March 9th,-15th, 2008 Vol.15 No.10

 


2008/3/9 メッセージ   ヨナ書4章<ヨナ書シリーズ(3/3)>

お前は怒るが、それは正しいことか? 

A. こんな時に私は怒る

1) 私が愛せない人を神様が愛していると知ったとき

ヨナにとって、このことは大いに不満であり、彼は怒った。 彼は、主に訴えた。「ああ、主よ、わたしがまだ国にいましたとき、言ったとおりではありませんか。だから、わたしは先にタルシシュに向かって逃げたのです。わたしには、こうなることが分かっていました。あなたは、恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方です。 主よどうか今、わたしの命を取ってください。生きているよりも死ぬ方がましです。」 主は言われた。「お前は怒るが、それは正しいことか。」 そこで、ヨナは都を出て東の方に座り込んだ。そして、そこに小屋を建て、日射しを避けてその中に座り、都に何が起こるかを見届けようとした。(1-5)

ニネベの悔い改めに、ヨナは全く喜べないどころか、神様に対して怒ってさえいます。彼は、神様が「恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方」であることを知っていました。ヨナ自身がその憐れみによって死から救われる経験をしてきたばかりです。それなのになぜヨナは怒りに震えているのでしょうか?神様が慈しみ深い方であることがなぜ怒りの原因となるのでしょうか?それはその憐れみの対象があなたの嫌いな人、苦手な人にも向けられているからです。

 これは大きなチャレンジです。神様が愛しておられるのはクリスチャンだけではないのです。御自身がお造りになったすべての人.動物、植物、自然界のすべてのものを、神様は愛しておられます。だからニネベの悔い改めを見て、滅ぼすことを思い直されました。私たちは無神論者であれ、仏教徒であれ、イスラム教徒であれ、誰に対しても、あなた方は神様の憐れみの外にあるとはいえないのです。あなたの周りには、明らかにあなたを好きではない人、意地悪な人、あなた自身が苦手な人、好きになれない人がいます。あの人が自分の人生から消えてしまえばいいと思ったとき、あなたは心の中で殺人を犯しました。神様の目から見れば、実際に手を染めてしまったか、心の中で思っただけかの違いはありません。つまり私たちは罪人です。神様の裁きに満足できずに自分で裁いてしまう。それはリンチでしかありません。それはヨナに限らず私たちがみな持っている罪の性質です。もちろん攻撃から逃れてはいけないと言っているのではありません.また無理につきあいなさいと言っているのでもありません.パウロはローマの信徒達に「できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。」と命じています。

どうしたらこのような憎しみを消してしまうことができるでしょうか?それは心の中を神様とともに歩む喜びで満たしてしまうことです.聖霊に満たされることです。つまり、私達が求めるべきことは、憎しみや怒りといった破壊的感情を消していただくことではなく、喜びの霊である聖霊に満たしていただくことなのです。

ここに教会の大切な存在の意味があります。娯楽やセラピーは一時的にそれらを忘れさせてくれますが、長続きはしません。また、一つの怒りの原因なくなったとしても、また新たな種が蒔かれ、同じことの繰り返しです。教会は、このことについて根本的な解決を提供できるのです。神様が教会の働きの一つとして、そこに集う者に、その霊を豊かに満たして下さるからです。

2) 持っているものを失うとき

すると、主なる神は彼の苦痛を救うため、とうごまの木に命じて芽を出させられた。とうごまの木は伸びてヨナよりも丈が高くなり、頭の上に陰をつくったので、ヨナの不満は消え、このとうごまの木を大いに喜んだ。 ところが翌日の明け方、神は虫に命じて木に登らせ、とうごまの木を食い荒らさせられたので木は枯れてしまった。 日が昇ると、神は今度は焼けつくような東風に吹きつけるよう命じられた。太陽もヨナの頭上に照りつけたので、ヨナはぐったりとなり、死ぬことを願って言った。「生きているよりも、死ぬ方がましです。」(6-8)

すると、主なる神は彼の苦痛を救うため、とうごまの木に命じて芽を出させられた。とうごまの木は伸びてヨナよりも丈が高くなり、頭の上に陰をつくったので、ヨナの不満は消え、このとうごまの木を大いに喜んだ。 ところが翌日の明け方、神は虫に命じて木に登らせ、とうごまの木を食い荒らさせられたので木は枯れてしまった。 日が昇ると、神は今度は焼けつくような東風に吹きつけるよう命じられた。太陽もヨナの頭上に照りつけたので、ヨナはぐったりとなり、死ぬことを願って言った。「生きているよりも、死ぬ方がましです。」(6-8)

