2006/10/22 メッセージ

「滅びの時に生き残る者」 1イザヤ10:5-34(シリーズK)

A. 神様の炎に焼き尽くされても生き残る者

1)全てのことは主の御手のうちに

私たちは歴史の中に神様の意思を学ぶことが出来ます。神様を認めず自分を高くする者が人々を苦しめ続けても、やがて滅ぼされる時が来ます。神様はたった一度の例外を除いて歴史の中に直接ご自身を表されたことはありません。その例外とは、イエス様としてこられ十字架と復活を歴史に刻み付けられたことです。それ以外の場合は、様々な人々を用いてその意思を伝えられます。それは過去の預言者たちであり、現代の教会(私たち)です。人が預言の言葉に耳を傾けず高ぶり、正義が踏みつけられる時、神様は時として断固とした処置をなさいます。アッシリアのように神様を信じない人々を用いて、神様から背を向けてしまった神様の民を罰することもあるのです。

災いだ、わたしの怒りの鞭となるアッシリアは。彼はわたしの手にある憤りの杖だ。 神を無視する国に向かって、わたしはそれを遣わし、わたしの激怒をかった民に対して、それに命じる。「戦利品を取り、略奪品を取れ。野の土のように彼を踏みにじれ」と。 しかし、彼はそのように策を立てず、その心はそのように計らおうとしなかった。その心にあるのはむしろ滅ぼし尽くすこと/多くの国を断ち尽くすこと。(5-7)

ところがアッシリアは北王国を敗北させただけではなく、やがてユダ王国にも脅威になってきました。8-11節にあるようにユダ王国の首都エルサレムもその支配下に置くと宣言しています。

彼は言う。「王たちは、すべて、わたしの役人ではないか。 カルノはカルケミシュと同じではないか/ハマトは必ずアルパドのようになり/サマリアは必ずダマスコのようになる。 偶像を持つ国々/エルサレムにもサマリアにもまさる像を持つ国々を既に手中に納めたように。そして、サマリアとその偶像にしたように、わたしは必ずエルサレムとその彫像に対して行う。」(8-11)

神様はアッシリアを用いましたが、神様に許された範囲を超えて侵略の意志を持った時、神様はアッシリアを打つ、という預言が次に続いています。

主はシオンの山とエルサレムに対する御業をすべて成就されるとき、アッシリアの王の驕った心の結ぶ実、高ぶる目の輝きを罰せられる。なぜならアッシリアの王は言った。「自分の手の力によってわたしは行った。聡明なわたしは自分の知恵によって行った。わたしは諸民族の境を取り払い、彼らの蓄えた物を略奪し、力ある者と共に住民たちを引きずり落とした。 わたしの手は、鳥の巣を奪うように諸民族の富に伸びた。置き去られた卵をかき集めるようにわたしは全世界をかき集めた。そのとき、翼を動かす者はなく、くちばしを開いて鳴く者もなかった。」(12-14)

歴史の全て、世界の全ては神様の手のうちにあります。私たちの理解者であれ、敵対者であれ神様のコントロールの及ばない者は誰もいないということです。私たちの間でもトラブルはあります。些細な行き違いや、誤解によって、恨みや、ねたみによって争いが起ります。しかし自分も相手も神様ではありません。不完全な者です。完全な神様の手の中で許されている、不完全な者同士の争いです。敵からの攻撃を通しても、神様は何かを私たちに教えてくださるのです。私たちが調子に乗って高ぶる時主は鞭を下さるのです。しかしそれによってわたしたちは永遠の滅びから免れることができます。

斧がそれを振るう者に対して自分を誇り、のこぎりがそれを使う者に向かって高ぶることができるだろうか。それは、鞭が自分を振り上げる者を動かし、杖が木でない者を持ち上げようとするに等しい。 それゆえ、万軍の主なる神は太った者の中に衰弱を送り、主の栄光の下に炎を燃え上がらせ火のように燃えさせられる。 イスラエルの光である方は火となり、聖なる方は炎となって、一日のうちに茨とおどろを焼き尽くされる。 森も牧場も魂から肉まで焼き尽くされ、くずおれて、倒れる。 森に残る木は数少なく幼子でもそれを書き留めうる。(15-19)

