業を怠らず励ましあいながら続けて行きましょう。

メッセージのポイント

イエス様は、少人数の人々と寝食をともにしながら、彼らに真理を伝えました。この福音を伝えるためのパーソナルコミュニケーションの原則は今でも有効です。大勢の人に一度に語りかけて信じてもらおうというアプローチは特別な(典型はペンテコステの時)状況でしか有効ではありません。宣教には大胆さ、情熱だけではなく、丁寧さ、注意深さが必要なのです。人々に豊かな収穫を与えたいと思うなら、まずは心を耕さなければなりません。石ころを取り除き、鍬を入れて土地を柔らかくする作業、それは愛し続けるということにほかなりません。イエス様は弟子たちに教理を教え込んだのではなく、彼らの心を耕して、そこに注意深く種を蒔きました。私達にも同じようにすることを求めておられます。

話し合いのためのヒント

1) なぜイエス様は多くを「たとえ」で話されたのでしょう?

2) 心の畑を耕すとは、何を意味しているのでしょうか?