October 26th- November 1st,2008 Vol.15 No.43

シリーズ:主は私の羊飼い(詩編23編) (1)
あなたの魂は生きていますか? (1-3a)

【賛歌。ダビデの詩。】主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。(1) 主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い/魂を生き返らせてくださる。(2-3a) 主は御名にふさわしく/わたしを正しい道に導かれる。 死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。(3b-4)  わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる。(5)  命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り/生涯、そこにとどまるであろう。(6)

A. あなたは飼い主が必要な羊です。(1)

1) なぜ聖書は人を羊にたとえるのか?(サムエル記上16,17章参照)  

聖書に登場する人々にとって羊は最も身近な動物です。羊はどんな動物よりも多く聖書に登場しています。この詩を作ったダビデ自身もサウル王に召し抱えられるまで羊飼いの仕事をしていました。羊飼いの少年が王に召し抱えられるようになったきっかけは、彼がそれまで誰も敵わなかった敵の巨人戦士ゴリアテを倒したからです。彼は武器、武具をいっさい使わず、羊飼いが羊を守るために携行している石と、それを遠心力を利用して強く遠くまで投げることのできる石投げ紐だけでゴリアテに立ち向かったのです。彼は戦士としてはルーキーでしたが、羊飼いとしては、何度も獅子や熊から命がけで羊を守って来たベテランだったのです。(サムエル記上16,17) ダビデは、羊の性質と羊飼いの働きを用いたたとえは、人間と神様の関係を知るのに最も相応しいということを知っていたのです。そして、人としてはその遠い子孫にあたるイエス様もそのことをよくご存知で、よく羊と羊飼いのたとえを用いてお話しされました。

 

2) 誰が本当の羊飼いなのか?(ヨハネ10:10-13)

盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。 わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。 羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。―― 彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。(ヨハネ10:10-13)

イエス様は、本当の羊飼いがどのような者であるのか、このように話して下さいました。また反対に警戒しなければならない偽の羊飼いについても教えて下さっています。  羊は自分でえさを探したり、安全な水場を見つけたりすることはできません。猛獣に対抗できる強さも素早さも持ち合わせてはいません。羊が良い羊飼いなしに生きることができないのです。気がついていない人や、反発を感じる人も多いと思いますが、私達もまた飼い主を必要としているのです。人は皆、心を満たしてくれるもの、不安や恐れを取り去ってくれるものを求めて彷徨っています。中には、これこそ私の支え、確かな導きといったものがあると考えている人もいますが、それが本物であるかどうか、よく確かめてみなければわかりません。  よい羊飼いであったダビデが確信を持って「主(神様)は羊飼い」と言っていることを、あなたも検討してみる必要があります。もし、あなたがこの羊飼いに従っているなら、あなたには「何も欠けることがない」のです。しかしあなたが、気が付かないうちに全く見当はずれに悪い偽羊飼いに従っていたとしたら、恐ろしい結果を招くことになります。それが本当の羊飼いでないとしたら、悪くすれば売り飛ばすか殺してしまう羊泥棒、よくても本当に助けが必要な時には逃げてしまう雇い人に従っていることになります。  イエス様はここで、人の魂を守るのは神であるイエス様以外にはないと宣言しているのです。そしてサタンが魂を滅ぼすためにはたらく盗人であることを警告しています。さらに、人々の魂を簡単にサタンに引き渡してしまっている当時の宗教指導者たちを痛烈に皮肉って、羊の命を守らない雇い人といっています。  あなたには羊飼いが必要です。信頼できそうな、ついて行けば満足を与えてくれそうな「誰か」ではいけないのです。彼/彼女はあなたと同じ羊なのです。また哲学とか宗教、自己啓発、これらも頼れる羊飼いではありません。あなたに必要なのは、イエスキリストとの個人的な信頼関係です。

 

B. 良い羊飼いが羊のためにすること (2-3a)

1) 魂に休みを与える (マタイ11:28)  

それでは私たちにとって唯一の良い羊飼いイエス様が、私たちに何をして下さるのかをお話ししたいと思います。第一は「魂に休みを与えて下さる」ということです。魂は疲れます。傷付きます。安全な場所で休息を必要とする時があるのです。イエス様はこのように呼びかけて下さいます。

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。(マタイ11:28)

最新の腕時計は太陽光で発電して電池の交換がいらないばかりか定期的に正確な時刻を受信するので時間を合わせる必要もありません。しかし光を受けなければ、電波を受信しなければ、動かなくなってしまいます。私たちも同じです。神様があまりにも自由に行動させて下さるので、人は自分で生きてゆけると思い込んでいます。しかし、神様の愛から遠く離れた魂はぼろぼろになっていて不思議はありません。羊が羊飼いからはなれているなら栄養を十分に取ることも、清潔な水を飲むことも出来ずに弱ってしまうように、私たちの魂は神様からのエネルギーを必要とするのです。ここにはどうしたら魂に休みが得られるか、はっきりと書かれています。「わたしのもとに来なさい」それが答えです。礼拝する時、祈る時、聖書の言葉に耳を傾ける時、私たちは主の前に進み出ています。そこで、私たちは魂に必要な休みを得ることができるのです。