がんの手術をする医師は、それが転移しないようにがん細胞のすべてを注意深く徹底的にとり除きます。それと同様に神様のきよめは徹底しています。私たちの目から見れば過酷なほどの裁きの時を人類は何事か経験してきました。ノアの家族とーつがいの動物以外のすべてがのみ込まれてしまった洪水、そして、たびかさなる侵略に、多くの人々とすべての領土を失ったイスラエル。人々が神様の恵みを忘れ、たかぶる時、裁きはおこります。神様は無慈悲だと憤る人もいますが、この荒療治がなければ人類はもっと前に、もっと悲惨な形で滅びていたはずです。

2) 残りの者 (20-23)

それでは20-23節を読みましょう。

その日には、イスラエルの残りの者とヤコブの家の逃れた者とは、再び自分たちを撃った敵に頼ることなく、イスラエルの聖なる方、主に真実をもって頼る。 残りの者が帰って来る。ヤコブの残りの者が、力ある神に。 あなたの民イスラエルが海の砂のようであっても、そのうちの残りの者だけが帰って来る。滅びは定められ、正義がみなぎる。 万軍の主なる神が、定められた滅びを全世界のただ中で行われるからだ。

『残りの者』という言葉はイザヤの預言の重要なキーワードです。自分の子供に『残りの者は帰ってくる』(シェアール・アシュブ、7:3)と預言的に名付けたほどです。

残りの者とは、神様の徹底的な裁きの中を生きのびたごく少数の人々のことです。イスラエルの歴史は、やがてイザヤの預言の通りに、滅亡へと突き進んでゆきます。そしてイエス様のお生まれになるおよそ600年前に当時の強国バビロニアによって征服され、多くの民がバビロニアの首都バビロンに移されてしまいます。その60年後に、バビロンにおいても信仰を保ち続けた少数の人々を、神様は、今度はペルシャを用いて帰還させます。この人々が神殿の再建に取り掛かりました。

残りの者の役割を果した人々は後の時代にも見ることができます。12人の弟子たちもそうです。ガリラヤ湖の漁師は大勢いました。収税人もそうです。けれどもイエス様は、たった12人を、人々を神の国へと向わせる新しい時代の最初の担い手として一方的に選んだのです。

そして、今、教会は最後の時代の、残りの者の組織として立てられました。ペンテコステの出来事です。それから2000年が過ぎようとしています。このクリスチャンの歴史の中でも、多くの過ちと背信が起り、人類の危機は起りました。しかしそのたびに『残りの者』ともいえる信仰の人々が起こされ、教会は新しくされつつ今に至っているのです。

B. 現代の残りの者として生きる

1) 主の民にとって恐れるものは何もない (24-27)

それでは私たちが現代の「残りの者」として知っておきたい事をお話しします。まず24-27節を読みましょう。

それゆえ、万軍の主なる神はこう言われる。「シオンに住むわが民よ、アッシリアを恐れるな。たとえ、エジプトがしたように/彼らがあなたを鞭で打ち、杖を振り上げても。 やがて、わたしの憤りの尽きるときが来る。わたしの怒りは彼らの滅びに向けられる。 万軍の主は、彼らに対して鞭を振るわれる/かつて、オレブの岩で/ミディアン人を打たれたように。またエジプトでなされたように/杖を海の上に伸ばされる。 その日が来れば/あなたの肩から重荷は取り去られ/首に置かれた軛は砕かれる。」(24-27)

