August 31st,- September 1st, 2008 Vol.15 No.35

詩編に学ぶクリスチャンライフシリーズ (6)
いやしのプロセス
詩編第6編

指揮者によって。伴奏付き。第八調。賛歌。ダビデの詩。(1)  

今回の詩編のシリーズは今日でいったんお休みです。今日の詩編も楽器の演奏と共に歌われたものです。第八調というのは、はっきり分かっていないのですが?音程の高さか、低い弦の楽器を使った伴奏の指示のようです。そしてこれは賛歌、今風にいえばプレイズソングということですが、単純に神様をほめたたえている歌ではありません。むしろ自分の苦しみを神様に必死に訴えている、という内容です。これが賛歌なのは、神様に対する期待と信頼(9-11)で締めくくられているからです。ダビデは、神様に対する揺るがない信頼によって、まだ実現していないいやしを確信できたのです。  あなたにもいやしが必要です。それは肉体のいやしであるとは限りません。傷付いた心のいやし、人との関係のいやしでもあります。あなたに、神様に直していただきたい所があるなら、この詩から期待して待ち望む方法を学びましょう。    頭痛が起こると、私たちはまず常備しているタイレノールとかバファリンで鎮めようとします。それが効かずに数日続けば心配になってクリニックを訪ねます。あなたは、そこでいきなり私の脳には悪いものがありそうなので手術して取り出して下さいと頼みますか?そこまではいかなくても、医者を訪ねた時に、いきなり注射を一本打っておいて下さいとか、自分で聞き憶えた薬を処方して下さいと頼む人は時々います。しかしどのような処置をするか責任を持って決めるのは医師です。神様のいやしも責任者は神様です。かかる時間にしても、瞬時にいやされるのか、時間をかけてゆっくりいやされるのか、神様は私たち一人一人に最も相応しい計画で行うのです。私たちがすることは神様の治療計画を信頼することです。また医師は処置を決める前に診察や検査を行います。医療に診察、検査、手術、投薬、リハビリというプロセスが必要なように、神様のいやしにも、プロセスがあります。また、どんなに優れた医師でも患者がその指示に忠実に従って薬を飲んだり、リハビリに励まなければ快復が望めないように、いやしのプロセスにおいてもあなたが協力的でなければなりません。

A.求めること (2-6)  

医療のプロセスは医師が責任を持って行うことですが、あなたの治療はあなたがクリニックに行かなければ決して始まりません。同様にいやしのプロセスも神様の業ですが、あなたが神様のまえにすすみでなければそれは始まらないのです。どのように神様の前に進み出るのでしょうか?今、私たちは神様に礼拝をささげていますが、それはまさに今私たちは主の前に進み出ているということなのです。日常を離れ、礼拝の中に、祈りの中に身を置くことが、神様の前に進み出ることなのです。

1) 憐れみを求める (2-4)

さて神様の前に進み出て、第一にすることは憐れみを求めることです。2-4節をもう一度読んでみましょう。 主よ、怒ってわたしを責めないでください 憤って懲らしめないでください。(2) 主よ、憐れんでください わたしは嘆き悲しんでいます。 主よ、癒してください、わたしの骨は恐れ (3) わたしの魂は恐れおののいています。 主よ、いつまでなのでしょう。(4)

なぜこの苦しみ、あるいは痛みが自分を襲うのか、その理由がわからない時、私たちはふと神様の懲らしめかと思うことがあります。そこまで行かなくても、少なくとも神様はこの事態を黙認している、どうしてなのですか?というような疑問がわいてくるわけです。しかし神様はその質問には答えて下さいません。そういう発想をすること自体が間違っているとおっしゃるのです。イエス様は目の見えない人について弟子たちが、「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」 と聞いた時「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」(ヨハネ9:1-3)とおっしゃいました。それは決して理由など求めず、あきらめて黙って受け入れなさいということではない、ということがこの詩編で分かります。理由を求めるよりもっと益になることがあるのです。それは、憐れみを求めるということです。私たちは神様の前に出て、率直に苦しいです、悲しいです、痛いです、怖いです、いつまでですか?と言えるのです。そして、自分ではどうすることも出来ません、どうぞ憐れんで下さいと訴えることができるのです。 いやしのプロセスはここから始まります。