私たちが神様に怒りをぶつけるもう一つのときは、手にしているものを失うとき、あるいは反対に欲しいものがなかなか手に入らないときです。多くの人が何でも自分の努力か幸運で手に入れたと勘違いをしていますが、神様がよしとなさらなければ、私達は何も手に入れることはできません。全ての良いものは皆、神様が下さったものです。そして、もっとはっきり言うなら預かりものなのです。そう思っていないので人は怒ります。クリスチャンは、自分の命さえ自分のものではないことを認めた人なのではありませんか?自分は自分のものという間違った思い込みを捨て、古い自分を惜しまず捨て、イエス様の中に生かされています。この地上においては、全てのものは神様が与え、神様が取り去られるのです。このことを素直に認めることは、やはり聖霊の助けなしには困難です。このことのためにも私達はこのキリストの体である教会につながっているのです。

B. 憐れむ神様

神はヨナに言われた。「お前はとうごまの木のことで怒るが、それは正しいことか。」彼は言った。「もちろんです。怒りのあまり死にたいくらいです。」 すると、主はこう言われた。「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。 それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから。」(9-11)

1) 怒り続けるあなたを憐れむ神様

ヨナは二度、神様に「お前は怒るが、それは正しいことか?」と問われていますが、ヨナはどちらの時もそれが当然の怒りだと思っています。神様があまりにも、自分の思い通りになって下さらず、むしろ自分の敵のかたを持っておられるように感じられる時、私達は神様よりも自分が正しいと思うのです。ヨナは、ニネベに行けと命じられた時、神様がニネベを滅ぼすことを思い直された時、とうごまが枯れた時と3度も自分を神様より高くしました。それでも神様は忍耐強く、ヨナを憐れみ助けて、教え諭して下さいました。神様は、憐れみを忘れて怒っている私達をも、その憐れみの内に包んでいて下さいます。神様はニネベを惜しんでいるからといってヨナの事を軽く見ているわけではありません。それはあなたに対しても同じことです。あなたにとって最も大切なのは、神様とあなたとの関係であって、神様と誰かとの関係ではないはずです。幸いであれ災いであれ、他の人がどうかではなく自分の魂の心配をするべきではありませんか?自分を大切にしたいと思っているなら、あなたを一番大切に思っている方にあなたの人生をゆだねるのが一番です

2) 世界を憐れむ神様

最後に、世界全体がこの神様の憐れみの内にあるということを考えてみましょう。神様は異邦人の町ニネベを惜しまれたように、現代の東京を、NYを、北京を、モスクワを、バグダッドを、平壌をも惜しまれます。悪の帝国とか枢軸とか非難される国々の町の右も左も分からない人々を惜しんでおられるのです。ですからクリスチャンはどんなにそこがひどくてもミサイルの雨を降らせようと考えるべきではありません。降らせるなら恵みの雨、福音の雨でなければならないのです。

 そしてそれは遠い国々との関係だけではなく、皆さんの周りの人々との関係にも当てはめて考えなければならないことです。あなたが好きな人々はもちろんですが、あなたが苦手だと思っている人にも同じように神様の憐れみのうちにあるのです。自分のことと同じように、愛する人々と同じように、彼らのことも神様にゆだねますと言いましょう。

<メッセージのポイント> 

私たちは簡単に怒ってしまうのに、簡単にはその怒りを収めることができません。神様の誰かに対する憐れみでさえ、自分にとっては怒りの原因になってしまいます。私たちが誰かに向かって怒るとき、その怒りは神様にも向けられています。しかし、怒り続けても誰も得はしません。もちろん怒り続けるあなた自身に一番悪い影響を及ぼします。怒りをコントロールするために最も大切なことは、神様と自分というチャンネルを何よりも大切にすることです。そうすれば神様の憐れみがあふれる程に自分に向けられていること知って、怒るのは正しくないと心から思えるようになります。そして神様と共に、神様が愛する人々を愛し、赦す人を赦し、怒りを賛美と感謝に変えることができます。

<話し合いのために>

1) ヨナが神様の思い直しを怒ったのはなぜですか?

2) ゆるすべきなのにゆるせない時はどうしたらよいでしょうか?

3) 神様は何のためにとうごまを枯らせてしまわれたのでしょうか?