2006/10/8 メッセージ

実はあなたが「牧師」です 

A. 牧師=羊飼い

1) 元々は職業でも役職でもなかった

皆さんは「牧師」という言葉でどんなことを思い浮かべるでしょうか?クリスチャンでない平均的な日本人にとっては、ほとんど使わない言葉です。カトリックの神父さんの方がまだー般的なようで、私も時々、神父さんと呼びかけられたりもします。しかし、実はクリスチャンでさえ「牧師」の意味が正確には理解していない、ということを今日お話ししたいと思います。

私たちが読んでいる聖書で牧師あるいは牧者、羊飼いと訳されている言葉は、「羊にえさを与える」という意味の語源を持っています。旧約と新約から一つずつ紹介しましよう。

わたしはあなたたちに、心にかなう牧者たちを与える。彼らは賢く、巧みに導く。(エレミヤ3:15)

預言者エレミヤによって、神様に背いている民に向かって語られている、憐れみ深い神様の預言です。ここで注目したいことは「牧者たち」と複数形になっていることです。救い主イエス様お1人についての預言ではなく、神様の心にかなう人々を傷つき疲れた人々のために遣わすというのです。

そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。 こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。(エフェソ4:11-13)

キリストの体、教会の働きは様々で、その中に牧者も含まれています。牧者とは人々の世話をする者です。現代の教会の「牧師」は教会の中にいる人々のお世話をするという意味では、牧者の一人ではあります。しかし、羊は教会という囲いの中だけにいるのではありません。そしてイエス様は囲いの外で十分に栄養を取れずに弱っている羊たちを憐れんでおられるお方です。

現代の教会で牧師と呼ばれている人々の本当の役割は、牧者そのものではなく、牧者を育て、訓練し、送り出すヘッドコーチのようなものです。エフェソの信徒への手紙で言えば、むしろ使徒に近い者です。野球やサッカーのティームではヘッドコーチの元にピッチングコーチとかフィジカルトレーナーなどによるスタッフティームがあってプレイヤーがベストコンディションで戦えるように環境を整えます。神様によく用いられている教会は、スポーツティームと同じような構造を持っています。

しかし、そうでない教会の方がずっと多いのです。そこでは牧師は「何でも屋」です。あらゆる集まりで司会を務め、メッセージをして、最初と最後のお祈りをします。人々のリクエストに応えて病人を尋ね、また家庭訪問をします。誰々のために祈ってください、というリクエストにも答えます。人々はいつの間にか、お世話してもらうお客様か、癒してもらう患者さんとなってしまっているのです。人々は、働き者の牧師に感謝しています。でもそれは本当の教会の姿ではありません。

それでは囲いの外の羊を心配するイエス様を喜ばせることは出来ません。喜ぶのはサタンのほうです。出て行って世話をする牧師がいなければ、世界は狼つまりサタンの「サッポロビール園」(ビール飲み放題・羊食べ放題)のままです。

2) 実はあなたが牧師です

私が言いたいことをわかっていただけたと思います。ユアチャーチでは牧師は皆さんです。私は皆さんのヘッドコーチなのです。マタイによる福音書の10章5-8節を読んでみましょう。

イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。 むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。 行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。 病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。 (マタイ10:5-8)

ここでイエス様は弟子たちに、見当はずれの所にいってはなりません、と注意しています。あなたが遣わされる所は、あなたがよく知っている場所です。そしてユアチャーチではあなただけが入ってゆけるところです。神様はあなたに宣教師という特別な役割を与えない限り、地球の裏側に私の羊が待っているとは思わないで下さい。あなたの羊は、あなたの親族、職場の人々、教室にいる学生たち、隣近所の人々、PTAの仲間、スポーツチームメート、あなたの患者、あなたのお客さんです。たとえばKさんには何百人という部下がいると思いますが、それはKさんあなたの羊です。あなたは彼らの牧師です。VさんやMさんは小学校の先生ですね。20人、30人の大切な子供たちの牧師です。中学生のSさんも40人のクラスメートと担任の先生という羊の牧師です。

