2007/5/20 メッセージ コリントの信徒への第一の手紙10:23-11:1 シリーズQ

ちょっと待って!何のためにそれをするの?

A. 求めるのは他者の益

1)許されている事と益になることは異なる(23-24)

「すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことが益になるわけではない。「すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことがわたしたちを造り上げるわけではない。 だれでも、自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい。

 ここでパウロは、無条件に人間には何をすることでも許されているということを言っているわけではありません。私たちの倫理の根底には十戒があり、そこには人間として許されない行為が、「殺してはならない、盗んではならない」といったように、はっきりと記されています。ところが同じ十戒の中に「偶像礼拝を禁ずる」ということがあります。コリントでは、市場に、偶像に捧げられた肉が流通していたので、それを食べたら知らず知らずのうちに、この偶像礼拝をしてしまうことになるのではないか?という議論がありました。この問いに対する答えとしてパウロはこのように言っているのです。  「すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことが益になるわけではない。「すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことがわたしたちを造り上げるわけではない。というのは実感できるでしょう。例えば、煙草を吸う人には耳が痛いかもしれませんが、煙草を吸うことは場所をわきまえれば大人にとっては許されていることです。一日何本までです。という決まりはありません。しかし周りの人にとっても自分自身にとっても益にはならない、ということを皆知っています。お酒もそうです。飲んでいい量が法律で決められているわけではありませんが。多すぎれば肝臓の益にはなりません。    問題は 「だれでも、自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい。」という後半の言葉です。誰でも自分の利益のために生きているのではないでしょうか?時には人の利益を取り上げてでも自分の利益を確保しようとするのが、世の常識です。けれども聖書は、つまり神様はそういう生き方を勧めるのです。どうしたらそのような生き方が出来るのかということをこれから、お話したいと思いますが、その前に実際にコリントの人々に書かれたパウロの答えを見ておきましょう。私たちの求めている答えのヒントになるはずです。 25-27節を読みましょう

2)すべては許されている-基本的な考え方(25-27)

市場で売っているものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい。 「地とそこに満ちているものは、主のもの」だからです。 あなたがたが、信仰を持っていない人から招待され、それに応じる場合、自分の前に出されるものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい。

なぜ神様がイスラエルの民に、旧約聖書にたくさん出てくる食物規定を与えられたのか、様々な理由が考えられていますが、本当の答えは知らされてはいません。他の多くの宗教にも様々な食物規定が存在します。キリスト教はどうですか?キリスト教には食物規定はありません。人が食べて身体に害を及ぼさないものなら、それがどんな宗教儀礼のプロセスを経たものであっても、私たちの魂に悪い影響を及ぼすことはありません。 そのような意味で、全ては許されていると表現しているわけです。

3)他者の益にはならないケース(28-30)

ただ「すべてのことが許されている。しかし、すべてのことが益になるわけではない。」(23) また、「あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。」(31) とあるように、食べ物自体が問題なのではないにしても、特定のものを避けた方が良い場合があることを知っておかなければなりません。28-30節を読みましょう。

しかし、もしだれかがあなたがたに、「これは偶像に供えられた肉です」と言うなら、その人のため、また、良心のために食べてはいけません。 わたしがこの場合、「良心」と言うのは、自分の良心ではなく、そのように言う他人の良心のことです。どうしてわたしの自由が、他人の良心によって左右されることがありましょう。 わたしが感謝して食べているのに、そのわたしが感謝しているものについて、なぜ悪口を言われるわけがあるのです。

わたしたちが属するキリストの体の他の部分の人々の中には、聖さを保つために、食べたり飲んだりするのを避けるべき物があると信じている人々もいるのです。ユダヤ人クリスチャンの中には、今も旧約の食物規定を自分のアイデンティティーとして守っている人が多くいます。イスラムの人々はアルコールを飲みません。豚肉を食べません。このような人々を軽んじて無理強いすることはもちろん、目の前でこれみよがしに口にするようなこともするべきではありません。 その人の良心を傷つけないためです。私たちには大きな自由が与えられています。しかし、それを他者の良心のために自制することをも求められているのです。

B. すべては神様の栄光のために

1)人を惑わす原因にならないようにしなさい(31-32) 31-32節を見てゆきましょう

だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。 ユダヤ人にも、ギリシア人にも、神の教会にも、あなたがたは人を惑わす原因にならないようにしなさい。