 

2) 魂を成長させる (マタイ11:29-30, ヘブライ5:12-14)

第二に、イエス様は私たちの魂を成長させて下さいます。私たちの身体と同様に魂も成長が必要です。先ほどのマタイによる福音書11章には続きがあります。読んでみましょう。

わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。(マタイ11:29-30)

イエス様は重荷をおろし休ませて下さるだけではなく、新しい荷物を持たせて下さいます。しかし、これはもう重荷ではありません。やりがいのある課題、委ねられた責任です。そして、それができるように、学ぶ機会も与えて下さるというのです。休みと安らぎ違います。心が安らぐのは何もしていないときではなく、なすべきことをしているという充実の中にあります。残念なことにある人は、クリスチャンになるということは天国行きの資格を得ることだと考えています。しかしそれは人生の最後にいただく報酬です。退職金をもらうことを目的に会社に入る人がいるでしょうか?会社に入って働くのは、そこで自分が社会に貢献し、同時に日々の糧を得るためです。クリスチャンになるということは、神様の働き人として世界に貢献できるということです。それは、あなたのこれからの人生の歩みを大変豊かにするものです。そこでどうしたら、そのような者に成長できるのかということですが、ヘブライ人への手紙の5:12-14を開いてみましょう。

実際、あなたがたは今ではもう教師となっているはずなのに、再びだれかに神の言葉の初歩を教えてもらわねばならず、また、固い食物の代わりに、乳を必要とする始末だからです。 乳を飲んでいる者はだれでも、幼子ですから、義の言葉を理解できません。 固い食物は、善悪を見分ける感覚を経験によって訓練された、一人前の大人のためのものです。(ヘブライ5:12-14)

ここでは成長しないクリスチャンを、いつまでもミルクしか飲まない赤ちゃんにたとえています。赤ちゃんでは働きたくても働くことはできません。そこですこしずつ堅い物を食べるように、学びを深めてゆくと共に、経験することによって訓練される必要があると、教えてくれています。イエス様の弟子たちは誰も神学校で神学を学んだわけではありません。ただイエス様と行動を共にして、イエス様のお話を聞くだけではなく、自分でやってみて失敗もしながら成長して行きました。あなたもクリスチャンであるならキリストの弟子です。成長することができるし、させていただけるのです。

 

3) 魂を生き返らせる (ルカ 15:4-7)

第三のことは「魂を生き返らせること」です。第三のことですが、一番大切なことです。生きていない魂は休ませることも成長させることも出来ません。あなたの魂はいきいきと生きていますか?生きていない魂とは、群の外にいる羊のようなものです。先にお話ししたように、羊は羊飼いなしに生きてゆくことはできません。本当はあなたも、イエスキリストなしには生きてゆくことはできませんよ、と聖書は教えているのです。

あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。 そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。 言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。(ルカ 15:4-7)

あなたの死んでいた魂を生き返らせるために、イエスキリストはあなたの魂を探し求めてこの世界に来て下さいました。あなたが自分勝手な快楽に生きることと引き換えに失っている、本当の命を得させるために御自身は十字架にかかり命を捨てたのです。聖書は神様に背を向けて歩む姿勢を「罪」と表現しています。その意味で、人は皆罪人として生まれました。罪がもたらすものは死、魂の死です。私たちはこの罪が戦争や犯罪、経済破綻、家庭崩壊といった姿であちこちに噴出している世界に生きています。  あなたの魂は本当に生きていますか?そうでないとしたら、イエスキリストをあなたの羊飼いとして従う決心をして下さい。そうすればあなたの魂は生き返り、成長し、豊かに実を結びます。

 

メッセージのポイント

人は、羊のように一人で生きてゆけるほど強くも、賢くもない存在です。羊飼いが必要なのです。私たちにとっての良い羊飼いとは、単に物質的、精神的な欲求を満たしてくれるだけの存在では不足です。私たちの魂を休ませ、強め、生き返らせることのできる方でなければならないのです。その資格を持つ方はこの世界に立った一人しか存在しません。多くの偽羊飼いが親切そうにあなたの満足のために働きましょうと近づいてきますが、彼らの正体は羊泥棒(魂泥棒)なのです。唯一の有資格者、イエス様は喜んで、見返りを求めずにその大役を引き受けてくれます。この方にあなたの生涯を委ねましょう。

話し合いのために

1) 新約聖書で羊や羊飼いをたとえに用いて教えている他の箇所を探してみましょう?
2) 魂を生き返らせるとはどのようなことを意味しているのでしょうか?