あなたの羊たちは、あなたより年齢や社会的地位が高いかもしれません。それでもあなたは彼らの牧師です。なぜならあなたは彼らの持っていないもの、永遠の命を持っているからです。神様と共に生きる永遠の命、これこそ、誰にとっても、なくてはならない唯一のものです。自信を持ってください。皆さんは彼らのニーズにこたえることが出来るのです。

3) 牧師としてのあなたの仕事

いったいあの人たちに、私は何ができるというのでしょうか?あなたはそんな疑問を持たれると思います。教会の牧師のように、説教なんて出来ません。伝道は苦手です。だいたい人々は私がクリスチャンだってことも知りません。という人もいるかも知れません。

もちろん、あなたがクリスチャンだと知ってもらうことは大切です。もしまだ知られていないなら、その場にあった最適な方法でそれが出来るよう知恵を求めましょう。

けれども、クリスチャンと知られてなくても出来ることがあります。一人一人のために祈ることです。その人の救いのためだけというインスタントなものではいけません。その人のその時のニーズを祈るのです。慰めたり、アドヴァイスしたりすることも出来ます。何かを手伝ってあげることも出来ます。あなたの周りに、お昼休みに一人ぼっちの人はいませんか?一緒に食べましょう。話を聞きましょう。語り手であるより良い聞き手になりましょう。立場によっては、親身になって叱る事でもあります。癒すこと、励ますことも牧師の仕事です。

気軽に私はクリスチャンと言い出せないような雰囲気の中では、決して無理して説教も、伝道もしないで下さい。牧師としての仕事は何ですか?世話をすることです。クリスチャンにすることではないのです。このことを続けていけば。あなたの優しさ、強さ、魅力の秘密を知りたくなる人が現れてきます。その時、あなたはもったいぶって、「ほんとに知りたい?それはねえ、イエス様」と言えばいいのです。あなたには人をとる漁師であるより、良い羊飼いとなっていただきたいのです。

B. あなたが良い牧師であるために

1) 自分の羊飼い=イエス様ともっと親しくなる

あなたがもっと良い牧師となりたいなら第一にすべきことはあなた自身の牧者であるイエス様ともっと親しくなることです。あなたがイエス様を見失って道に迷えば、あなたの羊もみんな迷わせてしまうことになります。責任は重大です。誰かと親しくなるために、するべきことは簡単です。出来るだけ多くの時間をその人と過ごすことです。イエス様ともっと親しくなるためには礼拝を捧げることを、生活のプライオリティーの一番上におくことです。週に一度の皆と共に捧げる礼拝、日々、一人で、家族と共に、ミニチャーチの仲間と共に捧げる礼拝を大切にしてください。

2) 聖書の教えを生活化する

 神様の言葉は霊の糧です。聞くだけでは意味がありません。それが消化されエネルギーとして用いられなければ、日々の生活には役に立ちません。生活の中で聞いた教えを生かせるようになるためには、すこしずつやってみるしかありません。このことのために最も助けになるのはミニチャーチの仲間です。私は抽象的なことは出来るだけ話さないようにしています。皆さんが明日からやってみられることを話しています。今日のはなしから、早速、牧師の自覚を持って羊のために祈りはじめましょう。ランチをいっしょに食べましょう。あなたの言葉や行動を、イエス様ご自身が「そうだそうだ、やれやれ」と応援してくださることを感じられます。生活の場の一つ一つが、神様の言葉が実現する場であると意識しましょう。たとえば、子供を叱る時、あなたはただ親なのではなくイエス様に派遣された牧師だと思ってください。そうするなら、その時イエス様ならどう叱るかということを考えてしかることが出来ます。

