2007/2/18 メッセージ 1コリント9:1-18(15)

パウロスタイル V.S. ペテロスタイル

A. パウロの場合

1) パウロが使徒の権威を疑われた理由

わたしは自由な者ではないか。使徒ではないか。わたしたちの主イエスを見たではないか。あなたがたは、主のためにわたしが働いて得た成果ではないか。 他の人たちにとってわたしは使徒でないにしても、少なくともあなたがたにとっては使徒なのです。あなたがたは主に結ばれており、わたしが使徒であることの生きた証拠だからです。(1-2)

当時の教会では、中心となる指導者たちが使徒と呼ばれて尊敬されていました。使徒という言葉の起源は、イエス様が12人の弟子をそのように呼ばれたことです。使徒言行録では彼らに加え、死んだユダに代わって任命されたマッテヤと、復活した主に出会い劇的な回心をしたパウロ、そしてパウロの同労者バルナバにそのタイトルが認められていたことが記録されています。

このテキストでは、パウロがその使徒としての資格を疑われていたことが分かります。しかもここでパウロを疑っている人が属するコリントの教会は、パウロの宣教によって出来た教会でした。パウロは自分が種をまき育てた教会の人から「あなたには指導者の資格がない」と批判されたわけです。そこでパウロはこう反論しています。

わたしを批判する人たちには、こう弁明します。 わたしたちには、食べたり、飲んだりする権利が全くないのですか。 わたしたちには、他の使徒たちや主の兄弟たちやケファのように、信者である妻を連れて歩く権利がないのですか。 あるいは、わたしとバルナバだけには、生活の資を得るための仕事をしなくてもよいという権利がないのですか。(3-6)

パウロがその権威を疑われた根本的理由は12人のように地上を歩かれた時のイエス様の直接の弟子ではなかったことです。しかしここで問題となっていたのは、そのことだけではありませんでした。他の使徒たちとは違うところがあったからです。彼は教会から報酬を得ることなく、自分で生活費を稼ぎながら主の働きをしました。彼は独身者として主に仕えていました。教会からサラリーを受け取らず、妻と二人で活動していないから、パウロやバルナバは使徒とはいえない、というのが批判者の主張でした。そしてそんな人に従う必要はないと、教会で主張し、コリントの教会を混乱させていたのです。

2) パウロが与えられていた権利を用いなかった理由

パウロは、使徒は誰でも自費で働くべきだとか、妻を持つべきではないと主張したのではありません。むしろそれは、主の働き人として当然の権利だと言っています。7-11節まで読み進めてゆきましょう。

そもそも、いったいだれが自費で戦争に行きますか。ぶどう畑を作って、その実を食べない者がいますか。羊の群れを飼って、その乳を飲まない者がいますか。 わたしがこう言うのは、人間の思いからでしょうか。律法も言っているではないですか。 モーセの律法に、「脱穀している牛に口籠をはめてはならない」と書いてあります。神が心にかけておられるのは、牛のことですか。 それとも、わたしたちのために言っておられるのでしょうか。もちろん、わたしたちのためにそう書かれているのです。耕す者が望みを持って耕し、脱穀する者が分け前にあずかることを期待して働くのは当然です。 わたしたちがあなたがたに霊的なものを蒔いたのなら、あなたがたから肉のものを刈り取ることは、行き過ぎでしょうか。(7-11)

パウロは他の使徒たちの在り方が間違っているということではなく、自分の働きにとってはこのスタイルが最もふさわしいという確信に従ってそうしているというのです。

働きのスタイルが違うからといって、その人には使徒としての資格や権威が無いというような論争は、残念ながら今の教会にも引き継がれています。それは無意味な議論で教会の一致を傷つけるものでしかありません。

B 有給か無給かの議論は無意味

1) 「権利」を使う権利、使わない権利

他の人たちが、あなたがたに対するこの権利を持っているとすれば、わたしたちはなおさらそうではありませんか。しかし、わたしたちはこの権利を用いませんでした。かえってキリストの福音を少しでも妨げてはならないと、すべてを耐え忍んでいます。 あなたがたは知らないのですか。神殿で働く人たちは神殿から下がる物を食べ、祭壇に仕える人たちは祭壇の供え物の分け前にあずかります。 同じように、主は、福音を宣べ伝える人たちには福音によって生活の資を得るようにと、指示されました。 しかし、わたしはこの権利を何一つ利用したことはありません。こう書いたのは、自分もその権利を利用したいからではない。それくらいなら、死んだ方がましです……。だれも、わたしのこの誇りを無意味なものにしてはならない。(12-15)

当然のこの権利を使わないことはパウロの誇りでした。それが自分にとっては妥協のない純粋な仕え方だと確信していたのです。キリストの体の働きは多様です。パウロはそれを知っていましたから、他の使徒が自分のようにしないことを批判したりはしませんでした。しかし、自分が彼らのようではないから、彼らのようにするべきだという意見に対しては、誇りを持って拒んだのです。

