March 23rd,-29th, 2008 Vol.15 No.12

 


イースターメッセージ マタイによる福音書27:62-28:15

復活-事実としか言いようのない出来事

I. 事実ではなかったという可能性

クリスチャンにとっては当然の事実である復活と言う出来事ですが、クリスチャンではない人々にとってはあり得ない、信じられない出来事です。彼らの言うように復活は事実ではなかったという可能性があるのでしょうか?事実とは証明出来ないので観念的に信じるしかないことなのでしょうか?今朝、私はこの復活という出来事が誰も覆すことのできない事実であるということをお話ししたいと思います。まず始めに復活の前に、遺体が消えてしまったことは、権力者、イエス様の反対者そしてイエス様に従ってきた人々の共通の事実であったことからお話しします。

a. 遺体は消えた-共通の認識

明くる日、すなわち、準備の日の翌日、祭司長たちとファリサイ派の人々は、ピラトのところに集まって、こう言った。「閣下、人を惑わすあの者がまだ生きていたとき、『自分は三日後に復活する』と言っていたのを、わたしたちは思い出しました。 ですから、三日目まで墓を見張るように命令してください。そうでないと、弟子たちが来て死体を盗み出し、『イエスは死者の中から復活した』などと民衆に言いふらすかもしれません。そうなると、人々は前よりもひどく惑わされることになります。」 ピラトは言った。「あなたたちには、番兵がいるはずだ。行って、しっかりと見張らせるがよい。」 そこで、彼らは行って墓の石に封印をし、番兵をおいた。(27:62-66)

権力者たちが一番恐れていたことは、イエス様の遺体がなくなってしまうことでした。彼らはイエス様が以前に、三日後によみがえるという言葉をおぼえていたのです。本当によみがえると思ってはいませんでしたが、弟子たちが盗み出そうとしていると考えていたのです。だから蓋の石に封印をした上に複数の兵士を配置して、盗まれることに備えたのです。

さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。 すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。 その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。 番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。(28:1-4)

しかし超自然的な出来事によって墓をふさいでいた石は転がされ、番をしていた兵士たちは恐ろしさのあまり動けなくなってしまいます。それは誰にとっても想定外のことでした。マリアたちは復活を確かめに行ったのではなく、遺体に香油を塗るために墓に向かったのです。祭司長たちはおぼえていたのに、イエス様に従ってきた人々は復活を信じてはいませんでした。手厚く葬ることしか彼らの念頭にはなかったのです。

b. 盗まれたのか?

婦人たちが行き着かないうちに、数人の番兵は都に帰り、この出来事をすべて祭司長たちに報告した。 そこで、祭司長たちは長老たちと集まって相談し、兵士たちに多額の金を与えて、言った。「『弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った』と言いなさい。 もしこのことが総督の耳に入っても、うまく総督を説得して、あなたがたには心配をかけないようにしよう。」 兵士たちは金を受け取って、教えられたとおりにした。この話は、今日に至るまでユダヤ人の間に広まっている。(28:11-15)

兵士たちは遺体が盗まれたのではないことを知っていました。人間には不可能なことが起こったのです。多額の金を与えたのは、盗まれたことにすれば、兵士にとって大きな不名誉になるからで、大金はその代償だったのです。本当に誰かが盗んだのであれば、兵士たちに罰を与えていたはずです。いまでもユダヤではイエス様の遺体は弟子たちが盗んだことになっていますが、そこには無理があるのです。

c. だから事実としか言いようがない

天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。 それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」(28:5-7)

イエス様を愛していた者にも憎んでいたに者も、彼の亡がらが消えてしまったことは共通の認識でした。しかしイエス様は従ってきた者には復活の姿をお見せになったので、彼らは復活を信じることができました。

 弟子たちのリーダーであったペトロはイエス様が天に帰られ見えなくなった後、生涯をイエスのための働きに捧げました。その最後は迫害され、殺されてしまったと伝えられています。ペトロは最初から、死ぬことさえ恐れずにイエス様に従う人だったのではありません。本当にイエス様が大好きで、イエス様が捕まるなら自分も捕まってもかまわない、という気持ちはあったのです。しかし、いざイエス様が捕らえられると三度もイエス様を否定した人です。

 イエス様の遺体を盗み、そのことを隠して復活したと言いふらすことはできたでしょうが、その動機がありません。自分たちの期待を裏切った人を神様に祭り上げて嘘をついて命を捨てたい人はいません。それはペテロだけではなく他の弟子たちも同じでした。それから2000年の間、今に至るまでイエス様の十字架と復活を信じて主と従うことによって殉教する者がすべての時代に存在したのです。だから、復活は事実としか言いようがないのです。

II. あなたにとって復活が意味すること

a. 「信じられない」vs.「信じない」

 そこで問題は、あなた自身がこの出来事に対してどういう態度を取るかです。あなたはこの事実を知らされています。信じるということは、あなたの感覚ではなく意志です。信じられる、信じられないではなく、信じるか信じないかなのです。最初の弟子たち以外は誰も復活された主に出会ったわけではありません。聖書の言葉とそれを命がけで証言してきた教会によって「信じたのです」。さああなたは信じますか?信じませんか?

b. すべてに勝利した主と共に歩む

婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。 すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。 イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」(28:8-10)

 愛もまた信仰と同様に感情ではなく意志です。愛とは好きだという気持ちではありません。愛するという気持は、その人のために喜んで必要に応えるということです。信じるという意志を持ち続けることなしに、この愛する意志を保ち続けることはできません。イエス様を愛するということは、イエス様の「私に従ってきなさい」という言葉に応え手、彼とともに歩むということです。今イエス様の愛の働きは世界中の教会を通して世界に現されています。神様はその深いご計画にしたがって私たちをこの教会に集わせ、新しい命を与えてくださいました。あなたは与えられた新しい命を、この教会に与えられた愛の働きを共に担うことに用いるよう神様に期待されているのです。私たちが神様と共に歩む限り、私たちは勝利の道を進めます。そこには困難はあっても諦め敗北はありえません。

<メッセージのポイント>

イエスキリストは人として死に、三日目によみがえられた、ただ一人の神様です。人がその心に想像し、あがめまつられる神々は無数にあります。私は神になったと主張する元人間の神も多く存在し、今も多くの神々が誕生しています。しかし人となり、人として死に、復活された神は歴史の中でたった一人しか存在しません。十字架と復活という記録された事実がイエス様お一人だけが、私たちをまことの神とつなぐ唯一の道であることを証明しています。信じると言うことは感覚ではなく決意です。「信じられない」という言い訳は通用しません。「信じる」か「信じない」かの二者択一が私たちの前におかれているのです。

<話し合いのために>

1) 「信じられない」と「信じない」の違いは?

2) イエス様の復活はあなたの人生にどのような影響を与えていますか?