2007/6/3 マルコによる福音書シリーズR (6:14-29)

あなたは誰の声に聴き従いますか?

イエスの名が知れ渡ったので、ヘロデ王の耳にも入った。人々は言っていた。「洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている。」 そのほかにも、「彼はエリヤだ」と言う人もいれば、「昔の預言者のような預言者だ」と言う人もいた。(14-15)

ところが、ヘロデはこれを聞いて、「わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」と言った。 実は、ヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアと結婚しており、そのことで人をやってヨハネを捕らえさせ、牢につないでいた。 ヨハネが、「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」とヘロデに言ったからである。 そこで、ヘロディアはヨハネを恨み、彼を殺そうと思っていたが、できないでいた。(16-19)

なぜなら、ヘロデが、ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていたからである。(20)

ところが、良い機会が訪れた。ヘロデが、自分の誕生日の祝いに高官や将校、ガリラヤの有力者などを招いて宴会を催すと、ヘロディアの娘が入って来て踊りをおどり、ヘロデとその客を喜ばせた。そこで、王は少女に、「欲しいものがあれば何でも言いなさい。お前にやろう」と言い、更に、「お前が願うなら、この国の半分でもやろう」と固く誓ったのである。 少女が座を外して、母親に、「何を願いましょうか」と言うと、母親は、「洗礼者ヨハネの首を」と言った。 早速、少女は大急ぎで王のところに行き、「今すぐに洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、いただきとうございます」と願った。(21-25)

王は非常に心を痛めたが、誓ったことではあるし、また客の手前、少女の願いを退けたくなかった。そこで、王は衛兵を遣わし、ヨハネの首を持って来るようにと命じた。衛兵は出て行き、牢の中でヨハネの首をはね、盆に載せて持って来て少女に渡し、少女はそれを母親に渡した。 ヨハネの弟子たちはこのことを聞き、やって来て、遺体を引き取り、墓に納めた。(26-29)

ここに出てくるヘロデとは、イエス様の誕生の時、将来自分の地位が脅かされることを恐れて、同じ時期に生れた子供たちを殺したヘロデ王の息子です。王とありますが、ローマの支配下にあった当時、イスラエル全体の王はおらず、彼はペレヤ(ヨルダン川の中流から死海にかけての東側)とガリラヤ(ガリラヤ湖の西側)の地方権力者でした。ヘロデは自分の不正な結婚を責められたので、バプテスマのヨハネを牢につないでいましたが、ヨハネが正しい神の人であることに気付いていただけでなく、ヨハネの話に喜んで聞いていました。しかしヘロデは、その教えに従おうとするなら今までの自分の生き方を全く改めなくてはならないことを知っていましたから当惑していたのです。ヘロデは、ヨハネを通して語られた神様の呼びかけを、正しく従うべきものだと感じながら、結局従うことができませんでした。それどころか、大変愚かな理由で、ヨハネを惨殺してしまいます。

A. 心に聞こえてくる様々な声

1) 神様の語りかけ

 神様の声は、誰の心にも届きます。神様に従っている人にも、従っていない人にも。神様を信じている人にも、信じていない人にも。神様を信じない人はそれを良心と表現するでしょう。神様の語りかけに、従うことができればヘロデは自責の念に心を痛めて残りの生涯を送る必要はありませんでした。神様の声は、ストレートに従うことを求める声です。誰でも聞くことはできます。しかし、それに従おうと思うなら、正しい道を歩もうと思うなら、誰でも代価を払わなければならないのです。それは、今までしていたことをやめることかもしれません。あるいは、今までしてこなかったことを始めることかもしれません。今まで持っていたものを放棄することかもしれません。あるいは、望んでいるものをあきらめることかもしれません。多くの人はヘロデのように、耳を傾けることはあっても、結局従うことはできません。方向転換に対する抵抗です。私たちがイエスキリストを人に紹介するというのは、神様がその人の心に語られるお手伝いをすることです。私たちはイエス様が主だと説得することはできません。しかし語りかけているのが神様であること、代価を払ってでも従うことが良い選択であることを体験として伝えることができるのです。

