2006/10/15 メッセージ 

「召しにとどまる」 1コリント7:17-24

今日のメッセージのキーワードは「召される」です。 日本語では、現代の日常生活の中ではあまり使わない言葉です。王様とか高貴な人に招かれて、特別な職務を与えられる、という意味です。クリスチャンにとっては自分の生き方を示す大切な言葉ですが、呑気なクリスチャンは、今の自分の状態ではなく、天国に帰されることだしか思っていません。 今日のテキストから心に刻んでいただきたいことは、「あなたは、今すでに、神様に召されている」ということと「その召しから離れて生きてはいけない」ということです。

A. 神様にリクルートされた私たち

1) 弱った羊を世話するための牧者として(参考:先週のメッセージ) (17)

おのおの主から分け与えられた分に応じ、それぞれ神に召されたときの身分のままで歩みなさい。これは、すべての教会でわたしが命じていることです。 (17)

主から分け与えられた分、というのがイメージしにくく、反対に召された時の身分と言うのが具体的なので、焦点が「召された時の身分のままで」の方に向きがちですが、ポイントは、「クリスチャンは皆この世界で果たすべき役割が与えられている」ということです。そして、それだから地上での身分や地位に囚われて生きる必要はありません、とパウロは勧めるのです。もしあなたにとって、自分の身分や地位が最大の関心事だとしたら、期待されている職務を果たすことは出来ないですよ、と警告しているのです。

さて、私たちはどのような職務に招かれていると言うのでしょうか?先週のメッセージを思い出してください。皆さん一人一人がそれぞれの羊を委ねられた羊飼いだという話でした。先々週のことはもうすっかり忘れてしまいましたか?私たちが委ねられた職務を果たすことが出来ない最大の原因は、聖書の登場人物の失敗例から学ぶことが出来る、と話しました。それは、神様に対する信頼の不足でしたね。この信頼の不足が、私達を、そこから自由にされたはずの身分とか地位とか名誉とかの人間的な満足追求の道に引き戻してしまうのです。18-20節をもう一度読んでみましょう。

2) あなたの文化的背景・社会的地位はハンディかアドバンテージか? (18-21)

割礼を受けている者が召されたのなら、割礼の跡を無くそうとしてはいけません。割礼を受けていない者が召されたのなら、割礼を受けようとしてはいけません。 (18)

割礼の有無は問題ではなく、大切なのは神の掟を守ることです。 (19)

おのおの召されたときの身分にとどまっていなさい。 (20)

当時の教会は、ユダヤ人だった人々と異邦人であった人々とで構成されていました。割礼はユダヤ人の男子の体にほどこされる印です。ユダヤ教の影響をより多く保っていた指導者は、異邦人であった者がクリスチャンになったなら、旧約聖書の伝統に従って割礼を受けなければいけないと主張しました。その反対にユダヤ教の影響からもっと離れなければいけないと考える指導者は、割礼が不要なばかりか、それがあること自体恥ずかしいことだと教えました。使徒パウロの、この混乱に対する答えが19-20節です。現代のこの国に住む私たちはこの二つの節を「文化伝統的背景は問題ではなく、大切なのは神の掟を守ることです。 おのおの召されたときの文化伝統的背景を大切にしなさい。」と読み替えることができます。幸い私たちは、いろいろな文化的背景を持った人々が集う教会なので、一人一人の持つ背景をその人の大切な個性として尊重することになれています。誰も自分の国籍、文化、伝統を恥じる必要はないのです。海外宣教師の陥りやすい過ちは、福音宣教者ではなく、文化宣教者となってしまうことです。決して悪意からではないのです。しかしその人の背景となる文化は、想像以上にその人の宣教活動に影響を与えるので、自戒しなければなりません。文化は人間の営みと切り離すことは出来ません。福音はその人の生き様として伝わるのですから、伝え手の背景から完全に切り離された福音を示すことは出来ません。ですから、伝道の主体は牧師や宣教師ではなく、そこにいる人々と共有できる文化を持った皆さん一人一人なのです。文化の違いといっても、人種とか国といった大きなものばかりではありません。同じ社会の中であっても、文化は細分化されています。趣味や嗜好によって、年代によって、性別によって。言葉が違わなくても、おじさんと学生では異文化交流なのです。中にはこの壁を軽々と乗り越えられる人もいますがそれは例外です。ですから、クリスチャンになったからといって自分の背景から抜け出そうとしてはいけないのです。むしろそのままであることが、あなたの働きのために必要なことなのです。

21節を読みます。

召されたときに奴隷であった人も、そのことを気にしてはいけません。自由の身になることができるとしても、むしろそのままでいなさい。 (21)

皆さんの使っている聖書は「むしろそのままでいなさい」ではなく正反対に「自由になれるのなら、自由になりなさい」となっていませんか?どちらの聖書が正しいのでしょうか?どちらも文法的には正しいのです。原典では「むしろ利用しなさい」という言葉が使われています。そこで、何を利用するかの目的語を文脈から推測するしかないのです。そこで、「自由になれる機会」を目的語と考えるなら、「むしろ自由になりなさい」という訳になります。利用するのを「奴隷という状態」ととるなら、「むしろそのままでいなさい」となります。主な日本語訳でも「奴隷のままで」と訳しているのはこの新共同訳だけです。英語の聖書も手元にあるものは全て「むしろ自由になりなさい」です。 なぜ新共同訳は過去の見解に逆らって、敢えて「そのままでいる」をとったのでしょうか?それは文脈から言えば「どれいのままでいる」のほうが自然な流れだからです。今までの訳は、聖書が奴隷制度や差別を肯定していると誤解されることを恐れて伝統的に「自由になりなさい」の方をとってきたのだと思います。どちらにしても文法的には間違いではないからです。実際はパウロさんに聞いてみなければ誰にも正解は分かりません。でも、話の本筋には影響はありません。彼がここで言いたいことは、いずれにしても奴隷の状態から外面的に解放されるかどうかということが第一の問題ではないからです。

