February 8th,-14th, 2009 Vol.16 No.6

シリーズ:ペトロに学ぶ喜びに満たされて生きる方法 5
あなたは生きた石? (ペトロの第一の手紙 2:1-1:10)

だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。(1-2)

あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。この主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。 あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。(3-5)

聖書にこう書いてあるからです。「見よ、わたしは、選ばれた尊いかなめ石を、シオンに置く。これを信じる者は、決して失望することはない。」 従って、この石は、信じているあなたがたには掛けがえのないものですが、信じない者たちにとっては、「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」のであり、また、「つまずきの石、妨げの岩」なのです。彼らは御言葉を信じないのでつまずくのですが、実は、そうなるように以前から定められているのです。(6-8)

しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。 あなたがたは、「かつては神の民ではなかったが、今は神の民であり、憐れみを受けなかったが、今は憐れみを受けている」のです。(9-10)

今日のテキストが「だから」から始まっているのは、先週のメッセージ (2:22-25) 「神の変わることのない生きた言葉によって新しく生まれた者として、清い心で深く愛し合いなさい」ということを受けて、ここで実際にどのように生きるのかということを教えようとしているからです。ペトロは話の順序として、分かりやすく率直に「乳飲み子のように混じりけのない霊の乳を求めなさい。」と勧めます。このことによって私たちは成長するのですが、今日は「どのような者として成長するのか?」「愛し合うということがどのような構造の中で可能なのか?」ということについて書かれている3-7節について先にお話しします。

 

A. どのような"石"なのか?

1) 霊的な家(キリストの体)のかけがえのない一部分 (3-5)

あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。 この主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。 あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。(3-5)

イエス様が十字架の最期を遂げられたので、よみがえりを信じられない人にとっては、イエス様は庭の端にぽつんと転がされて忘れ去られてゆくような石のような存在です。しかし神様にとっては、そして神様を信頼して歩む人にとって、イエス様は人生のキーパーソンです。ところがペトロは石はイエス様だけではない、イエス様を信じて生きる者も霊の家を建てる石だというのです。私たちはイエス様という霊的な家を外からみている存在なのではなく、霊的な家の一部だということです。霊的な家とは、キリストの体ともいわれる教会のことです。石を組み合わせて作り上げられる家というイメージは、キリストの体という表現に比べてなんだか硬くて冷たい感じですが、私たちの交わりは強く、また互いにしっかりとつながっているものだということを覚えるためには興味深い表現ではないでしょうか?  ここでもう一つ重要なのは「祭司となる」ということです。今日のテキストには二回、私たちが祭司となると書かれています。この部分と9節の前半です。旧約の時代、祭司と呼ばれる人々はイスラエルの12部族の一つレビ族の中から選ばれた人々で、その起源はモーセが弟アロンとその息子たちを祭司と任じたことに遡ります。旧約の祭司の職務を知ることによって、私たちの務めについての理解を深めることができます。祭司の務めは、民の罪の贖いのためにいけにえやささげものを正しくささげること、祭壇の火を絶やさないこと、祭儀を規定通り正しくささげること、ラッパを吹き鳴らして人々を聖会に集めること民を祝福すること、律法を教えることなどでした。祭司は普通の民と異なり清められた特別の存在で、それ以外の人々には許されないことが多く規定されていて、神様と民の間を取り持つ者とみなされていました。イエス様が来られたことによって、私たちの身分も務めも革命的に変えられてしまったことがわかります。私たちクリスチャンの誰もが、神様に対しては霊的ないけにえ、すなわち祈り、賛美、感謝、そして何よりも自分自身を神様にささげるという務め、人々に対しては、祝福を与え、礼拝に招き、教えるという務めとそれをすることができる特権を与えられているということです。ルターは教会が長い時間の経過の中で見失ってしまった、このクリスチャンの原点を私たちに思い出させましたそれが500年まえの宗教改革です。

 

2) イエス様がオリジナルモデル (6-8)

聖書にこう書いてあるからです。「見よ、わたしは、選ばれた尊いかなめ石を、シオンに置く。これを信じる者は、決して失望することはない。」 従って、この石は、信じているあなたがたには掛けがえのないものですが、信じない者たちにとっては、「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」のであり、また、「つまずきの石、妨げの岩」なのです。彼らは御言葉を信じないのでつまずくのですが、実は、そうなるように以前から定められているのです。(6-8)

