AugustAugust 24th,- 30th, 2008 Vol.15 No.34

詩編に学ぶクリスチャンライフシリーズ (5)
まことの礼拝をする者たち
詩編第5編 カディール マーティン

今日もまた今月のシリーズ詩編から続けて学んでいきたいと思います。 この数週間の詩編から私たちが学んだことは、詩編は音楽の本のようなものだということです。また祈りでもあると考えられています。もともと詩編では(ハープ、竪琴、リュートというような)弦楽器が使われ、その伴奏と共に歌われました。詩編5編ではまたダビデ王の悪からの守りについての祈りが描かれています。 詩編は私にとっては日記のようなものに感じられます。その中で神様とダビデ王のとても個人的で、親密な関係を読み取ることもできます。このことは私と神様との親密な関係をさらに持つという自分の心に響きました。それでは今日の詩編を読んでゆきましょう

【指揮者によって。笛に合わせて。賛歌。ダビデの詩。】 主よ、わたしの言葉に耳を傾け/つぶやきを聞き分けてください。 わたしの王、わたしの神よ/助けを求めて叫ぶ声を聞いてください。あなたに向かって祈ります。(1-3) 主よ、朝ごとに、わたしの声を聞いてください。朝ごとに、わたしは御前に訴え出て/あなたを仰ぎ望みます。(4) あなたは、決して/逆らう者を喜ぶ神ではありません。悪人は御もとに宿ることを許されず誇り高い者は御目に向かって立つことができず/悪を行う者はすべて憎まれます。 主よ、あなたは偽って語る者を滅ぼし/流血の罪を犯す者、欺く者をいとわれます。(5-7) しかしわたしは、深い慈しみをいただいて/あなたの家に入り、聖なる宮に向かってひれ伏し/あなたを畏れ敬います。 主よ、恵みの御業のうちにわたしを導き/まっすぐにあなたの道を歩ませてください。わたしを陥れようとする者がいます。(8-9) 彼らの口は正しいことを語らず、舌は滑らかで/喉は開いた墓、腹は滅びの淵。 神よ、彼らを罪に定め/そのたくらみのゆえに打ち倒してください。彼らは背きに背きを重ねる反逆の者。彼らを追い落としてください。(10-11) あなたを避けどころとする者は皆、喜び祝い/とこしえに喜び歌います。御名を愛する者はあなたに守られ/あなたによって喜び誇ります。(12) 主よ、あなたは従う人を祝福し/御旨のままに、盾となってお守りくださいます。(13)

1. プレイズ・ワーシップの中の祈り

ダビデ王は神様につぶやきました。 皆さんはこんな風に神様につぶやいたことはありますか? 詩編5の中でダビデ王はつぶやきと共に祈り始めていますが、彼は神様に心開いて、神様が聞いてくださるようにと求め、語っています。

あなたに向かって私は祈ります - 私たちが祈るということは、神様にどんなことでも伝えたいことを神様に語りかけることができるということです。 私たちはよくたくさんのリクエストを持って祈りますが、神様を意識的に見つめることも無く、また神様の臨在を感じることも無いということがあります。ダビデ王は祈りの素晴らしいひとでした。なぜなら彼の祈りは神様に集中していたからです。 ダビデ王は朝祈ることを大切に考えました。それは一日の始まりに神様を敬いたかったからです。 私たちも活動する前に、それはとても単純なことですが、おはようと神様に挨拶することができますよね。 朝ごとに、私は御前に訴えでて、あなたを仰ぎ望みます。 ダビデ王は祈りの前、祈りの後、何をするか私たちに教えています。祈る前、神様の御前に祈りを差し出します。祈る後には期待を持って天を仰ぎ、本当に神様は答えてくださると信じることです。もし言葉にすることも出来ず、何も言えないような状態にあるなら、歌うことで、伝えることができます。毎週日曜日によく私たちがワーシップしているいくつかの歌を思い出してみてください。 私はよく歌っているときに、その歌が私が祈りたいことそのものであるという経験をしています。 それがワーシップを通して祈ることができるということなのです。

