2006/11/5 メッセージノート  マルコによる福音書シリーズL(4:35-41)

なぜ恐れるのか?まだ信じないのか?

A. 突風のように襲う人生の危機

1) クリスチャンも人生の嵐に合う

その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。(35)

そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。(36)

様々な宗教が商売繁盛、無病息災、家内安全、交通安全を約束します。人々は、この神様を信じればお金持ちになれるとか、信じれば何かがうまく行くという期待から信仰を持とうとします。しかしそのような期待から、クリスチャンになっても失望するだけです。なぜなら、神様はあなたにもっと別のものを与えたいと思っておられるからです。人々の幸せに本当に必要なものは富でも栄誉でも成功でもありません。本当の幸せは『永遠の命』を得ること、神様と共に歩み続けられることだと聖書は教えてくれます。神様があなたに与えようとしているもの、しっかりと持ち続けてほしいと願っておられるのは、この『永遠の命』です。

どんな宗教を信じていても人生の危機はやってきます。真の神様を信じている人にも、危機はやってきます。人生の危機は神様が造って送り込まれるものではありません。人々の罪が複雑に絡み合って様々な危機に人々を直面させます。誰かが教えるように、自分の行いの報いだけが災難にあう理由ではありません。また日本の新興宗教が人々を勧誘するために、先祖を正しく礼拝しないからあなたに悪いことが起るというのも真実ではありません。正しく生きていようと、邪悪な道を歩んでいようと困難はやってくるのです。しかし、神様はこの世での困難を乗り越える武具を与えてくださいました。それは信仰です。エフェソ人への手紙の6章16節には、信仰が悪の攻撃に対する盾であることが書かれています。

最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。 悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。 わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。 だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。 立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。 なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。 また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。 どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。(エフェソの信徒への手紙6:10-18)

神様はあなたに「危機のない人生」ではなく、「危機を克服する信仰」をお与えになったのです。

弟子たちはイエス様と行動を共にしていました。私たちもイエス様を主と信じて従って歩んでいます。そして弟子たちが経験したように、私たちも危機を経験します。

激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。(37)

弟子たちはイエス様の最も近くにいた人々です。それでも命を落としかねない危機をむかえていました。イエス様が共におられるというのに。

2) 私たちの恐れは怒りとして表現される

風と波を恐れた弟子たちは次にどんなアクションを起こしたと思いますか?38節を読んでみましょう。

しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。(38)

第子たちは、平然と寝ておられたイエス様にイライラして怒ったのです。日本語や英語では伝わりにくいのですが、彼らはここで弟子が先生に言うべきではない大変失礼な言い方をしています。

神様に「危機のない人生」を期待している人は、何か問題が起ると、大変恐れ、それを怒りとして神様や人々にぶつけてしまいます。クリスチャンであっても怒りのコントロールが出来ない人は、自分の信仰をよく点検してみる必要があります。日本では、「弱い犬ほどよく吼える」と言いますが、皆さんの国でも同じような表現があるでしょうか?怒りの原因には恐れがあるのです。怒っている人は実は恐れている人なのです。弟子たちは、恐れているのに、イエス様が何もしてくれないから腹を立てました。皆さんの周りには、自分の立場が悪くなることを恐れて部下を怒鳴りつける上司、自分が非難されることを恐れて、子供に怒りをぶつける親はいないでしょうか?

怒りが心の中にこみあげて来るとき、その怒りを人や神様にぶつけるよりも、自分は何を恐れているのだろうかと考えてみる方がよいのです。恐れを怒りに変えて誰かにぶつけても何の解決にもなりません。かえって人々にも恐怖を与えたり、事態を混乱させたりしてしまうだけです。

B. 神様の全能を信じるなら、人生の嵐を恐れる必要はない

1) 全能の主を信頼しよう

聖書が教える恐れの克服法はたった一つだけです。それは主イエス様を信頼するということです。

イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。(39)

人は誰でも何かを信頼して生きています。ある人は自分の豊富な経験を信じて歩んでゆきます。そして、想定外のことに直面するとパニックにおちいります。お金の力に頼って生きる人もいます。しかしお金では解決できない問題はいくらでもあります。誰か人に頼って生きている人もいます。しかしどんなに頼もしく見える人もあなたと同じ人間です。あなたの期待にいつも答えられるとは限りません。あなたを残して、先に天国に帰るかもしれないのです。

