2006/11/19 メッセージノート 

結婚/二倍の苦労と二倍の祝福 1コリント7:25-40

A. 聖書の二つの読み方

1) 聖書を文字通り受け取ることは不可能

未婚の人たちについて、わたしは主の指示を受けてはいませんが、主の憐れみにより信任を得ている者として、意見を述べます。 今危機が迫っている状態にあるので、こうするのがよいとわたしは考えます。つまり、人は現状にとどまっているのがよいのです。 妻と結ばれているなら、そのつながりを解こうとせず、妻と結ばれていないなら妻を求めてはいけない。 しかし、あなたが、結婚しても、罪を犯すわけではなく、未婚の女が結婚しても、罪を犯したわけではありません。ただ、結婚する人たちはその身に苦労を負うことになるでしょう。わたしは、あなたがたにそのような苦労をさせたくないのです。(25-28)

終末が非常に近いと考えられていた当時のクリスチャンのあいだでは、結婚は積極的に奨励されるものではありませんでした。ですから、この箇所は当時の特殊な時代背景の中での勧めであって普遍的なものではありません。もしこれを全ての時代のクリスチャンに当てはめて考えたなら、子孫を残させないのですからクリスチャンはもうこの地上にはいなくなっていたことでしょう。「聖書を時代や状況に合わせて解釈してはいけない、そのまま字義通り受け取らなければいけない」と主張する人がいます。もちろん自分勝手な解釈は許されません。しかし、一切の解釈なしに、聖書を読むことは不可能です。「私は解釈をせずに、聖書をそのまま受けとっている」と主張しても、そうすること自体が、すでにひとつの解釈をしていることになります。さらに問題なことは、そのような人は、「私が言っていることは、解釈ではないのだから、神様の命じておられることだ」と人に押し付けてしまうことです。そのような人はここ(25節)でのパウロの主の命令と自分の意見を区別する注意深さに倣わなければいけません。

2) どう解釈をして読むべきか?

それでは私たちは、2000年近く前にパウロがコリントの教会の人々に宛てた手紙から、何を学ぶことができるのか?注意深く考えてゆきましょう

兄弟たち、わたしはこう言いたい。定められた時は迫っています。今からは、妻のある人はない人のように、泣く人は泣かない人のように、喜ぶ人は喜ばない人のように、物を買う人は持たない人のように、世の事にかかわっている人は、かかわりのない人のようにすべきです。この世の有様は過ぎ去るからです。(29-31)

もし、ある人が自分の相手である娘に対して、情熱が強くなり、その誓いにふさわしくないふるまいをしかねないと感じ、それ以上自分を抑制できないと思うなら、思いどおりにしなさい。罪を犯すことにはなりません。二人は結婚しなさい。 しかし、心にしっかりした信念を持ち、無理に思いを抑えつけたりせずに、相手の娘をそのままにしておこうと決心した人は、そうしたらよいでしょう。 要するに、相手の娘と結婚する人はそれで差し支えありませんが、結婚しない人の方がもっとよいのです。(36-38)

妻は夫が生きている間は夫に結ばれていますが、夫が死ねば、望む人と再婚してもかまいません。ただし、相手は主に結ばれている者に限ります。 しかし、わたしの考えによれば、そのままでいる方がずっと幸福です。わたしも神の霊を受けていると思います。(39-40)

ここには聖書全体と照らして考えると私たちにとっても有効な二つ真理を汲み取ることができます。

ひとつは、人間関係の中で結婚はもっとも大切なものですが、それ以上に大切な関係があるということ、それは神様とあなたとの関係です。

人と神様を比べることはできません。あなたにかけがえのない大切な人がいたとしても神様以上のプライオリティーをその人におくなら、その人を幸せにすることも、自分が幸せになることもできません。夫婦が幸せになる秘訣は互いに見つめあっているだけではなく同じ方にふたりで目を向けることです。

もう一つは、すぐにではないかもしれませんが、この世の有様は過ぎ去る、ということです。この世での歩みはいつまでも続くわけではありません。人間関係も社会のしくみも財産も永続するものではないのです。だからそれら有限なものに心を寄せ、頼りにするなら、遅かれ早かれ失望・絶望することになります。何十年何百年何千年と時が経っても変わらずにあなたを愛し続けてくださる神様に頼りましょう。

