September 21st,-27th 2008 Vol.15 No.38

シリーズ本当の愛を知る(全3回)(第1コリント12:31b-13:13より)2

あなたの愛を測るもの (13:4-7)

A 愛はこのように目に見える

愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。(4) 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。(5) 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。(6)

1) 愛は・・・しない

前回、愛の本質は喜んで見返りを求めずに与えることだとお話ししました。最初にお話しする8つのことは、愛とはほど遠いことなのです。どんなに言葉で愛していますと言ってもこれらの気持ちをもっているなら、愛していることにはならないのです。

ねたまない - あなたは自分がほしくても手に入らないものを誰かが持っているのをみたとき、どう感じますか?いいなあ、私も欲しいなあと思いますね。それは自然の感情です。しかしそのことが頭を離れず、持っている者に悪い感情を持つなら、それは「ねたみ」です。自分が得られないなら、相手も失えばいいという思い。それは愛とはほど遠い、罪の思いです。愛はねたまないのです。

自慢しない - ねたみとは反対に相手ができないことを自分ができることや、相手が持っていないことを自分が持っていることを自慢するのも愛ではありません。自慢するとは、自分自身や自分の持っている物を誉めるということです。ただ恵みによって私たちは皆、神様に生かされ、必要なものを与えられているのです。自慢できるようなことではありません。自慢することはどんな社会でも美徳とはされていませんから、自慢するのは子供っぽいこと、格好の悪いことだと思われています。だから表立って自慢をする人はそう多くはありません。しかし問われているのは私たちの心です。

高ぶらない - 思い上がらない 自慢をすることと似ていますが、こちらの方は実際以上に自分の価値を高く見積もるということです。そしてそのような者として自分を扱うことを人に要求します。私たちは神様の前に自分を誇ることはできないと知っています。しかし、そのような気持ちは心の中にまだ住んでいるのです。

失礼なことをしない - それは相手を不快にさせたり、悲しませたり、傷つけたりすることです。何は失礼にあたるかは、場所や状況によって異なります。相手のことを考えずに、いつでもどこでも自分の基準で行動するなら、知らず知らずのうちに、そうしてしまうかもしれません。相手の気持ちになって考えるという想像力を持てるよう祈り求める必要があります。

自分の利益を求めない - 誰でも自分の利益を求めて生きる権利があるのではないか?と神様を知らない人はいいます。あなたはそれにどう答えますか?クリスチャンは答えを知っています。それはイエス様の言葉です。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(マタイ6:33) 私たちは自分の利益を求めようとしても、それを得ることはできないのです。しかしあなたがそれを捨てて、神様の利益を求めるなら、あなたが必要なものはすべて与えられます。このことを知らないのは大変不幸なことです。世界は自分の利益を求めるあまりに、他の人が苦しむことに無感覚になってしまいました。日本では、食べることのできない工業用の米を食用として売られました。中国ではもうけのために水でうすめ、それをごまかすために毒物を加えたミルクを飲まされた多くの赤ちゃんが苦しんでいます。アメリカでは、返す当てのない借金をさせて家が売られ、今その結果が世界中の経済を混乱させています。

いらだたない - 神様は、互いに仕え合いなさいと私たちに求めます。しかし私たちに働く罪の力は、互いにコントロールし合いなさいと教えます。罪の力に従うなら、毎日はイライラすることでいっぱいになるのは当然のことです。小さな子供でさえ自分の思い通りにはならないのです。

恨みを抱かない - 恨みを抱き続ければ、人間関係は壊れます。聖書には、神様に背いた人間の失敗例として沢山の殺人事件の記録が記されています。人類最初の殺人事件は創世記の4章に記されているカインが弟アベルを殺した出来事です。カインは正しくない心でささげものをし、弟アベルは真心からささげものをしました。心をみられる神様は、カインのささげものを喜ばれませんでしたが、カインは反省するどころか神様を恨み、神様に喜ばれたアベルをも恨んで殺してしまいました。カインは最初の人間アダムとエバの子供です。彼らが神様に背を向けたという罪の結果、二人の子供が同じ殺人事件の加害者と被害者となるという悲劇は起こりました。つまりその子孫である私たちは皆、恨みを抱くことによって悲劇に巻き込まれる可能性を持っているということです。

不義を喜ばない - 愛は不義、不正の側には立ちません。しかし既に行われている不義や、多くの人が加担している不義に反対するよりは、迎合してしまうことの方が、簡単で安全なのです。姦淫の罪で捕らえられた女性を石で打つことをそこにいたすべての人が正義と考え疑わなかったところに、イエス様はやってきて、身の危険を顧みず、彼女を打つことが神の義にかなわないことを教えられました。