そこで聖書はきのうも今日も未来も変らない方を信頼しなさいと勧めるのです。

怒りのもとに恐れがあると言いましたが、その恐れの根源は「死」です。なぜ死が恐ろしいのでしょうか?死によってすべてを失ってしまうと思えるからです。人間関係、喜び、楽しみを全て奪ってしまうように思えるからです。恋をしている人は失恋することを恐れます。それは相手が生きていても自分とは関係のない存在になってしまう、つまりそれは「心の死」を味わうことだからです。そして実は私たちにとっては、この「心の死」の方が恐ろしいのです。いじめられて、関係を拒まれた子供たちは心を殺される体験しているのです。そこで、子供たちは好かれず、愛されず、相手にされないなら、死んだ方がましとばかりに肉体の死を選んでしまうのです。

しかし肉体の死にも心の死にも、打ち勝つことのできる唯一の武器をイエス様はあなたに差し出してくださっているのです。それを私たちに与えるために、イエス様は来られ、十字架にかかられ、よみがえられたのです。それは信じる者に与えられる『永遠の命』、魂が神様としっかりとつながることです。

2) 恐れは信頼の不足から生じる

イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」(40)

イエス様を信じていたはずの弟子たちがこれほど恐れたのは何故でしょう。彼らはどれ程の信仰を持っていたのでしょうか?

イエス様を信じるといっても、二つの意味があります。ひとつはイエス様を自分の主として認める、信仰の決心をする、という意味で、人生のある時点で起ることです。もう一つは信頼するという意味で、こちらの方はクリスチャンが生涯を通して持ち続けるものです。ここでイエス様は、私をもっと信頼しなければいけないよ、という意味で「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」とおっしゃったのです。12弟子でさえ恐れるのだから私が恐れおののくのは当然、と思わないで下さい。彼らは、まだこの時にはイエス様の十字架と復活の事実を知りません。イエス様が死に打ち勝った方であることは知らなかったわけです。しかし、私たちはそのことを知っています。イエス様を信頼することに関しては、私たちは彼らよりもっと恵まれているのです。ですからもっと大胆に信頼をおくことが出来るはずです。弟子たちは、この時恐れに打ち勝つほどの信頼をイエス様においてはいませんでした。最後の41節を読みましょう。

弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。(41)

風と波はやみ、静かになりました。しかし弟子たちはまだ恐れています。今度はイエス様を恐れているのです。結局、弟子たちはまだ、イエス様がそれぞれの人生の主として、どんな状況であれ最善を与えてくださるという確信を持っていなかったのです。だからイエス様に対して怒ったり恐れたりしたのです。

あなたはどうですか?ここには、主イエス様に従い長く歩んできた人も、つい最近主に従う決心をした人も、まだそう信じてはいない人もおられます。私たちの罪を赦すために十字架にかかり、復活して恐れの根源である死に打ち勝った、私たちの主イエスキリストは、あなたを恐れから解放します。それはあなたの怒りにも解決を与えます。ここに神様のあなたに対する無限の愛があります。もっとイエス様を信頼しましょう。イエス様はあなたの信頼を決して裏切ることのないお方です。

この信頼は主と共に歩み始めることによって成長します。危機や問題はやってきます。しかしそのような時に、イエス様が、最善の方法であなたの祈り、あなたの叫びに応えて下さることを体験できるのです。そしてその繰り返しがあなたの信仰をさらに強くしてくれます。

メッセージのポイント

神様を信じていても人生の危機はやってきます。神様はあなたに「危機のない人生」ではなく、「危機を克服する信仰」をお与えになったのです。この点を誤解している人は、何か問題が起ると、大変恐れ、それを怒りとして神様や人々にぶつけてしまいます。神様を心から信頼している人は、恐れをおぼえても神様にゆだねることが出来ます。危機がやってきた時にこそあなたの信仰の真価が発揮されるのです。「危機を克服できる信仰」とは、「神様が全能の方であるという信頼」プラス「神様は私を愛し最善を与えて下さるという確信」です。

話し合いのために

1) クリスチャンになれば困ったことは何も起らないのですか?と聞かれたらどう答えます?

2) 人生の危機から身を守る方法は?