百数十万人しかクリスチャンのいないこの国にも、様々な教派、教会があり、異なる特長を持った神学校が未来の教会指導者を養成しています。ある人は、牧師たるもの決して外の仕事で報酬を得てはいけない、と教えられて牧師になりました。ある人はパウロスタイルが理想だと教えられて他に仕事を持ちながら伝道しています。

Y教会では、牧師にその所在地のY市市長と同じ位のサラリーを差し上げたい、と人々が願いました。私の個人的な考えでは、私が町田市長と同じ給料を得るのは多すぎると思いますが、彼らの教会にとってその考えは正しかったのです。Y教会は祝福され日本有数の大きく影響力を持った教会になりました。きっと彼らの願いは神様がかなえてくださったと思います。

この町田市には、学校の先生をしながら牧会をしている牧師に導かれて良い働きをしているM教会があります。もちろん牧師は平日の昼間には牧師としての働きをする時間はありません。しかし、人々は指導者のヴィジョンを、自分たちが働き人となって働くことによって実現しているのです。牧師だけが働き、動き回って、他の人はお客さんのような教会は、この教会を見習わなければなりません。

どちらも主に忠実な教会、牧師、信徒たちです。誇りを持った幸せな教会です。しかし一番多い考え方は、指導者には他の仕事をしないで教会の働きに専念してもらいたいけれど、教会の力は十分ではないのでそうなれるまで、他の仕事で補ってもらおう、というものでしょう。

それも正しい考えです。けれども残念なことに、このタイプの教会では、指導者も教会員も今の在り方に誇りをもてないでいることが多いのです。誇りを持てないことは健康な姿ではありません。お金の問題はそのような教会の中に、サタンが仕掛けるおいしい餌でもあるのです。誇りと自信がない所で一致を保つことは出来ません。

さあ、町田市にあるY教会(ユアチャーチ)のことを話しましょう。ユアチャーチの基本文書には、お金の取り扱いについて、オープンで神様の栄光を傷つけないよう注意深く記されています。そこにはたった二つのルールが書かれています。「人件費の総額は収入の50%を超えてはいけない」と「有給の教会職員の給与は、町田市の同年齢の平均とする。」というものです。このルールに従って皆さんは最大限に牧師の働きを支えてくださっています。ですから、この教会に誇りを持っていただきたいのです。Y教会のようある必要もなければ、M教会のようである必要もありません。

2) どんな形であれ神様が彼らを養っている

それでは16-18節を読みましょう

もっとも、わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです。 自分からそうしているなら、報酬を得るでしょう。しかし、強いられてするなら、それは、ゆだねられている務めなのです。 では、わたしの報酬とは何でしょうか。それは、福音を告げ知らせるときにそれを無報酬で伝え、福音を伝えるわたしが当然持っている権利を用いないということです。(16-18)

ここで私たちは、パウロの神様に人生の全てを委ねた、クリスチャンの歩み方の優れたお手本を示されています。自分には関係のない、指導者のありかたの手本ではありません。すべてのクリスチャンが持つべき態度です。

私たちは、実際のところ、教会からの謝儀、妻が会社で働いて得られる収入、私が教会外のウエディングでいただく収入で生活しています。しかし、教会も会社もウエディングも収入という点で言えば、同じ源泉からつながっている別のパイプであるに過ぎないのです。私たちは、誰に養ってもらっているとも、自分たちの手で稼ぎ出しているとも思っていません。ただ主が必要を満たして養っていてくださるのです。ただ神の国とその義を求めるなら、必要の全てを主が満たしてくださるとマタイによる福音書6章にあるとおりです。

教会の働き人は牧師だけではありません。全てのメンバーは神様の働き人です。ほとんどの人はフルタイムの仕事をしながら主に仕えています。ユアチャーチでは教会からサラリーを受けているのは牧師だけです。しかし、全てのメンバーは神様から報酬を得ているのです。教会を通してか、会社を通してかの違いに過ぎません。多くの時間や労力を教会の活動にさけなくても、あなたが職場に、家庭に、学校に存在し、神様の愛をあらわすこと自体があなたの働きなのです。あなたはパウロスタイルの働き人なのです。

メッセージのポイント

 使徒の時代から、働き人の報酬は議論されてきました。今でも各教会はそれぞれの考え方に従って指導者に対する報酬のあり方を決めています。それぞれの確信に基づいて決められるべきであり、どのようなあり方が優れている、あるいは劣っているという問題ではありません。教会の指導者は権利を用いる権利も用いない権利も持っています。そもそも、教会の働き人は牧師だけではありません。全てのメンバーは神様の働き人です。ほとんどの人はフルタイムの仕事をしながら主に仕えています。ユアチャーチでは教会からサラリーを受けているのは牧師だけです。しかし、全てのメンバーは神様から報酬を得ているのです。教会を通してか、会社を通してかの違いに過ぎません。多くの時間や労力を教会の活動にさけなくても、あなたが職場に、家庭に、学校に存在し、神様の愛をあらわすこと自体があなたの働きなのです。パウロスタイルに誇りを持ちましょう。

話し合いのために

1) パウロはなぜ外の使徒たちのように教会から報酬を得ようとしなかったのでしょうか?

2) あなたも主の働き人です。その報酬はどのように得ていますか?