 困難なのは従うことだけではありません。それ以前に、心に響いているのが神様の促しなのかどうかを判断しなくてはなりません。私たちの心に実際に聞こえてくるのは、様々な情報です。神様の声といっても、使徒パウロが経験したような直接語りかけて下さるチャンスは滅多に経験することはありません。殆どの場合は、単なる自分の心の願いや、人々の言葉として受け取ります。しかしその背後の、いわばその情報の発信源がどこのあるかを見極めなければ、誤った情報を正しいと信じ込んでしまうことになってしまいます。

 あなたが、これら二つの困難を乗り越えて神様の声に聞き従いたいと思うなら、まず第一にすべきことは「決心する」ことです。「私は神様の声に聴き従って歩みます」という決心です。そして第二にすべきことは、それができるように日々祈り続けることです。

2) 悪魔のささやき

 ヘロデの問題は、神様に聞き従い得なかっただけでなく悪魔のささやきに耳を傾け従ってしまったことです。最良の選択をしなかったばかりか、最悪の選択をしてしまいました。 神様の語りかけは、天国への道しるべです。それに対して悪魔のささやきはあなたを破滅に誘います。やっかいなことは、悪魔のささやきといっても、それが気味の悪い、恐ろしい、陰気な声ではないということです。むしろ耳障りのいい、自分の虚栄心や自尊心をくすぐる声であったり、そうするべき合理的な理由があるように思えることであったり、親しくて断りにくい人からのリクエストであったり、時には自分に対する優しい思いやりのようにも聞こえます。イエス様が荒野で悪魔に誘惑された時 (マタイ4:1-11)、悪魔の提案は、イエス様の社会的成功を約束するものでした。ペトロはイエス様の身を案じて、殉教の決意を諌める言葉を口にして、その思いが悪魔から来ているものであることをイエス様に指摘されてしまいました (マタイ16:21-23)

私たちは、イエス様から聴き、その声にイエス様に従うこととともに、だまして陥れようとする声に耳を貸さないという、二重の注意を払わなければならないのです。

B. イエス様の声を聞き分ける

1) なぜ悪魔に耳を傾けてしまうのか?

 このテキストで私たちは、悪魔がどのように、既に神様の声を聞いている人に働きかけ、神様から聴くことをやめさせ、自分の思い通りに操ろうとするかを学ぶことができます。21節以下をもう一度読みましょう。

ところが、良い機会が訪れた。ヘロデが、自分の誕生日の祝いに高官や将校、ガリラヤの有力者などを招いて宴会を催すと、ヘロディアの娘が入って来て踊りをおどり、ヘロデとその客を喜ばせた。そこで、王は少女に、「欲しいものがあれば何でも言いなさい。お前にやろう」と言い、更に、「お前が願うなら、この国の半分でもやろう」と固く誓ったのである。 少女が座を外して、母親に、「何を願いましょうか」と言うと、母親は、「洗礼者ヨハネの首を」と言った。 早速、少女は大急ぎで王のところに行き、「今すぐに洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、いただきとうございます」と願った。(21-25)

王は非常に心を痛めたが、誓ったことではあるし、また客の手前、少女の願いを退けたくなかった。そこで、王は衛兵を遣わし、ヨハネの首を持って来るようにと命じた。衛兵は出て行き、牢の中でヨハネの首をはね、盆に載せて持って来て少女に渡し、少女はそれを母親に渡した。 ヨハネの弟子たちはこのことを聞き、やって来て、遺体を引き取り、墓に納めた。(26-29)