3) 聖霊の力を求める

三つ目のことは聖霊に満たされるということです。わたしは今日から月例で始まる聖霊の力を受けるミーティングに、大きな期待を持っています。聖霊が働かれなければ、私たちは何も出来ないということを自覚しなければなりません。復活したイエス様を見て弟子たちは大変喜びました。さあイエス様を全世界の人に伝えようと張り切ったことでしょう。しかしイエス様は「待ちなさい」といわれたのです。何を、ですか?使徒言行録1章3-5節を読みます

イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。 そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。 ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」(使徒言行録1章3-5節)

彼らは待ちました。そしてペンテコステと呼ばれる祭りの日に、それは起りました。それは激しい風のような音として耳に聞こえました。炎のように、舌のように、そこにいる一人一人のうえに別れ別れに現れて留まったとあるように、目に見えました。そして人々は習ったことのない外国の言葉で語りだしたというのです。それを見たある人が「あの人たちは新しいぶどう酒に酔っているのだ」と思うほどすごい状態だったようです。理性的な人のキリスト教に対する評判、という点から言えば隠しておきたい出来事です。

しかしこれが教会の出発点だったということは誰も否定できません。この時から、人々の働きには大きな力が伴い始めたのです。病は癒され、悪霊は追い出され、奇蹟が起こり、教会は大きな迫害にもかかわらず世界中に拡がってゆきました。それは宣伝活動で拡がっていったのではありません。2000年の間、弟子たちは弱った羊の世話をし、元気にさせ、元気になった羊を羊飼いに変身させて、その羊飼いが新しい羊の世話をして・・・・この繰り返しだったのです。

羊を養うことは私たちの能力や情熱だけでできるものではありません。それだけではすぐに行き詰ってしまいます。無力なままでも、貧しいままでも、聖霊に満たされることによって可能になります。私たちが歌うワーシップソングの多くはアメリカのヴィンヤードという教会で生まれたものです。この教会はおよそ30年前に12人が集まった小さな家庭集会としてスタートしました。自分たちの弱さを神様に訴え、神様のために良い働きが出来るように真剣に祈り求め続けました。数ヵ月後に彼らの牧師となったジョンウィンバーは、大胆な癒しや奇蹟について説教を始めます。実際に目覚しい働きが起り始めたのはその10ヵ月後の事でした。今では850以上のヴィンヤード教会が世界中で活動しています。これほど短い時間に増え拡がった教会は、教会史上なかったことです。その秘密は、最初の人々が自分の弱さに正直になり、聖霊に満たされることを求めたからです。

満たされて起る不思議や奇蹟、癒し、は素晴らしいものです。しかしそれは終着駅ではありません。奇蹟を体験し、異やされ、満たされた人が新たな羊飼いとして出て行くことが目的です。そしてそれはあなたの周りから弱った羊が見当たらなくなるまで続けられるのです。さあ、牧師さんたち、聖霊に満たされて、自分の羊たちの世話をしましょう。

メッセージのポイント

私たちが読んでいる聖書で牧師あるいは牧者、羊飼いと訳されている言葉は、「羊にえさを与える」という意味の語源を持っています。イエス様は弟子たちに、自分の羊を養うよう、お命じになりました。また、すべての人を弟子としなさいとも命じられました。つまり養うだけではなく、牧者として育てあげなさい、ということです。イエス様はユアチャーチに「チャペルをお客さんで満たしなさい」ではなく、「弟子を育てて送り出しなさい」と命じておられるのです。私たちは自分のニーズが満たされるために招かれたのではありません。人のニーズを満たすために招かれたのです。もちろん、そのためにはまず自分が癒され満たされ力を得る必要がありますが、それはスタート前の準備運動のようなものです。スタートしなければ準備運動は意味がありません。クリスチャンとは、月曜から土曜まで、自分に委ねられた羊たちの世話をしている「牧師」なのです。

ミニチャーチのために

1) あなたの羊はどこにいますか?

2) あなたの羊のためにあなたは何をしていますか?