2) 救出を願う (5-6)

主よ、立ち帰り わたしの魂を助け出してください。 あなたの慈しみにふさわしく わたしを救ってください。(5) 死の国へ行けば、だれもあなたの名を唱えず 陰府に入れば だれもあなたに感謝をささげません。(6)

神様に憐れんで下さいと求める人は、次のプロセスに進む資格があります。それは、ここから救い出して下さいと願うことです。わたしたちは、私たちの願いに対する神様の答えを期待することができるのです。主があなたと共にいないときは決してありません。けれども私たちはそう感じます。神様は私の声を聞けないほど遠くにおられると。しかし、それでもいいのです。ダビデのように「主よ帰ってきて下さい」と言ってよいのです。憐れみの神様なのだから、私を救って下さって当然です!と迫っても叱られることはありません。旧約聖書の登場人物であるダビデはイエス様を知りませんでしたから、彼にとっての死後は、イエス様と共に過ごす永遠の喜びといったような積極的なものではなく、苦しみではないとしても、眠るような静かな状態でした。ダビデは苦しみの中で、もうこの世界から去らせて下さいと思うのではなく、いやされて、もういちど憂いなく心から賛美と感謝をささげることができるようになることを願ったのです。

B.待つこと (7-11)

あなたが憐れみと救いを求め始めたら、神様のいやしはもう始まっています。もはや私たちが出来ることはいやされることを待つだけです。しかしこの段階でも私たちがするべきことはあります。ここではふたつのことを学べますが、どちらもいやしのプロセスにおいて重要なことです。

1) 弱さを告白する (7-8)

一つは、自分の弱さを告白するということです。ダビデの告白を聞いてみましょう

わたしは嘆き疲れました。 夜ごと涙は床に溢れ、寝床は漂うほどです。(7) 苦悩にわたしの目は衰えて行き わたしを苦しめる者のゆえに 老いてしまいました。(8)

一度願ったら、その後くどくど泣き言を言うのは不信仰だと考える人がいますが、それは違います。我慢をしたり、強がったりすることはいやしのためにはなりません。治療中に痛みや不快感があっても我慢して医師に訴えない人はいません。神様もあなたの訴えに耳を傾けたいと思っておられます。

2) まだ見てはいない勝利を待ち望む(9-11)

悪を行う者よ、皆わたしを離れよ。 主はわたしの泣く声を聞き (9) 主はわたしの嘆きを聞き 主はわたしの祈りを受け入れてくださる。(10) 敵は皆、恥に落とされて恐れおののき たちまち退いて、恥に落とされる。(11)

新約聖書において「信仰」の最も有名な定義はヘブライ人への手紙の11章の1節「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認すること」というものです。ダビデもここで、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認しています。神様を信頼しているからこそ、待ち続けることができます。この定義をもっと単純に言い換えるなら「信仰とは待つこと」とさえいえるのではないでしょうか?神様が最善をなして下さると信じているなら、私たちは待ち続けることができます。神様はあなたに耐えられない試練を与える方ではありません。最良のタイミングでいやされることを期待してゆきましょう

                   

メッセージのポイント

私たちは主に病の癒しを求めることができます。聖書は私たちの死が罪の結果であることを端的に教えていますから、死に至るような病ならそれは罪と深い関連があると考えられます。旧約時代の人々はその人自身の犯した罪が病をもたらし、神様の懲らしめとして与えられる、というように考える傾向を持っていましたが、イエス様は、この病は何の罪のせいかと悩むような発想を転換してしまわれました。病の苦しみは神様の栄光が現われるチャンスと見なさい、とおっしゃるのです。そこで私たちは病について、罪ということがその原因に深くかかわっていたとしても、栄光を表わしてくださる主に期待するという、積極的な気持ちで病と闘うことができます。医師の助けに、診察、検査、手術、投薬、リハビリというプロセスが必要なように、神様のいやしを求めるにも、今日お話ししたプロセスが必要です。 

話し合いのために

1) なぜ神様はいやしてくださるのですか?
2) いやしと医療の関係について話し合ってみましょう