あなたの行いや、発する言葉が、周りの誰にとっても良いことなのかどうか、普段、よく考えずにしているのなら、少し立ち止まって、心をチェックしてみる必要があります。「ユダヤ人にも、ギリシア人にも、神の教会にも惑わす原因にならないように」とは、あなたに敵対するような立場の人とかライバルにも、自分と同じ価値観を持っていない人にも、持っている人にも益となることを追い求めなさいということです。そんな、誰にとっても益になるということがあるのでしょうか?誰かの益は誰かの損というのが当然ではないでしょうか?そんな声が聞こえてきそうです。そのような、世界を支配している常識的な考え方にはエゴ、利己心を肯定するという前提があります。「人のことなんか、他の国のことなんか、自分の欲望のためにはどうなってもかまわない」という前提です。聖書はこの前提がまず間違っているのだと教えてくれます。社会のあらゆる争い、問題はもとをたどれば人々の心の中にある利己心から生み出されるものです。自分の国や民族の益を思うことは大切なことですが、そこに世界全体という視野を欠くなら愛国心、民族主義は集団的利己主義となってしまいます。世界のすべての人に心を配れるのは、この世界を創られた神様以外にはおられません。そこで私たちは、自分の欲望に従おうとするのではなくこの神様の意思を求めるのです。それが神様の栄光を求めるということです。どのように、それはシンプルなことです。礼拝を頂点として、祈ること、聖書を読むこと、神の家族との交わりを大切にすることで、私たちの、神様の意思を正しく知るセンスが養われるのです。シンプルですが難しいことです。 この戦争は神様の栄光のためだと言いながら、実は「自分の」栄光を求めて戦う指導者や、それを後押しする宗教家がいるように油断すると簡単に間違えてしまうということです。クリスチャンにも、キリスト教国にも、教会にも同じ危険があります。だから私たちは、ただ習慣的に礼拝したり、祈ったりするのではなく、毎回心新たにして、真心から、そうしましょう。この礼拝、この祈りが、地上での最後のチャンスであるかのように。

2)模範となる責任(10:33-11:1)

わたしも、人々を救うために、自分の益ではなく多くの人の益を求めて、すべての点ですべての人を喜ばそうとしているのですから。わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい。

キリストに倣うということは、キリストに倣っている人に倣うということだと、パウロは大胆に宣言しました。「私の生き方を見てくれ!見てまねしなさい!」こんなことは大抵の人は言いたくはありません。残念ながら私たちはイエス様の姿を直接肉の目で見ることはできませんから、聖書の言葉を手がかりに倣おうとします。でもパウロはそれだけではなく、他の、神様のものとされた人々の歩みに倣うことで、キリストに倣うことができると教えてくれました。パウロは自分の弱さ、罪深さを知っている人です。決して自分は凄いぞ、偉いぞと自慢しているわけではありません。パウロの誇りはイエス様でした。イエス様に従うことで、こんな自分も用いられ、人の喜びを自分の喜びとして喜び、人の悲しみを自分のこととしてうけとる、そんな生き方をさせて頂けた感謝が、この言葉には込められています。今イエス様はもちろんパウロに倣うこともできません。誰に倣ったら良いのでしょうか?クリスチャンの歴史はイエス様に倣うことから始まりました。弟子たちはイエス様に倣い、人々は弟子たちに倣い、その人々は次の時代には倣われる者となりました。このようにしてクリスチャンの歴史は今に至っています。それはあなたが誰かに倣う者であり、やがて誰かがあなたに倣って成長するということです。しかし誰もが「私に倣いなさい」と言いながらもイエス様を指し示す者でなければなりません。自分には人が見習う価値があると勘違いしてはいけません。イエス様があなたに願っておられるのは「あなたと同じかそれ以上に不完全な私がキリストに従って恵みのうちを歩んでいること見て、あなたもやってみて下さい」という願いを持つということです。このことは、年齢の高い低い、クリスチャン歴の長い短いは関係ありません。まだ子供であっても、大人たちはかなわないまっすぐな信仰を持っている場合があります。信仰歴も長ければいいというものではありません。私たちはつい人の悪いところ、足りないところを見て非難したくなりますが、私たちが見るべきところは、その人の中に働いている神様の愛と、不完全ではあってもそれに応えて歩んでいるところです。

メッセージのポイント

聖書が教える人生の目的は、神様の栄光を表すことです。人生は日々の歩みの積み重ねですから、日々の歩みが神様の栄光を表すものでなければ、神様の栄光を表す人生を完成することはできません。今日のテキストが教える「神様の栄光を表す」行動原理は「他人の利益を追い求める」ことです。私たちは自分の欲望に従ってではなく、自分の良心に従って生きる自由が与えられています。そこには、他者の良心のために自分の自由を制限する自由も含まれています。私たちには、自分がこの行動原理で生きるだけでなく、この生き方を人々に模範として示す責任が与えられています。

話し合いのために

1) 他者の利益ということを考えて、行動を変えた経験がありますか?

2) 自分が生き方の模範になるということについて、どう考えていますか?