B. どう主に仕えるべきか?

思い煩わないでほしい。独身の男は、どうすれば主に喜ばれるかと、主のことに心を遣いますが、結婚している男は、どうすれば妻に喜ばれるかと、世の事に心を遣い、心が二つに分かれてしまいます。独身の女や未婚の女は、体も霊も聖なる者になろうとして、主のことに心を遣いますが、結婚している女は、どうすれば夫に喜ばれるかと、世の事に心を遣います。 このようにわたしが言うのは、あなたがたのためを思ってのことで、決してあなたがたを束縛するためではなく、品位のある生活をさせて、ひたすら主に仕えさせるためなのです。(32-35)

1) 独身者として主に仕える方法

独身者といっても、独身の賜物が与えられていて生涯、結婚せずにただ主にのみ仕える人はそれほど多くはないのです。ここにいる独身者のほとんどは、まだ結婚の相手に出会うタイミングを迎えていないのです。独身の皆さんの今の状態は期限付きの特権として与えられているといってもいいかもしれません。結婚をしている人々よりも、より心を尽し、時間を尽し、力を尽して主に仕えられます。独身の皆さんにはぜひこの特権の時を生かして、神様のために時間を、労力を用いて下さい。家に帰る時間を気にせずに主の働きができるのは今のうちです。既婚者がその配偶者や子供たちのために費やさなければならない時間や労力は相当なものです。またそうでなければ、神様の祝福に満ちた家庭を守ることは出来ません。ですから、独身の皆さんは結婚して家庭を持っている人を自分と同じように主のために時間や労力を使っていないと裁いてはいけません。彼らは、家族を愛することを通しても主に仕えているのです。

2) 夫婦として主に仕える方法

自身が独身で、しかも終未を強く意識していたパウロは結婚して主に仕えるという生き方についてはよく教えてくれません。パウロは妻や夫に心を砕くことは世に属する事だと言っています。世が本当にすぐに終るなら確かにもっと心を砕かなければならない事があるでしょう。しかし世はまだまだ続くかもしれないのです。そうであれば夫婦としての働き、親としての働きは重要です。夫婦は主に仕えるということに関して独身者より不利なことばかりではありません。主にあって平安な家庭を築くことそれ自体が、家庭崩壊の時代といってもよい程の現代社会にあって、神様の恵みの証であり、効果的な伝道です。教育もまた、いつやってくるかわからない終りの日まで、主を礼拝し、主の恵みを語り告げる人をたやさないための大切な働きなのです。苦労は多くても、それをいとわなければ、神様は大きな祝福で応えて下さいます。

この国のクリスチャンホーム、クリスチャンカップルにはユニークな役割が課せられています。それはシングルのクリスチャンたちの霊的なホームを提供するということです。この国の若いクリスチャンの多くは、クリスチャンホーム育ちではありません。そこではクリスチャンホームの恵みに与ることが出来ません。友達にクリスチャンとしての自分の行き方を伝えるために彼らが友達を招けるようなホームが必要なのです。若い人たちがミニチャーチを出来るように自宅を提供するということも出来ます。感謝祭やクリスマスにシングルの人たちを招くことも出来ます。

メッセージのポイント

終末が非常に近いと考えられていた当時のクリスチャンのあいだでは、結婚は積極的に奨励されるものではありませんでした。ですから、この箇所は当時の特殊な時代背景の中で勧めであって普遍的なものではありません。聖書を文字通り受け取ろうとする努力も、解釈して読もうとする努力も、それが極端になるとどちらも神様の意思からは離れたものになってしまいます。しかし書かれていることが特殊な状況下にあることだといって、勝手な解釈をしたり、関係ないと切り捨てるわけにはいきません。私たちが、ここから聞くべきことはたくさんあります。事実、賜物として独身を与えられている者は、伴侶がいる者に比べればより多くの時間とエネルギーを主に仕えることに費やせるのは今でも変わりありません。ところが今日、この賜物を与えられているものは非常に少ないのです。賜物がないのに、独身でいようとすれば、結局、主に仕えるための時間とエネルギーは、誘惑と戦うために用いなければなりません。神様に仕える時間とか費やすことのできるエネルギーのことを考えるなら、伴侶が与えられている者は、確かに独身者より不利かもしれません。しかし、夫婦だからこそできる仕え方もあるのです。

話し合いのヒント

1) ここで展開されている結婚の教えを、私たちはどう受け止めたらよいのでしょうか?

2) 独身の時の仕え方と、夫婦としての仕え方にどんな違いがありますか?