神様は私たちに「恐れるな」と呼びかけておられます。アッシリアもエジプトも小国イスラエルに比べれば圧倒的な軍事力を持った強国です。今の極東に似ています。アメリカ・中国・ロシアに囲まれた韓国・北朝鮮・日本のような状態です。しかし、とりまく強国はもっと残忍だったのです。この国の99%の神様を信じていない人々の大半は、それでも自分の日常生活の満足を求めて生きていています。そして危機感を持っている人々は、日本も核兵器を持つべきだとか、武力行使という責任を果たすべきだと呼びます。信頼できる神様をほとんどの人が知らない国ですからしかたありません。しかしキリスト教国と呼ばれる国に住んでいるからと言って安心していてはいけません。クリスチャンが国の犯罪に手を貸してしまうこともおこります。宗教改革者ルターの国、ドイツでさえ教会はナチスの抬頭をゆるしてしまったのです。神様を信頼する者は何も恐れる必要がないのに、恐れる必要のない物事を恐れる時に間違いが始まります。

戦争のことだけ言っているのではありません。私たちの日常に起こる諍いもそうなのです。100%の人が主に100%の信頼をおいているなら、争いは起こりようもありません。しかし主に信頼をおいている人は多くはありません。クリスチャンでさえ、この肉の体を持っている限り、恐れや疑いはやってくるのです。

しかし神様はそのように不完全な不信仰な私たちにでさえ、「恐れるな」と呼びかけ続けてくださいます。この声を心に聞くたびに私たちは再び立ち上がります。また躓き倒れるかもしれません。でもまた立ち上がり、主の道を歩き始めるのです。

2)実際に起っている困難な現実のなかで何を信じて耐えるのか?

やがて神様が「その日」を来たらす、といっても実際のところはアッシリアの進軍は止まるところを知りませんでした。27-32節にその様子が示されています。

彼らはリンモンの前から上ってアヤトに着き、ミグロンを過ぎて/ミクマスに軍需品を配置した。 彼らは峠を越え、ゲバに露営した。ラマは震え、サウルのギブアは逃げ去った。 娘ガリムは叫び声をあげよ。ライシャは耳を傾け、アナトトは彼女に答えよ。 マドメナは逃げて行き/ゲビムの住民は避難した。 更に今日、彼らはノブに立ち/娘シオンの山、エルサレムの丘に向かって/進軍の手を振り上げる。(27-32)

このような実際に起っている困難な現実をどう耐えてゆけばよいのでしょうか?それに対する神様の答えが最後の22-34節です。

見よ、万軍の主なる神は/斧をもって、枝を切り落とされる。そびえ立つ木も切り倒され、高い木も倒される。 主は森の茂みを鉄の斧で断ち/レバノンの大木を切り倒される。(33-34)

さきほどのナチス政権下のドイツにもヒットラーを恐れない、数少ない「残りの者たち」の教会が起こり、ナチスを倒す大きな役割をはたすことになりました。

神様に従って歩んでゆくなら、強いものを恐れる必要はありません。神様より強いものはないからです。大切なことは、できるだけ神様の近くにいること、一番よいのは神様の内側にいることです。それは自分自身が教会の生きた枝となることです。

そして私たちはみな、この体のなくてはならない部分として、ユアチャーチが神様の<御心にかなった>教会、現代の残りの者の教会であり続けられるように、力をあわせて、祈りを合わせて誠実に主に従って歩んでゆきましょう。

メッセージのポイント

神様と人との関係の歴史は、人の堕落がもたらした災いと神様の憐れみによるそこからの回復の繰り返しでした。洪水とノアの箱舟、バビロニアによる占領とそこからの解放、律法主義の呪縛と十字架と復活によるそこからの解放。その後の教会もまたその歴史の中で神様の意思を行うことから離れ誤った道に何度も迷い込みました。そのたびに神様はごく少数の人々を用いて新たな出発をさせてくださいました。罪の結果、荒廃した社会に、教会に新しい火種として送り込まれるのが「残りの者」です。神様は、次の時代に彼らを用いるために、ほとんどすべての人が滅びてしまうような事態であっても、様々な方法で彼らを守られるのです。神様の<御心にかなった>教会は現代の残りの者です。ユアチャーチがそうであり続けられるように、誠実に主に従って歩みましょう。

話し合いのヒント

1) 残りの者とはどのような人々のことを指すのでしょうか?

2) 実際に起っている困難な現実をどう耐えてゆけばよいのでしょうか?