2007/7/15 メッセージ 1コリント11:17-32 シリーズ20

聖餐式の大切さ

A. 初代教会の聖餐式と問題点 (17-22)

1) 初代教会ではいつ聖餐式を行っていたのでしょうか?

いま私たちは月に一度、第一日曜日の礼拝の前に聖餐式を行っていますが、当時のコリントの教会では夕食時に行われたポトラック(持ち寄り食事会)の後に行っていました。このポトラックは愛の食事と呼ばれていて、富んだ人々が貧しい人々のためにも食べ物を準備して持ち寄ったもので、お金に困っている人のための愛のささげものなどもあり、まさに「愛の食事会」として始まったのです。そしてそのハイライトが、聖餐式だったわけです。イエス様がこの儀式を教えたのは、最後の晩餐での出来事でしたから、夜行うのが自然だったわけです。しかし、聖餐に与ることはよみがえられたイエス様の臨在を覚えることでもあり、教会が主の日(日曜日)の朝に集まりの中心をおくようになって、聖餐式もこの礼拝の中で行われるようになったのです。

2) 愛の一致が失われた聖餐式

コリントの教会で愛の食事と、それと共に行われていた聖餐式について、パウロはその問題を指摘しなければなりませんでした。そこにはこの教会の不健全さが現れていたからです。それでは17節から22節までを読んで、どのような問題があったのか見てゆきましょう。

次のことを指示するにあたって、わたしはあなたがたをほめるわけにはいきません。あなたがたの集まりが、良い結果よりは、むしろ悪い結果を招いているからです。 まず第一に、あなたがたが教会で集まる際、お互いの間に仲間割れがあると聞いています。わたしもある程度そういうことがあろうかと思います。 あなたがたの間で、だれが適格者かはっきりするためには、仲間争いも避けられないかもしれません。 それでは、一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにならないのです。 なぜなら、食事のとき各自が勝手に自分の分を食べてしまい、空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいるという始末だからです。 あなたがたには、飲んだり食べたりする家がないのですか。それとも、神の教会を見くびり、貧しい人々に恥をかかせようというのですか。わたしはあなたがたに何と言ったらよいのだろう。ほめることにしようか。この点については、ほめるわけにはいきません。(17-22)

教会での食事会の目的は空腹を満たすことではありません。愛の食事といわれていたように、違いを超えて、互いに愛し合い、仕えあうことが目的でした。人々が心では争いあい、分裂しているのに表面を取り繕って一緒にいるところで主の晩餐は行われるべきではありません。コリントでの愛の食事会は、自己満足の食事会になっていたのです。富んでいる者が貧しい者に、持っているものを分かち合うことをせず、飢えている者を見ながら自分たちだけが満腹し酔っ払っている有様でした。なぜこんなことになってしまったのでしょうか。誰も最初から脱線したいと思ってはいません。しかし私たちの持つ罪の傾向性は、いつの間にか私たちの方向を誤らせてしまうことがあるのです。ユアチャーチも、神様の意思を行う教会から、自分たちの満足を求める教会に転落してしまう危険があるのです。そのような教会は、もはや教会とはいえないし、そこで行われる聖餐式は主イエスキリストの名を貶めるものでしかありません。私たちが道を誤らないためには、聖餐の意味を正しく理解して定期的に与ることと、自分自身を聖餐に与るにふさわしい者として歩もうと努めることが欠かせません。

B. 聖餐式の意味

1) 十字架の上でささげられたイエスキリストの命によって生かされている私たち (23-25)

23節から26節は聖餐式のときに読む、聖餐制定の言葉の一つです。福音書に記されているその他の箇所にも書いてありますから、読み比べてみてください。まず25節までを読んでみましょう。

わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。 また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。(23-25)

私たちは聖餐式で、はじめにイエス様の体としてのパンをいただきます。これが一人ひとりに与えられるということは、私たちが同じ体に属した者たちであることを意味しています。裂かれたといってもばらばらの状態になったと考えてはいけません。体に与る意味の中心は主の体を霊的にいただき、主の体の一部とされたということにあります。教会はキリストの体です。教会は、イエス様が愛と義を追及することによって苦しみを受け傷ついたように、苦しみ傷つくことを避けることはできません。なぜなら、イエス様は世の終わりまで教会が神様の愛と義を追い求めることを命じているからです。

パンの後にいただくワインは十字架の上で流されたイエス様の血です。この杯をいただくということは、イエス様の十字架の死が、この私の罪を赦すためであった、と人々の前で目に見える言葉で告白しているということです。罪赦され主の体の一部にしていただけた大きな恵みです。

2) 命ある限りイエスキリストの福音を告げ知らせる者として生きる決意 (26)

しかし意味するところはいただいた恵みだけではありません。26節です

だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。(26)

聖餐に与かることはこれからの自分の生き方についての決意であるということがこの部分からわかります。生涯、主の死を告げ知らせるものとして生きるという決意です。聖餐に与る者はもはや自分の夢をかなえるために生きる者であってはいけません。十字架の恵みを人々に伝える者としてどのように生きるのか、自分の先行きを祈り求める者であるべきです。あなたが親であれば、あるいは親になったときには、自分の果たせなかった夢を子供に託そうなどと考えてはいけません。子供の一生は主におささげするのです。それが子供にとっても最も幸せなことです。

