May 18th,-24th, 2008 Vol.15 No.20

ペンテコステメッセージ(2)
何のための聖霊の満たし? 使徒言行録2:22-47

聖霊の働きを積極的に受け入れる教会でなければ神様に命じられている役割を十分に果たすことはできません。しかし聖霊のなさる奇跡や印、不思議にフォーカスしすぎると福音の中心からずれてしまうというあやまちを犯すことになります。確かに聖霊の働きによって始まったムーブメントが神様の栄光ではなく、人の栄光を表すものとなることがあるのです。それは堕落に向かい、神様の栄光どころか、神様に恥じをかかせることになります。私達は教会として、また教会に連なる個人として、この絶妙なバランスの上を進んでゆくことを、しかも恐る恐るではなく、コンスタントに進んでゆくことを神様に期待されています。今日はこの細い道を踏み外すことなく進んでゆくために大切なことを学んでゆきましょう

A 一つの恵みのふたつの側面

1)イエス様の恵み=聖霊の恵み (22-36)

イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです。 このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。 しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。 ダビデは、イエスについてこう言っています。『わたしは、いつも目の前に主を見ていた。主がわたしの右におられるので、わたしは決して動揺しない。 だから、わたしの心は楽しみ、舌は喜びたたえる。体も希望のうちに生きるであろう。 あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、あなたの聖なる者を朽ち果てるままにしておかれない。 あなたは、命に至る道をわたしに示し、御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる。』 兄弟たち、先祖ダビデについては、彼は死んで葬られ、その墓は今でもわたしたちのところにあると、はっきり言えます。 ダビデは預言者だったので、彼から生まれる子孫の一人をその王座に着かせると、神がはっきり誓ってくださったことを知っていました。 そして、キリストの復活について前もって知り、『彼は陰府に捨てておかれず、その体は朽ち果てることがない』と語りました。 神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。 それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。 ダビデは天に昇りませんでしたが、彼自身こう言っています。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着け。 わたしがあなたの敵を/あなたの足台とするときまで。」』 だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」(22-36)

ペトロは聖霊が下るという大変不思議なことが起こって、大騒ぎになっている所で福音の復習を始めたのです。弟子達は、出来事が十字架のゆるしの恵みを全世界に宣べ伝える力として与えられたことを知っていましたが、そこにいた多くの人々は正しく知ってはいませんでした。聖霊の起こされる不思議や力ある業が、神様の十字架の愛により与えられ、その愛で愛することのために用いられるものだということを忘れるなら道を踏み外すことになります。ペトロはこのような時だからこそ、目に見えて起こっている出来事の原点を人々に伝えなくてはなりませんでした。 私たちもまたこの原点にいつも立ち返らなければなりません。私たちは誰一人例外なく神様に背いて歩んでいた罪人でした。時代も国籍も関係ありません。聖書のいう罪は犯罪を犯し、法に触れるという事ではないのです。神様に背を向けて生きる事が罪です。神様の願いではなく、自分の欲望に従って行きている状態が罪です。私の、あなたのその罪がイエス様を十字架に向かわせたのです。イエス様の愛の恵み、赦しの恵みが最高の形で現されたのが十字架の死と苦しみでした。聖書の指摘している罪は実際の犯罪よりはるかに深刻です。聖書のいう罪が本質であって、犯罪はその典型的な現れに過ぎないのです。人の目に触れず犯罪者として告発されなくても、神様に背を向け自己中心に生きる私たちの言葉と行いが、人を傷つけ、環境を破壊し続けています。さらに多くの人が神様に従って歩み始めるなら、世界は変わります。聖霊の力をいただくならそれは可能です。そんな事は、不可能か、途方もなく長い先の話しのように思えてしまうかもしれません。だからこそ、聖霊の強い力を助けにして行うのです。

2)イエス様の招きに応えよう (37-40)

人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。 すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。 この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」 ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めていた。(37-40)

ペトロの話を聞いた多くの人々は心を打たれ、どうしたら良いのかを弟子たちに尋ねました。ペトロの答えは簡潔です。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。 この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」 この答えは今でも有効です。私たちも、どうしたら良いのですかと尋ねる人に、こう答えます。神様に背を向ける歩みを方向転換し、イエス様を主と信じて赦されなさい。そうすれば聖霊の力を受けて新しい歩みが出来ます。このことは、大人でも子供でも、どこの国の人でも主が招いてくださる者に与えられる約束です。私たちは神様がこの約束を私たちの大切な家族や友達に伝えるために、彼らよりも少し早く約束の恵みをいただいたのです。私たちが、まだイエス様を知らずに生きている、愛する一人一人に出来る事はペトロがした説明と勧めをすることです。ペトロは聖霊が豊かに下ったその時に、このことをしたのです。つまり、このことは聖霊の働きなしには困難な事だという事です。自分が聖霊に豊かに満たされる事と、イエス様の愛を、愛する事で伝える事とは切り離せない事ですから両方の事を熱心に願い求めてゆきましょう。

B 聖霊が満たされて起こったこと

聖霊に満たされている教会は何を期待することができるのでしょうか? 残りの部分を読んでゆきましょう

1)信じる者が起こされた(41-42)

ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。 彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。(41-42)

聖霊に満たされている教会が期待することができる第一の事は、信じる者が起こされるという事です。信じて洗礼を受けるというだけではなく、共に、熱心に礼拝をささげ、交わり、食事を共にする仲間がふえるということです。7月には洗礼式が予定されています。4人の方が洗礼を希望していますがさらに多くの仲間がこの時加えられるように期待してゆきましょう。そして私たちの数が増えるだけではなく、神様の願いに応えてもっと豊かな礼拝、交わりを実現するところとなる事を祈り求めてゆきましょう。

2)教会の成長が始まった(43-47) <メッセージのポイント>

すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである。 信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、 財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。 そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、 神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。(43-47)

聖霊に満たされている教会が期待することができる第二の事は、教会がキリストの体として成長する、ということです。始まったばかりの教会には神様に対する恐れがありました。恐れとはただいたずらに怖がる事ではありません。神様がそこに確かにおられる事がはっきりと感じられ、その権威と力を近くに感じられて、とても神様に背を向けてはいられない。怖いというより、敬虔な思いにさせられるという状態です。彼らは、そのような中で互いの必要を自分のものを惜しまずに満たしあっていました。私たちの使う言葉でいうなら、礼拝にもミニチャーチにも熱心な教会として、周りの人々からも好意を寄せられていたとあります。教会の全体は2000年成長を続けていますが、ユアチャーチも成長してゆきます。私たちの願いは47節にあるように、ただ数が増えるという事ではなく、礼拝・交わり・働きにおいて一致している教会になるという事です。単純な事です。しかし難しい事です。イエス様の十字架を離れては、そして聖霊の豊かな働きがなければ決して実現することはできません。ですから、礼拝でもミニチャーチでも常にイエス様に期待して、真心と喜びを持って臨みましょう。

 

メッセージのポイント

聖霊に満たされるということは観念的なことではなく体験です。それは信じる者にとって重要で、また素晴らしい体験です。この体験を通していただける聖霊の力は、研ぎすまされた刃物のように鋭いものなので、その目的や扱い方を誤れば危険を伴うのです。人々を神の国に招き入れるための霊的体験が十字架の救い以上に強調されたり、聖書とは相容れない理解がなされるなら、イエス様の教えから離れ去ることになってしまいます。十字架の赦しの恵みと、聖霊に満たされる恵みを切り離した考えることはできません。

 

話し合いのために

1) 聖霊に満たされるとはどのような体験ですか?
2) 聖霊に満たされることによって何を期待できますか?