1/14/2007メッセージ  ヤコブの手紙 1:19-27

神様が求める人材となろう

(用いられたいという願いがかなえられるためにあなたがなすべきこと)

今日は、私たちユアチャーチの2007年の歩みの指針「神様の求める人材となろう」ということについて、その根拠となるテキスト「ヤコブの手紙 1:19-27」から学んでゆきましょう。

A. 御言葉を受け入れなさい

1) 聞くのに早く話すのに遅い人 (19a)

神様の求める人材の特徴の一つは「聞くのに早く話すのに遅い」ということです。

わたしの愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く

私たちはどちらかというと、このテキストとは反対に自分が話すことに早い者です。相手の言うことを十分聞かず、ひどい時には、相手の話をさえぎって自分の主張を伝えようとするのです。大きな声でマシンガンのようにまくしたてれば相手を黙らせることはできますが、納得させることはできません。しゃべりすぎるのは、よく分ってほしいからなのですが、それが過ぎれば逆効果です。クリスチャンは、イエス様を紹介したいという願いから、しゃべりすぎてしまうことがありますが、イエス様は、私たちが言葉でだけで伝えることのできる方ではありません。私たちは神様にいただいた愛をあらわすことによってイエス様を伝えます。イエス様はクリスチャンに、会話の中にも愛を働かせる事を願っておられます。イエス様ご自身はどうだったのでしょうか?福音書の大きな目的の一つはイエス様の言葉を伝えることですから、イエス様がお話しされているシーンが沢山あって、イエス様に雄弁な印象を持っている方がおられるかもしれません。説教や、弟子たちに語りかけている時以外では、じっくり静かに相手の話を聴きポツリと短く的を得た答えをなさいました。黙っているだけでは、まだそこに愛はありません。心を傾けてよく聞くことを求められているのです。聴くより話す方がずっと簡単です。聴くには共感と忍耐が必要だからです。あなたがしてほしい事をしてあげなさい、とイエス様はおっしゃいましたが、あなたは、誰かに何か話すときに、あなたの一言に対して10倍の量、答えてほしいですか?それともじっくり聴いて、必要な一言を口に出してほしいですか。今年は去年より少しでも、聞くのに早く、話すのに遅い人になりましょう。愛することは、聞いた事に直ぐ沢山答えを与えることであるよりも、じっくりと時間も気にせず、自分の言いたいことも少し胸の中に寝かせながら聴いてあげることです。

2) 怒るのに遅い人 (19a-20)

第二のことは「怒るのに遅い」ことです

また怒るのに遅いようにしなさい。 人の怒りは神の義を実現しないからです。

人はどのようなときに怒るのでしょうか?自分の思い通りにならないとき、不利益をこうむった時、自分を軽くみられた時、馬鹿にされたときなどです。そのことに対する反感や憎悪が怒りとなって噴出します。人として歩まれたイエス様は、ほとんど怒りをあらわにされない方でした。イエス様がお怒りになった数少ない出来事をみると、私達がつい怒ってしまうような怒りではなく、神様にそむいている人間の不幸を嘆くような怒りであったことが分かります。私たちの怒りはそれに比べてなんと利己的な怒りなのでしょうか?イエス様の怒りのように正義からくる怒りもあるでしょう。また怒りには精神の平衡を保つ機能もありますから、怒り自体を否定するものではありませんが、怒りやすい者、怒りをコントロールできない者は神様の目にかなった人材にはなれません。

正義による行動だと思えても、そのエネルギーが怒りであるならよい実を実らせることは出来ません。怒りを蒔けば怒りを刈り取ることになります。恨みを蒔けば恨みしか実りません。

3) そのような人となるために御言葉を受け入れなさい (21)

 それでは、どうしたら聞くのに早く、話すのに遅く怒るのに遅い人になれるのでしょうか?ヤコブは、そのために努力しなさいとか修行をしなさいと勧めてはいません。

だから、あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。

心の汚れや悪が支配している限り、聞くのに早く話すのに遅く怒るのに遅い人になることは誰にとっても難しいのです。ヤコブが勧めているのは心に植え付けられた御言葉を受け入れることです。この言葉を受け入れることが、心を罪や悪から解放することになるのです。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。と書いてある通りです。人々の心に神様の言葉を蒔くことは、私たちの務めです。しかし蒔かれた種が芽を出し、育ち、花を咲かせられるかどうかは、その人の決意にかかっています。クリスチャンであるならば御言葉を受け入れているはずなのです。それなのに、聞かずに話してしまったり、直ぐに怒ってしまったりする傾向を持っているとしたら、もっと本気で御言葉を受け入れなければいけないということです。神様に用いられる人になるために、心を他のものではなくもっと御言葉でいっぱいにしましょう。