(例) 礼拝ささげます王に  賛美の歌をあなただけに  イエスよあなたにこそふさわしい  わたしのささげもの

おそらくここにいる私たちすべてが一つの音楽、リズム、音階」、メロディーに同じ興味を持つということはありません。しかし、ここで毎週日曜日に一緒に歌っている音楽は、ただの音楽ではないのです。私が望んでいることは、私たちの歌うすべての曲が基本的な神様の愛の表現になることです。これが、なぜ私たちワーシップチームが礼拝の前に心一つにして、祈っているのかという理由です。聖霊様を迎え、聖霊様が全てを取り去ってくださることを期待して祈ります。 神様に限界はありません。 私たちはみなさんの前に立ちますが私たちはただの道具です。私たちの音楽のスキルではありませんし、私たちがどれだけ素晴らしく歌うかでもありません。それは全て、礼拝を捧げるということなのです。私がワーシップをリードする多くのときに、王の王に向かって喜び、賛美するみなさんのひとつになった声がなんてきれいなんだろうと、途中で止まるときがあります。 神様は褒め称えられるに値する方です。賛美されることに値する方です。私たちには何も捧げられるものはありません。私たちのもの全ては神様の物だからです。私たちが捧げられるものはただひとつ、称え賛美することです。

ワーシップについて不可欠なことについて新約聖書から見ていきましょう。 ヨハネによる福音書4:23-24 (23) イエス様は婦人にこう言いました。“しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。 本当のワーシップは神様の王座の足元で始まるものです。そしてそれは王座の足元で終わります。本当のワーシップは場所や時間で決められるものではありません。 音楽のスタイルによってきめられるものでもありません。その曲のスピードやワーシップリーダーの声の大きさによってきめられるものでもありません。本当のワーシップはこういったことよりもっと深い現実と関係するものです。まことの礼拝をするものが神様を礼拝するのです。

2. まことの礼拝は霊のうちに存在する

ワーシップは神様に答えてくださいと求める、霊的な行動です。本当のワーシップは音楽の音や、テンポ、そのビルの温度、ステージの上の人の性格、時計が示す時間、そういったものを越えるのです。時にはそれは世俗的すぎたり、超自然現象的、神秘的すぎることもあるかもしれません。ですがイエス様は言っています。霊と真理を持って礼拝するよりもほかには何もありません。

3. まことの礼拝は真理のうちに存在する

イエス様ご自身、 “わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない”といわれました(ヨハネによる福音書 14:6)。 私たちの礼拝が真理になるには、私たちは十字架によって、こなければなりません。 私たちが恵みの王座に大胆に来ることができるのは、イエス様によって来るときです。まことの礼拝は、イエス様が積み上げた真理という土台の上に造られるものです。 私たち自分自身で自分を救うことは出来ないのが真実です。救いの方が必要なのが真実です。イエス様がその道だということが真実です。私たちが霊と真理を持って礼拝するとき、それはいつもすばらしく、いつもリアルなことなのです。私たちが霊と真理を持って礼拝するとき、そこがその場所になり、そのときそこに神様がいて、それが本当の理由になるのです。 これが父の求めるものです。私たちがまことの礼拝をする者になること、これが私の願いです。神様を礼拝して、その経験によって変えられることを期待します。

メッセージのポイント

神様はいつも私たちの祈りを聞いておられます。祈ることで神様と私たちはつながることが出来るのです。またワーシップは神様とつながることが出来る別の道具でもあります。神様はまことの礼拝する者を探しています。ワーシップの力を体験することで、まことの礼拝をする者になる事を学んでいきましょう。

話し合いのために

1. プレイズ・ワーシップの力を信じますか?

2. ミニチャーチのメンバーとシェアしてみましょう。