2) 愛は・・・する

ここまで、愛が行わない8つのことを通して考えてきましたが、もっと積極的に、それでは愛はどう行動するのかということを考えてみましょう

忍耐する - 世界はあなたの思い通りにも動きません。しかし神様は必ずその意思を行われます。神の国を建て上げられます。イエス様の十字架と復活はその最高の現れです。しかしまだ完成はしていません。その途上にあります。ですからまだ忍耐は必要なのです。私たちの描く計画とタイミングは、神様のそれとは異なっているので、恐れたり焦ったりします。だから私たちには忍耐が必要です。それは、わたしたちの内には乏しくても神様に祈り求めることができます。

情け深く人に接する - 人もあなたの思い通りにはなりません。今朝あなたに「愛しています」といった人も例外ではありません。妻に、夫に、親に、子供に、友人に、同僚に、隣人にいらいらしたり、怒りをぶつけたくなったりした時、私たちはまず自分が罪深いにもかかわらず、神様は情け深く、忍耐して宝物のように扱って下さっていることを思い起こしましょう。そしてあなたのように接することができるように助けて下さいと祈りましょう。 真実を喜ぶ 私たちは、何が正しく、何が不正であるかを常に正確に判断できるわけではありません。しかし、できるだけ「それは神様の正義にかなうことかどうか」を見分けて真実の側に立とうとすることが、愛することの一部です。愛するというならば、私たちが求めるのは、あなたに都合のいいことでも、相手に都合のいいことでもなく、神様の正しさにかなったことです。

B 愛の人になるために

1) 愛は神様の性質です

すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。(7)

聖書には「神は愛です」(第一ヨハネ4:16)と書かれています。「人間は愛です」とは書かれてはいません。神様は人間を愛のない者としてお造りになられたのではありません。神様は御自身に似せて人をつくられました。愛することができるものとして造って下さったのです。しかし人は神様よりも自分を主とすることを選びました。  

7節に愛はすべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。とありますが、これらの言葉は聖書の訳によって違うニュアンスになっているので少しギリシャ語にまで遡って考えてみた方が分かりやすいと思います。「忍び」(NIVは「protects守り」、NKJVは「bears耐え」)と訳されている言葉の中心的な意味はおおう(to cover) で、そこから口をおおって語らない(to conceal)とか、忍ぶ、耐える(to endure)という意味で使われています。NIVの採用している「守る」というほど積極的な意味ではないようです。「信じは」、信じる、信仰を持つ、信頼するto belief,  to faith, to trust などいろいろなニュアンスを持っていますがここではコンテキストから「信頼する」、「望み」はどの訳も違いはありません。希望を持ち続けるということです。4番目の「耐える」(NIV perseveres, TEV patience never fail, NKJV endures)と訳された言葉の基本的な意味は「あとにのこる」で「困難に屈せず最後まで目的を貫く」というニュアンスで使われることが多く、日本の聖書やTEV,NKJVの訳よりもっと積極的に、こちらはNIVが採用している「perseveres困難の中でも目的を貫き通す」という言葉が適切だと思います。そこでユアチャーチ訳としては「愛はどんなことにも耐え忍び、信頼して、望みを捨てずに、困難を乗り越えて最後まで歩み続ける」とすることにしましょう。イエス様はまさにこのようなお方です。十字架の苦しみを耐え、私たちが後に続くことを信頼して委ねて下さリ、私たちがどんなに弱く、愚かでも希望を捨てずに、今も共にいて下さる方です

2) 神様の性質を身につけるには

ここまで学んできたように、私たちが到底自分のことをとても「愛の人」とは呼べない者です。しかしがっかりすることはありません。聖書はクリスチャンとして歩んでゆくなら、少しずつ主と同じ姿に変えられてゆくことを約束しています

しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます。 ここでいう主とは、“霊”のことですが、主の霊のおられるところに自由があります。 わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。(2コリント3:16-18)

このことが可能となる条件は「主の方に向き直れば」ということです。「ここでいう主とは聖霊のことです」といわれていることと合わせていうなら、まずイエス様を主と信じて受け入れること、それからイエス様の霊、聖霊に導かれて日々を歩み続けることで、「愛の人」として成長することができるのです。

メッセージのポイント

愛自体は目に見えるものではありませんが、あなたの内に愛があるなら、あなたの態度はここに記されている愛の特性として現されます。しかし正直に自分の心を探るなら、私達は自分がいかに愛のない者であるかに心が痛みます。聖書には、あなたは愛です、とは書いてありません。神は愛です(第一ヨハネ4:16)と書かれているのです。あなたがここに記されている特性を身につけたいならどんな努力よりも、神様と共に歩み始めることが大切です。

話し合いのために

1) このメッセージで、あなたの愛のイメージはどう変わりましたか?

2) どうしたらここに書かれているような愛の性質を身につけられるのでしょうか?