2007/9/2 メッセージシリーズ 「律法主義VS信仰(マルコによる福音書7章)」第1回(全4回)  

ファリサイ派・律法学者?イエス様と違う考えを持っていた人々

(マルコによる福音書 7:1-13)

A イエス様を敵視した人々の大切にしていたこと

1) ファリサイ派と律法学者とは (1-4)

ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。 そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。 ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。(1-4)

 当時のイスラエルでは、宗教的指導者が政治的指導者でもありました。このイスラエルの指導者たちの中に二大勢力がありました。どちらかというと信仰的実践より社会的実践を強調した体制派のサドカイ派に対して、律法の教えを厳密に守ることが大切であるということを主張する新興勢力がここに記されているファリサイ派と呼ばれる人々だったのです。彼らは神様の前に清く正しくあるために書かれた律法を現実生活に適用するための多くの解釈を示したのです。それがここでいわれている「昔の人の言い伝え」です。それは生活の細部にわたったものだったので、厳密に守ることが出来たのはある程度裕福で余裕のある階層でした。日々の生活に追われる貧しい人々は、それを守ることができずファリサイ派からは軽蔑されていました。律法学者は文字通り律法を人々に教える者ですから、立場としては律法を厳密に守ろうとするファリサイ派と重なる人々です。そしてイエス様の登場にこの人々が最も強い拒絶反応をおこしたのです。結局この人々が陰謀を巡らして、イエス様を十字架につけてしまったのです

2) 彼らはなぜイエス様に反対していたのか? (5)

そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」

イエス様の弟子たちはみなファリサイ派のように厳密に律法を守る「宗教的」な人ではありませんでした。イエス様御自身も、言い伝えを厳密に守るよりも大切なことがあると教えていたのです。これはファリサイ派や律法学者たちにとっては大問題でした。自分たちのよって立つ基盤(それ自体が虚構だったのですが)が脅かされたのです。イエス様が登場するまでは、彼らは絶対的な権威を持った宗教指導者だったのです。彼らは一般の人より多くの聖書の知識を持っており、その戒めを完璧に守れる宗教エリートだと自認していました。ところがイエス様は、そのような言い伝えを守ることが信仰なのではないことを、はっきりと示し、彼らのように生きるのではなく、本当に神様の前に立ち返ることを人々に勧めました。彼らにとって、イエス様を認めることは、自分を否定することだったのです。自分に自信を持っている人、自分が正しいと思っているほど、自分を否定することは難しいのです。彼らは自分を否定し、イエス様に従うことを拒みました。そして自分を肯定し、イエス様を抹殺することに決めたのです。

 

B イエス様が教えて下さった本当に大切なこと

1) 預言されていた偽善者の登場 (6-8)

イエス様はファリサイ派、律法学者の質問には直接お答えにはならず、むしろ彼らの間違いを指摘なさいました。その間違いは、イエス様の時代よりも遥か昔からイスラエルに蔓延していました。イエス様は預言者イザヤの預言を引用して、このようにおっしゃいました。6-8節です

イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。 人間の戒めを教えとしておしえ、/むなしくわたしをあがめている。』 あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」(6-8)

彼らの問題は単に律法を細かく人に押し付けて悩ませただけではなく、その内容自体が神様の掟に反するものになっていたことです。しかもそれを、あたかも神様が命じられているかのように教えるという偽善に陥っていたのです。結局のところ彼らの生き方は、自分を肯定し神様を否定するものでした。イエス様の十字架を信じてクリスチャンになるということは、徹底的な自己否定の上に成り立つことなのです。イエス様御自身はこの真理を「自分の命を愛するものは、それを失うが、この世で自分の命を失うものは、それを保って永遠の命に至る」(ヨハネ12:25)とおっしゃっています。

2) 人間の言い伝えではなく神の掟に従う(9-13)

イエス様は実例を挙げて、彼らが、誤った言い伝えを聖書の言葉以上に重んじ、神様の言葉に違反していることを教えました。9-13節です。

更に、イエスは言われた。「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。 モーセは、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っている。 それなのに、あなたたちは言っている。『もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と。 こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている。(9-13)

彼らの言い伝えが、聖書の教えとはかけ離れたものになっていたよい例です。人間の言い伝えによって、神様から離れてしまうのはユダヤ人だけではありません。クリスチャンも同じ過ちを犯します。人の言動に対して「クリスチャンのくせに」と思って、裁いてしまったことはないでしょうか?クリスチャンはどうあるべきかと自分の基準でさばいてしまうことは珍しくありません。かつて「クリスチャンの女性はスラックスではなくスカートをはいて教会に来るべきだ」と主張する宣教師に会ったことがあります。ハワイの初期の宣教師は、大の大人が波に乗って遊ぶのは信仰的ではないとサーフィンを禁止してしまいました。今でこそバンドミュージックでワーシップを行う教会も増えてきましたが私が信仰を持った頃は、ギターは教会音楽にふさわしくない、ロックミュージックは悪魔の音楽ですから聞かないようにしましょう、なんて、今考えれば冗談のようなことがまじめに議論されていたこともあるのです。ユアチャーチはそういう偏見が全くない教会として始めたつもりですが油断してはいけません。私たちはすべてのことを自分の信じている「教会の言い伝え」で判断するのではなく、イエス様ならどう言い、どうなさるかで判断します。そのためには私たちはもっともっと祈る必要があります。聖書に親しむ必要があります。そしてミニチャーチで養われる必要があるのです。

メッセージのポイント

旧約聖書に書かれた律法を、その時代の現実生活に適用させるため、律法を解釈するための言い伝えが必要でした。それがイエス様の時代には聖書の中の神様の言葉より重要視されるという逆転現象が起こっていたのです。律法の背後にある「愛」の精神はいつの間にか忘れ去られ、細かい規定をどう守るのかが焦点となってしまっていました。これが律法主義です。律法主義はキリストの体の中にも忍び込んで、信仰を変質させてしまうのです。律法主義者は裁き合いますが、信仰者は赦し合うのです。

話し合いのヒント

1) なぜイエス様は彼らを偽善者と非難したのですか?

2) 教会の教えの中には人間的な言い伝えが混入していないでしょうか?