B. 御言葉を行う

神様は、よく聞き、怒りを制することが出来ても、また心が御言葉に満たされているとしても、あなたに次のステップに踏み出してほしいと願っておられます。それは「御言葉を行う」ということです。

1) あなたは聞くだけに終っていませんか?(22-24)

御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。 御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、その人は生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています。 鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去ると、それがどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。

週の初めの朝私たちは、共に同じ聖書の個所から神様が語りかけてくださる事を聞きます。聖書の言葉は鏡のように自分自身を飾ることなく映し出します。朝おきて鏡の前に立ち、寝癖になっていたらそれをその場で直さない人はいません。それでは、疲れた顔の自分が立っていたらどうしますか?今日は無理をするのをやめようとか栄養があるものをしっかり食べようなどと考えます。しかし鏡を離れて職場に赴き仕事を始めると、忙しさにかまけて無理をしたり、昼食を抜いてしまったりしてしまいます。そして帰宅して鏡を見るともっと疲れている自分に対面することになります。御言葉を行わない人というのは、説教を聞いたり、聖書を読んだりしても、そこで知らされた自分のするべき事を忘れて何もせずに日常を過ごしているということです。

2) 御言葉を行う人の幸せ (25)

私たちが週の初めの日の礼拝の中で神様の言葉の説教を聞くのは、命じられているからだけでも、聖書の内容を知るためだけでも、そこで慰められるためだけでもなく、その言葉をこれから行うためです。語られた御言葉を行うところに、クリスチャンの幸せがあります。

サンデークリスチャンという言葉をご存知ですか?日曜日には熱心に教会に集っていても平日の間は実際のところクリスチャンとして歩んではいない人のことです。御言葉を行わなければ、神様の恵みの全てを受け取ることは出来ません。日曜日の自分と平日の自分のギャップに悩んでしまいます。重症になればもう悩むこともなく、惰性の教会生活と惰性の日常生活の間を、生かされている目的を忘れて一生漂流していることになってしまいます。神様を全く知らずに歩いているよりもっと悲惨な状態だと思いませんか?そこでもう一度しっかりと御言葉を行う人として生きるために25節を心に刻み付けましょう。

しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です。このような人は、その行いによって幸せになります。

自由をもたらす完全な律法とはイエス様に従って行動しなさいという戒めです。この道は前を行くイエス様を、いつでも一心に見つめていなければ、簡単に踏み外してしまうような狭い道です。世界にはもっと広くて、にぎやかで、楽しそうで、歩きやすそうな、そんな道はいくらでもあります。でもそれらは皆、救いに至る幸いの道ではなく、滅びに至る災いの道であることに気をつけてください。

C. 意味のある信心

1) 無意味な信心 (26)

26節には神様が求める人材のもう一つの特徴が記されています。それは「舌を制すること」 です。

自分は信心深い者だと思っても、舌を制することができず、自分の心を欺くならば、そのような人の信心は無意味です。

どんなに宗教的な振る舞いをしていても、礼拝に熱心であっても、献金を沢山していても、舌を制することができない人の宗教は虚しいというのです。最初にお話しした「語るに遅い」だけではまだ足りません。ここでは語る内容が問題とされています。神様を讃美するその口を、嘘、中傷、誇大、矮小、偽善、暴言にも用いる事を神様は大変、悲しく感じられるのです。それはまた人を躓かせることにもなります。だからそんな事をしている人の宗教は無意味だと、とても強い言葉で警告しています。

2) 清く汚れのない信心 (27)

最後の27節に、「御言葉を行う」ことの一例が記されています。

みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です。

弱いもの、困っているものに手を差し伸べるという、他者への働きかけと、自分を清く保つという自制との二つの要素のどちらもが、神様の働きを担う人材には不可欠な条件です。

詩編115編には歩む道をきよめるには、神様のみ言葉どおりに道を保つことだと、教えられています。私たちは御言葉を行い、御言葉で心を満たすことによって、より神様に用いられやすい者となることが出来ます。

そのためには、御言葉を行うことにしても、心に蓄えることにしても、小さな一歩を着実に、日々少しでも前進してゆくことが大切です。互いに励まし、助け合って主の働き人によりふさわしい者になれるよう、新しい年を歩んでゆきましょう。

メッセージのポイント

神様は「神の国」を完成させるために、人を用いられます。神様が必要とされる人材となるために身に付けるべき徳性がここでいくつか紹介されています。これらの徳性を身に付けるために、御言葉を一心に見つめ、それを守る人、「御言葉を行う」人の道を歩み始めましょう。

話し合いのために

1) あなたの今年の目標は?

2) 御言葉を行うとは?