まず、知っておかなければならないことは、当時の奴隷制度は私たちが想像するものとはずいぶん違っていたということです。私たちは奴隷というと、アフリカからつれてこられた人々を苦しめたアメリカでの制度をすぐに思い浮かべますが、そこまで非人道的なものではなかったのです。たとえば、イスラエルにおいて奴隷は終身のことではなく、7年間の期限付きでした。自分で自由を買い戻すことも、出来ないことではありませんでした。

神様はあらゆる差別を憎まれます。それは聖書全体を見るなら明らかなことです。ですから聖書を引き合いに出して、自分勝手に解釈して差別を肯定することは許されません。

パウロがここで言いたかったことは、人の間では恥ずべき身分であっても神様の前には何も恥ずべきことはないということなのです。

差別はあらゆる社会に存在します。もちろんこの国も例外ではありません。人はその無知により、あなたを差別するかもしれない。抑圧するかもしれない。その時あなたは、あなたの自由な意思によって、差別される側、抑圧される側の人々の傍らに立つことができるのです。

B. 神様の前にとどまっていなさい

1) 人からの自由か、神様からの自由か(人の奴隷か、キリストの奴隷か)? (22-23)

さてパウロは、奴隷と自由人という正反対の身分を表す言葉を用いて、私達が召しだされた、その召しにとどまりなさいと勧めます。22-23節を読みましょう。

というのは、主によって召された奴隷は、主によって自由の身にされた者だからです。同様に、主によって召された自由な身分の者は、キリストの奴隷なのです。 (22)

あなたがたは、身代金を払って買い取られたのです。人の奴隷となってはいけません。 (23)

クリスチャンは社会の中での身分がどうであろうと、誰の奴隷でもないのです。たとえ罪を犯し終身刑の獄の中であっても、イエス様を主と信じ、従うなら魂は自由になれるのです。それでも物理的な檻の中にいるではないかと言う人もいるかもしれません。でも、獄につながれていない人でも社会と言う空間の中で窒息しそうになっている人もいれば、欲望や劣等感、様々な悩みという檻の中で苦しみもがいているのです。本当の自由は肉体の自由ではありません。それはどんなに追求しても得ることは出来ないし、やがてその体は滅びるしかないのです。本当の自由は魂の自由です。この魂の自由を得るために、人類は英知を尽くしてきました。しかし、学問も宗教も、イエス様の十字架と復活の時まで、答えを見つけることはできませんでした。あらゆる物事から自由になるための、たったひとつの方法は、十字架の上ですべての人の犠牲となられたイエス様の奴隷となる、ことです。イエス様が私たちに命じることは強制労働ではありません。「私に従ってきなさい」です。

人は残念ながら、何にも従わないという生き方はできません。仕事の虜のような生活から解放されたくて、ギャンブルや酒の虜になってしまう人がいます。何から自由になるといことは新しい何かのドレイになるということです。そしてあらたな悩みがそこから始ります。しかし、キリストの奴隷となる事だけは、何か別の新しい悩みをもたらすことはないのです。

2) 人の思いを越えて、主の召しにとどまろう (24)

最後の24節は今日のメッセージ全体のまとめの言葉でもあります。

兄弟たち、おのおの召されたときの身分のまま、神の前にとどまっていなさい。 (24)

私たちが目を向けるべきなのは自分の事ではないのです。過去の自分がどのような者であったかも、今の自分がどういう者であるかも問題ではありません。自分に目を向けている限り、あなたは世の悩みから自由にはなれません。

保護されていた野生動物が野に放される、といったシーンをTVで見たことはありませんか?中には、せっかく自由になれるのにケージからなかなか出ようとしないものもいます。クリスチャンになったのに、イエス様があけて下さった檻から出ようとしない人がいます。足枷ははずされているのに、はずされていることに気付かず、悩みの中に居続けるのは悲しい事です。「神様の前にしっかりととどまり」とは、思いわずらいのオリの中に後戻りしないということです。自分ではなく、イエス様のうしろ姿を見つめて歩み続けましょう

メッセージのポイント

全世界の人が救われることが神様の願いです。この国では「イエス様は西洋人の神」「キリスト教は西洋人の宗教」と誤解されがちですが、それは西洋経由で届いたという事でしかありません。またある人々は、キリスト教を「お金持ちの宗教」だと思い、ある人々は「貧しい者の宗教」だと考えるのです。人の自己中心という罪の性質が時には優越感として、時には劣等感として、福音の素晴らしさを割引して伝えてしまいます。私たちは、自分の文化的背景や社会的地位を卑下することも、誇ることもなく、ただありのままの一人の「赦された罪人」として主を人々伝えるために召されているのです。

話し合いのヒント

1) 自分の文化的背景や社会的地位を気にしてはいけないのはなぜですか?

2) 神様はあなたに、どのようなことにとどまっていなさいと教えているのでしょうか?