C. 聖餐に与る者の心構え

1) 自分の状態を知り、へりくだって (27-32)

従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。 だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。 主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです。 そのため、あなたがたの間に弱い者や病人がたくさんおり、多くの者が死んだのです。 わたしたちは、自分をわきまえていれば、裁かれはしません。 裁かれるとすれば、それは、わたしたちが世と共に罪に定められることがないようにするための、主の懲らしめなのです。(27-32)

聖餐に与るかどうか、その都度考えて、与ったり、与らなかったりする自由は私たちにはありません。「先月はクリスチャンとして立派に振る舞ったので堂々と聖餐を頂こう」とか、反対に「神様を悲しませるような事を沢山してしまったから与ったら裁かれるかもしれない、やめておこう。」というものではありません。行いという観点でいうなら、私たちは誰も聖餐に与るのにふさわしい資質を備えてはいないのです。しかし神様はそのような私たちに聖餐に与る資格を下さったのです。聖餐に与る者に求められているのは過去一ヶ月の善行リストではなく、「心からの悔い改め」です。イエス様のように愛せなかった事を悔い、これからは少しでもイエス様の姿に近づけるように願い求めつつ聖餐に与りましょう。

「こんな私が聖餐に与るなんて心苦しい」という方が健全な感覚です。しかし、自分を責めすぎてはいけません。悔い改めることは自分を責めることではないのです。むしろそれは、自分自身に失望しつつ、その自分を愛し用いようという主に期待することです。

2) 愛による一致を求めて努力する (33-34)

聖餐に与るにあたって、悔い改めこそが第一に大切なことですが、私たちが実際の行動として表すべきことがあります。33-34節です。

わたしの兄弟たち、こういうわけですから、食事のために集まるときには、互いに待ち合わせなさい。 空腹の人は、家で食事を済ませなさい。裁かれるために集まる、というようなことにならないために。その他のことについては、わたしがそちらに行ったときに決めましょう。(33-34)

パウロは具体的にできる事の指示も忘れてはいません。何をすれば、もっと愛による一致の実を結ぶことができるのか?見当がつかない時には祈り求めるしかありませんが、祈れば神様はアイデアを下さいます。するべき事のヒントが与えられたらやってみる事です。うまくいかなければ修正します。失敗を恐れて何もしないゼロよりも、失敗を続けた結果のマイナスの方が、価値があります。

パウロが指示した事は二つです。一つは時間を共有しなさいということです。共に集まり一致するためには、時間を共有しなければなりません。礼拝は神社や寺院へのお参りのように、思い思いの時間に行き、個人的にするものではありません。一つの体に属する者として、同じ時と場を共にして、心を合わせて主を拝する事に意味があります。初めて来られる方やゲストのために、遅刻したら入れない教会にするつもりはありませんが、カヴェナントメンバーには10時にそろっていてほしいと私が願っているのはそういうわけです。  

二つ目は、メンバーは愛の食事に全くの空腹で来てはいけません。ということです。私たちの朝の聖餐式には関係ありませんが、ここでは私たちが時々行うポトラックについて学ぶことができます。ポトラックに来るメンバーは、他の人に仕えるためにやってきます。自分の満腹のためではありません。もしかしたら、はじめてのゲストが多くて自分の口には入らない事もあるかもしれません。それでも私たちが「愛」で満腹できるように、少し事前に何かを食べておく事は賢い事です。

パウロはこれらの二つの指示を出したあと、その他の事はわたしが言った時に決めましょうと締めくくっています。一つ一つの教会には、他にはない状況や特徴があります。ローカルルールがあっても良いのです。逆に言えば私たちは他の教会のローカルルールを安易に裁くことはできません。

教会は小学校ではありません、言葉遣いや立ち居振る舞いについての細かいルールは不要です。しかし私たちの愛による一致を妨げる物事については、注意深く直してゆくべきなのです。

メッセージのポイント

聖餐式はバプテスマとともに主イエス様ご自身が定められた、教会が世の終わりまで守り続けるべき儀式です。聖餐は、私たちが、生かされている理由、主の体の組み合わされた部分として仕えるべき理由をいつも忘れずにいるために守るものです。パンやワインはイエス様の流された血、裂かれた体の単なるシンボルと考えるべきではありません。この聖餐に私たちが与る時、物質であるパンとワインが私たちの体内に入るだけではなく、主の霊が私たちを包み、私たちのうちに届き、あの2000年前の十字架上での出来事が、今を生きる私たちの現在の現実として起こるのです。だから、自分がイエス様の弟子としてふさわしく歩めるように、日々祈り求め、行動する必要があります。そうでないと私たちの聖餐式も、コリントの教会が陥ったような有様になってしまうでしょう

話し合いのために

1) 聖餐式のとき、自分をどう確かめたらよいのでしょうか?

2) そのときもし自分がふさわしくないと感じたら、どうしたらよいのでしょうか?