ヘロデが不本意な殺人を犯さなければならなくなってしまった発端は、義理の娘に対する、気前の良すぎるご褒美の提案にありました。娘というより、その母親やそこに集うすべての人々に対して、自分が大変気前のいい夫、父、領主であると思ってもらいたい気持ちが、「国の半分でもやろう」と誓いの言葉になって出てしまいました。国の半分でも、と誓った手前、そうそうたる来賓に、自分が捕らえている人の一人を殺すことができない、と思われるのはプライドが許しませんでした。<自分をよく思ってほしいという気持ち> も<プライド>も、その人の気持ちを欲しい、自分に引き寄せたいという欲望です。この欲望が人にさまざまな罪を犯させるのです。ヘロデのように、それは正しいことではないと知っていても、欲望は止めることができません。

結局のところ、彼の欲望が不用意な誓いと、体面を保ちたいという思いとなり、彼の正しい判断力を奪ってしまいました。聖書にはこのヘロデについてはこの場面の記述しかありませんから、彼がこの事件以降どのような生涯を送ったかは分かりませんが、神様の導きを目の前にしながら、それを選ぶことをせず。反対に神様の使者を殺してしまった者という重荷を背負って生きたのです。

神様の前には、正しい者は一人もいないというのが聖書の真理です。欲望には際限がありません。それが人に罪を犯させるものだということを多くの人は知ってはいるのです。しかしそれでも私たちは欲望に対して無力です。悪魔の誘いに乗せられない唯一の方法は、ただ悪魔のささやきに耳を塞ごうとする消極的なものではなく、主イエスキリストの語りかけに積極的に耳を傾け、聴き従うことなのです。

2) もっとイエス様の声をはっきりと聞きたいなら

 そこで今日の最後のポイントとして、どうしたらイエス様の声にしっかりと聴き従えるかということをお話ししたいと思います。さきほど、神様の声に聞き従いたいと思うなら、まず第一にすべきことは「 私は神様の声に聴き従って歩みます 」と決心すること。そして第二にすべきことは、それができるように日々祈り続けることだとお話ししました。神様の声に聴き従っている人は皆この決心から出発し、導きを日々に求めて祈っています。このベースなしに、何か技術的な方法を追求することは無意味です。牧師として、よく御心(神様の意思)を知る方法をたずねられます。それにはインスタントな方法はありません。この第一のことと第二のことにつきるのです。その上で何かヒントはありませんかとたずねたい人がいると思いますが、差し上げることのできる答えは二つあります。ユアチャーチに何回か通っている人はもう知っている答えです。私が毎週のように勧める優先順位のNo.1とNo.2、礼拝とミニチャーチにコミットするということです。コミットするというのは、ただ参加するということ以上のことです。全身全霊を傾けて、責任を持って、継続的にという意味がコミットするということです。それは心から期待を込めて力の限りに歌うことです。細心の注意力を払って聖書のメッセージに耳を傾けることです。毎日、日曜日の聖書の箇所を反芻して過ごすことです。ミニチャーチでは他の人の助けを借りて、神様の意思をより深く理解することができます。同様に他の人の理解を助けてあげることもできるのです。

メッセージのポイント

当時のペレヤ(ヨルダン川の中流から死海にかけての東側)とガリラヤ(ガリラヤ湖の西側)の領主だったヘロデは、バプテスマのヨハネの教えを喜んでいたのに、結局ヨハネを殺してしまいました。せっかく聞こえていた正しい導きには従わず、悪魔に耳を傾けて、「神の人」に対する迫害者になってしまいました。私たちの誰もがヘロデと同じ失敗をしてしまう可能性を持っています。私たちの耳が様々な音から必要な音を聞き分けて判断するように、私たちの心もそのように働かせなければ判断を誤ります。多くの雑音の中からイエス様の声を聞き分け、聴き従ってゆきましょう。

話し合いのために

1) 悪魔に耳を傾けてしまった失敗の経験を分かち合いましょう

2) もっとイエス様の声をはっきりと聞くためにするべきことは何ですか?