2007/10/14 メッセージプラン <コリントの信徒への第一の手紙 12:12-31a> 自分に分け与えられている賜物を知る (2/4)

裁きあわない 12:14-22

<シリーズ全体の教えのフォーカス>
1) 聖霊の賜物について、それが何のために与えられているのか、どのように用いれば良いのか、どのような賜物があるのかを学ぶ。
2) この賜物についての学びを通して、私たちが互いの違いを乗り越えて一つの体として組み合わされて用いられることを学ぶ
3) 自分に与えられている賜物を知り活用することを学ぶ

体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。 耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。 もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。(14-17)

そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。(18)

すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。
だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。(19-20)

目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。(21)

それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。(22)

A 一人一人の賜物が組み合わされて機能する

1) 神様の意思のままに組み合わされている私たち (18)

そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。(18)

なぜユアチャーチが町田という町に存在するのか?どのようにして私はここに導かれてきたのか?考えてみることがありますか?私は、最初の数人のメンバーと共にユアチャーチを始める決心をしたわけですが、神様がそのように導いて下さったのでなければ、始めることも続けることも出来なかったはずです。自分が属しているキリストの体を正しく理解し、自分がその中で十分に機能するために第一のこととして知っておくべきことは、一人一人は神様の意思によって、ふさわしい部分に配置されている、ということです。もちろん人の心に願いを与えて下さるのは神様ですが、そのすべてが実現するわけではありません。願いを神様に申し上げることはよい事ですが、決めるのは神様です。それは先週お話しした「神様が御自身の思いのままに、賜物を分け与えられる」ということと対になっています。

2) 無駄な部分は一つもない (14-17、19-20)

体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。 耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。 もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。(14-17)
すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。
だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。(19-20)

ここでパウロは体の器官にたとえて、コリントの教会でおきている分裂を悲しんでいますが、このような誤解に基づく混乱は、どの教会にも起こりうることです。ここに、自分と違った人々の中に、人々と違った自分が、神様の意思によって、組合わされておかれているのです。まだイエス様を知らない人はどのようにして、体の一部となるのでしょうか?それは体の一部にふれることから始まります。私たちが、皆同じような者であれば、そのような人が苦手な人は誰もユアチャーチには近づきたくないと思うでしょう。

またユアチャーチ全体としては、他のどのような教会に似ている必要はありません。いろいろな教会があるから、いろいろな人が教会に定着することができるのです。

クリスチャンであるということは、あなたがどのように感じているにせよ、あなたはキリストの体を構成する大切な一部分だということです。それでもあなたは他の人々から大切にされていないと感じているかもしれません。それは私たちは皆、イエス様のようになりたいと望んでいますが、発展途上にあるからです。イエス様のケアは完璧ですが、私たちの互いに対するケアはそうはゆきません。しかし、誰が何と言っても、あなたにどのような態度をとったとしても、あなたは神様にとってかけがえのない人であるだけでなく、このキリストの体の一部としてかけがえのない大切な存在なのです。

B この体を健康に保つために

1) 裁き合うことをしない (21)

目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。(21)

なぜ私たちは裁きあってしまうのでしょうか?それは私たちがこの世の基準を教会の中にも持ち込んでしまうからです。神様が正しい裁きをなさる、ということを知らなければ、自分で人を裁いて、自分の正しさを証明するしかありません。クリスチャンは正しく裁く方を知っているにもかかわらず、気が付くといつのまにか捨てたはずの昔の物差しを握って人を裁いている、ということが教会の中で起こるのです。私たちはどのように互いをささえあったらよいのでしょうか?いさめあってもよいのです。ただしそこには愛がなければなりません。互いに謙虚であるべきですが、劣等感は無益ですから、神様にとり除いていただきましょう

2) 助け合い支え合う健康な教会 (22)

それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。(22)

キリストの体の弱く見える部分とは、どのようなところを指しているのでしょうか?コリントの教会では本当に必要な働きが軽んじられ、それに従事する人も大切にされていなかったようです。パウロはこのことを戒めなければなりませんでした。教会の中で尊敬されなくてもよい人は一人もいません。世の中ではいろいろな意味で、小さい者、弱い者が軽んじられやすい傾向がありますが、キリストの体はそうであってはならないのです。イエス様が子供たちを、あるいは若い伝道者テモテやテトスがどのような人々を大切にしなさいと教えられているかで、それはよくわかります。ですから私たち、ユアチャーチは少数のヒーロー、ヒロインと大勢のサポーターからなるチームではなく世の中では小さい、弱いとされる者こそ活躍できる教会をつくりあげてゆきましょう

メッセージのポイント

神様を信じる者すべてに、霊的な賜物が与えられています。神様は一人一人を最適な部分に配置して、御自身の計画に私たちを参加させて下さいました。私たちは誰もが自分に与えられた計画と賜物を信じて、与えられた任務を遂行します。一人一人の任務は「神の国の前進」というひとつの目的のもとに組み合わされています。役割が違えば、与えられている賜物が異なるのは当たり前です。それを人間的な基準で差別し、優劣を付けることするなら、喜ぶのは「神の国」を失敗させたいサタンだけです。私たちには劣等感も優越感も不要です。それより置かれたところで互いに助け合い支え合って大切な仕事を楽しく続けましょう。

話し合いのヒント

1) キリストの体にはどのような機能がありますか?

2) 体の中でほかよりも弱く見える部分とは?


<子供たちに伝えたいこと>

1) 子供も教会の一部として組み合わされている

2) 誰に対しても「お前はいらない」と、言っても、思ってもいけない

3) 弱い者こそ、支え助けるべきこと


<毎日の聖書・毎日の祈り>

10/15(月) 私たちは誰もがキリストの体の一部 (14-16節、出エジプト4:1-17)
ありのままのあなたを神様は愛しています。劣等感からの解放を祈りましょう

10/16(火) キリストの体には様々な機能がある (17、ヨハネ21:20-23)
神の体の多様性を感謝しましょう。人のことを気にせず自分に課せられた務めを忠実に果たせるように

10/17(水) 私たちは神様の意思のままに組み合わされている(18節、エレミヤ17:5-8)
神様が、私をここに置いて下さいました。その意味が今わからなくても、神様に従えますように

10/18(木) 皆が違っていなければ体にはならない (19-20節、ローマ9:19-24)
すべてのクリスチャンは一つの体に属している。自分に与えられている責任をしっかり果たせますように

10/19(金) 裁き合ってはいけない (21節、マタイ7:1-6)
神の国の福音は、サタンにとっては凶報。裁き合ってサタンを喜ばせ、神様を悲しませないように

10/20(土) 助け合い支え合う健康なキリストの体 (22節、コロサイ2:16-19)
裁き合うこととは正反対のあり方を主は求めておられます。互いの弱さを補い合って歩めるように