January 6th - 12th, 2008 Vol.15 No.1

自由な僕? 2008年基調メッセージ (1) コリントの信徒への第一の手紙9章19節

わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。(19) ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。(20) また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っているのですが、律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。(21) 弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。(22) 福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。(23)

今日から三週間にわたって、2008年の基調テキストを心に刻み付けて新しい年を始めてゆきたいと思っています。今日はこのテキストの最初の部分、19節に注目しましょう。

 高校で歴史を学んだ人は宗教改革者マルティン・ルターの名前をお聞きになったことがあると思います。ルターは、この「だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。」というパウロの言葉を「クリスチャンはすべての者の上に立つ自由な主人であって、誰にも服さない。しかし同時に、クリスチャンはすべてのものに仕える僕(しもべ)であって、すべての人に服する。?」という一見矛盾する命題として整理し、この命題を解き明かした「キリスト者の自由」という、有名な論文を書いています。岩波文庫に納められているほどのスタンダードな著作です。わたしたちの理解も、彼の理解の上に立つものです。

1)僕になるとは

クリスチャンとは自分のためにではなく、イエス様と隣人のために生きる者です。イエス様に対しては「信仰」に、隣人に対しては「愛」に生きる者です。しかし、このように仕える者として生きることができるのは、クリスチャンが罪から、自己中心から自由にされているからです。

2)罪の僕から、神の僕に 

聖書の教える本当の自由、完全な自由とは、罪からの自由、自己中心からの自由です。クリスチャンは限界のある「行い」ではなく、ただ神様を信じより頼む「信仰」によって「正しい者」とされているという意味で、完全に自由なのです。行いはある程度の空間的自由、物質的自由を得ることはできても、それは完全な自由ではありません。不完全で罪深い人間の「行い」による、ある程度の自由は、手に入れれば入れるほどさらに欲しくなり欲求不満に陥る、不完全な自由、というよりつまりはとても不自由な状態、実は罪の奴隷状態にその人を縛り付けてしまいます。

3)何も恐れる必要がないから、自分から僕になれる

 それに対して、自己中心から解放されている者を束縛することは誰にもできません。鎖で繋いだとしても、それは彼の肉体を束縛するだけであって魂は依然として束縛されていないからです。

 つまりクリスチャンは完全な自由、罪からの解放を与えられているからこそ、信仰によって、愛によって、イエス様の、そして隣人の僕として生きることができるのです。

4)「愛に生きる自由」「主と共に歩む自由」

 ところで皆さんは、ヨハネによる福音書8章32節の「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」という言葉をご存知ですね。クリスチャンでない方の間では、この「真理」という言葉は誤解されて哲学的な意味での「真理」、「悟り」と言った言葉で置き換えられるようなものを指していると考えられています。しかし聖書が言う「真理」とは、「私は道であり真理であり命です」とおっしゃったイエス様御自身のことなのです。人の行いとしての真理の追究、悟りの境地を求めての修行が自由をもたらすのではなく、イエス様が私たちを自由にして下さるということなのです。

「神様の真理とは神様の愛です。神様の愛は私たちを、ほかの人々のために、自己中心から解放し、自由にします。自由にされたということは神様の愛のうちにおかれたということです。神様の愛のうちにいるなら、それは神様の真理のうちにいるということになるのです。」 と語ったのは20世紀の牧師、神学者ディートリッヒ・ボンヘッファーです。このように彼もルターと共に、私たちの自由とは、愛として実を結ぶ自由であり、イエス様とともに歩む自由であることを教えてくれます。

 パウロはこの生き方を、できるだけ多くの人を得るためにするのだと言っていますが、ここまでの内容からみて、「多くの人を得る」とは決して自分の栄光のために、巧みな言葉や行いによって人々をクリスチャンにさせる、というような意味ではないことは明らかです。そうではなく一人でも多くの人がイエス様の愛を知り、愛として実を結ぶ自由を獲得することができるように、私たちはイエス様にいただいた愛によって仕える者となるということなのです。

メッセージのポイント

クリスチャンは神様に完全な自由を与えられているからこそ、仕えるものとして生きることができるのです。何も恐れる必要がないので、自分を優れたもの、強い者と見せようとする必要がありません。神様の計画に必要な者とされているので、人に有用な者だと思われたいと願う必要がありません。神様の大きな愛に包まれているので、愛されたいという願いではなく、愛したいという願いを持つことができるのです。

話し合いのヒント

1)クリスチャンはどのような意味で誰に対しても自由なのですか?

2)すべての人に奴隷になるとはどのようなことですか?