ヘブライ人への手紙(4:14)に、イエス様を偉大な大祭司だと記されています。旧約聖書の大祭司は神様との関係における民の側の代表者として祭司の中でも特別な家系から世襲で立てられていました。大祭司の最も重要な務めは、年に一度、聖所の一番奥にあり、十戒のしるされた二枚の石の板、マナの入った壷、アロンの杖の入った契約の箱(あかしの箱、主の箱)がおかれていた至聖所に入り、いけにえのヤギの血を箱のふたに注ぐことでした。全イスラエルの罪の贖いのためです。この部分に書かれていることは、ただ一度十字架の上で、御自身の血により全イスラエルどころかすべての人の罪の贖い完成したイエス様こそ真の大祭司なのだということと、しかしそれは当時の宗教指導者には許し難いことであり、イエス様の処刑は彼らの側からすれば自分たちの権威と秩序を守る当然の帰結だったということです。そして、しかしその処刑は問題の解決になるどころか、イエス様の勝利、彼らの不信仰として歴史に残ったということです。イエス様がただの異端者ではなく、実は真の大祭司であったことは、復活とそこから始まった教会の歴史が裏付けています。この大祭司に従って歩む者は皆、祭司として霊的いけにえをささげる務めと、神様の前に進み出る特権を与えられているのです。

 

B. どのように"生きている"のか?(1-2, 9-10)

1) 成長 (1-2)

だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。(1-2)

私たちが組み合わされて建てられた家の強度を増すためにするべきことは二つあります。 第一に、その一つ一つの部分である私たち自身がそれぞれ強くなることと。第二に、よりしっくりと組み合わされるために人々との関係を強くすることです。その両方が成長によって実現するのです。 ここでは霊的な成長のために、捨て去るべきことと、反対に得ることを熱心に求めるべきことを対照的に述べていますが、もっと単純にいえば、あなたの心から悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、代わりに混じりけのない霊の乳を注ぎ込みなさい、ということです。悪いものを完全に取り除かなければ良いものを入れることはできないと考える必要はありません。神様からくる良いもので心が満たされる時に、悪いものの発生を抑えられるのです。悪意、ねたみの発生を抑えることはできません。しかし膨張することをゆるさず、心をそれらの悪いもので満たすことを防ぐことはできます。それは、混じりけのない霊の乳を注ぎ込むことによってです。神様の言葉を心に蓄え、行うことで私たちは成長するのです。この部分の最後に救われるようになるためですと書いてあります。私たちはイエス様を主と信じ既に救われたのではなかったでしょうか?実はまだ救われていないのでしょうか?救われるという言葉には広い意味があります。私たちが、この後お話しする新しい身分を頂いたという意味では、既に救われているのです。しかしその身分にふさわしい者になったわけではありません。この意味では救いという神様からのプレゼントのすべてを身につけているわけではありません。そのような意味では、まだ完全ではないのです。

 

2) 身分 (9a,10)

しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。(9a)

あなたがたは、「かつては神の民ではなかったが、今は神の民であり、憐れみを受けなかったが、今は憐れみを受けている」のです。(10) 今は身分という考え方は希薄ですが、少し前までは、世界の多くの国で、人の人生を規定する大きな力を持っていました。希薄になったとはいえ、このことで苦しんでいる人がいまだに存在することを忘れてはいけません。様々な差別がこの国でも多く存在しています。身分は生まれながらのもので、自分では変えられないものです。しかし私たちの身分を神様が変えて下さったのです。神様から遠く離れた民であった者が、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民とされたというのです。 ここで注目していただきたいのは「王の系統を引く祭司」とされたということです。祭司であるということは神様からなすべき仕事が与えられているということです。「私たちは恵まれた国の市民権をいただきました。しかもロイヤルファミリーの一員です。何も心配せずに自分の生活を楽しみましょう」ということではないのです。私たちのなすべき仕事は9節後半に記されています。

 

3) 使命 (9b)

それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。 (9b)

神様があなたを闇の中から光の中に招き入れて下さったのは、あなたに対する憐れみからですが、それはすべての人に対する憐れみの一部分です。この憐れみによる招きの働きは、常に神の子とされた人によって担われてきました。今度はあなたがそれを担います。それがあなたの祭司として担うべき使命なのです。それは重要なキリストの体の働きの一部です。 神様の意思に適って使命を全うするために、自分もそこに組み込まれた、キリストの体の一部分として神様の家を建て上げていることを忘れないようにしましょう。そしてこの家がもっと強固なものとなるように、もっと隙間なくしっかりと組み合わされるように成長させていただきましょう。

 

メッセージのポイント
恵みを味わった者は、もっと多くの人にその恵みを伝えるために成長することを期待されています。私たちは元々王家の出身ではないのに、憐れみによって王の子とされた王子、王女のような者です。いただいた大きな恵みに応えるために、与えられた身分にふさわしい者となれるよう成長するチャンスが与えられているのです。成長に必要な栄養は「神の言」です赤ちゃんが懸命にミルクを飲むように、神の言を慕い求めましょう。

話し合いのヒント
1) 私たちが王の系統を引く祭司であるとはどのようなことを意味しているのでしょうか?
2) 石の例えにはどのような意味が込められていますか?