July 27th,- August 2nd, 2008 Vol.15 No.30

詩編に学ぶクリスチャンライフシリーズ (1)
ふたつの対称的な人生

今日からしばらくの間、詩編を一編ずつ取り上げて、私達が生活してゆくのに必要な力と知恵を得てゆこうと考えています。詩編はもともと歌われるものであって読むものではありませんでした。2000年の教会の歴史の中でも、その時々の音楽の様式で詩編は歌われて来ました。このシリーズの期間は、できるだけ、その日の詩編にちなんだワーシップソングを紹介してゆきます。

A. 神様とともに歩む人

1) 神様とともに歩む人が避ける事、行う事 (1-2)

いかに幸いなことか/神に逆らう者の計らいに従って歩まず/罪ある者の道にとどまらず/傲慢な者と共に座らず 主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人。

神様に背いて歩む者は、ただ自分だけでそのように歩むのではなく、人を巻き込もうとします。彼らにとっては神様に従って歩む者が一番目障りで見たくない存在です。正しい道を歩んでいる者を見ると落ち着かなくなってしまうのです。なんとか、そのような人を引きずりおろしたいのです。神様に背くことに乗せられず、神様を知らなかった頃のような歩みを続けず、傲慢な者に同調することなく生きるためには知恵が必要です。そのためには、そのようなことを警戒する事も必要ですが、それよりももっと積極的な態度が必要です。それは、主の教えを愛すること、その教えを昼も夜も口ずさむことです。日曜日に共にいただいた聖書の教えを日常の歩みで生かすこと、歌った歌を口ずさみながら過ごすなら、主とともに歩むことになります。

2) 神様とともに歩む人の幸福(3)

その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び/葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。

ここでは主と共に歩む人がどのようなものか、砂漠が身近な存在であった旧約聖書らしいたとえで表現されています。今日、最初に紹介した単純な歌を、今週どうか口ずさんで過ごしてください。 植物が実を結ぶほど健康でいるためにはオアシスや数少ない川の流れのほとりに植えられている必要があります。川は、木が生きてゆくのに必要な水や養分を提供してくれます。  神様とともに歩むなら、生きてゆくのに本当に必要なものを得られるのです。 ここで「ときが巡り来れば実を結ぶ」という言葉に注目したいと思います。収穫には時があります。ほとんどの植物は一年のプロセスを経て実をみのらせます。長い人生の中で私たちは多くの実を見ることができますが、 そこに至にはプロセスが必要なのです。人生は植物とは違い、時には何年、あるいは何十年もかかってみのらす実もあるのです。神様を信頼して、そのときするべきことを忠実に行いながら待っているときもあるのです。 神様を信頼できるなら、期待しながら歩むことは、まだ実を見てはいなくても幸いなことです。                               

3) 神様とともに歩む人の希望 (6a)

神に従う人の道を主は知っていてくださる。

実をみのらせるまでの長いプロセスについてお話ししましたが、人生ではその部分の方がずっと長いということを認めなければなりません。その長い時間を幸いな思いで歩けなければ、私の人生はどうなっているのか?自分はなんでこんなところを歩んでいるのだろうか?という疑問で神様に文句を言いたくなってしまう私たちです。人の結ぶ実を見てうらやみ、神様への信頼が揺らぐのです。しかしどうか幻惑されないでください。神様の教えに親しみ、口ずさんでください。歌ってください。私たちは簡単に動揺します。また人を見ているとその動揺が伝染してしまいます。しかし神様は、あなたに与えた計画に揺るぎない自信を持っておられます。ですから、見えてこないこと、迷っていることが危険なのではありません。主が知っていてくださるからです。危険は、神様を信頼することをやめてしまうことです。それは雑踏の中で親の手を振りほどいてしまう子供のようです。そんなことをしたら本当に迷ってしまいます。親に手を引かれている子供は自分のゆく道を心配しません。親を信頼しているので、雑踏でも、夜道でも、目的地が知らされてなくても思い煩いません。ただしっかりと手を握っていることだけに一生懸命なはずです。

B. 神様に背を向けて歩む人

1) 神様に背を向けて歩む人の悲惨 (4-5)

神に逆らう者はそうではない。彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。 神に逆らう者は裁きに堪えず/罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。(4-5)

目に見えるところでは、なぜ悪が栄え、正しい者が苦しむのかと疑問を持つことがあるかと思います。もちろん神様は世界がこのままでいいとは思っておられません。良い実を結ぶためのプロセスがあるように、滅びに至にもプロセスがあるのです。神様はどんな悪に手を染めている者であっても、忍耐して待っておられます。悪人は栄えているわけではないのです。神様がまだ裁きを控えておられるので、今の状態が許されているだけなのです。しかしそれは決して着実な歩みではありません。遅かれ早かれ神様の裁きは下ります。神様が忍耐強く待っていてくださるのを良いことに態度を変えないままに人生を終えられたとしても、そのあとで黙示録に暗示されているような悲惨がその人を襲うのです。どんなに栄えている悪人も、神様の裁きの前には何の力もありません。良い裁きを受ける方法はたった一つしかありません。それは背を向けることをやめて、神様に向き直ることです。そうするなら、水辺に植えられた木のように、良い実を期待しながら生きることが出来ます

2) 神様に背を向けて歩む人の末路 (6b)

神に逆らう者の道は滅びに至る。

先ほど紹介した、神様に従う人の歩みを、窮屈だと感じる人は多いのです。信仰なんて自分とは違って、弱い人のするものだ、と思っているような人々です。彼らは、子供ではないのだから誰かに手を引かれなくても自分で歩きたいと願います。しかし、神様が完全であるように完全な人は一人もいません。神様がそうなさるように、自主的に歩めるものは一人もいないのです。 だから神様に逆らう者は、自分は、神様を信じるもののように窮屈ではなく自由だと思いながら、実は確かな道を歩むことはできません。聖書は警告しています。救いに至る道は細く、窮屈そうに見えるのです。一方、滅びに至る道は広くて走りやすいハイウエーのようにあなたを招いています。

二つの対称的な人生について、お話してきました。あなたの人生はどちらでしょうか?あなたの大切に思う人の人生はどちらでしょうか? もしあなたが幸いな道を歩んでいないとしたら、あなたはこの道を歩くようにと神様に招かれています。神様の招きによってここにいるのです。実際には、誰かに誘われてとか、自分で探し出してここにいると思われているかもしれませんが、私はそのことにも神様の導きがあると信じます あなたが主の教えを愛しているなら、それをもっと積極的に表現しましょう。昼も夜もその教えを口ずさみ歩むことは、人々にもその幸いを伝えることになります

メッセージのポイント

神様と共に歩む人の人生は、川の流れのほとりに植えられた木のように豊かな実を結びます。神様とともに歩むなら、葉を青々と茂らせるように充実した日々を生きることができるのです。それは世の中で成功することとか、賞賛を受けること、名声を博すことなどを意味しているわけではありません。裕福になるという意味での繁栄でもありません。それらに執着している限り、真の繁栄は望めません。神様が与えてくださるのは、それよりもっと深い、そして永遠に変わらない充実を魂にもたらすという意味の繁栄です

話し合いのために

1) 神に従う人の道を主が知っておられる、とはどういうことですか?
2) 神様に逆らう者が、風に吹き飛ばされるもみ殻のようであるのはなぜですか?