April 5th,-11th, 2009 Vol.16 No.14

受難週の黙想(もくそう)の勧め

今日は今週皆さんにしていただきたい受難週の過ごし方についてお話ししたいと思います。それは、いつもよりももっと多く、もっと静かに、もっと深く十字架を想ってすごすということです。福音書は、この週にイエス様のなさったことを詳しく伝えていますから、皆さんにもそれを曜日ごとにたどっていただきたいのです。そしてここに記されている受難の奥義を心にしっかりと留めて下さい。

4/5 棕梠の日曜日(ヨハネ12:12-19, ゼカリヤ9:9)
子ロバに乗ってエルサレムに入られたイエス様

その翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞き、 なつめやしの枝を持って迎えに出た。そして、叫び続けた。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、/イスラエルの王に。」 イエスはろばの子を見つけて、お乗りになった。次のように書いてあるとおりである。 「シオンの娘よ、恐れるな。見よ、お前の王がおいでになる、/ろばの子に乗って。」 弟子たちは最初これらのことが分からなかったが、イエスが栄光を受けられたとき、それがイエスについて書かれたものであり、人々がそのとおりにイエスにしたということを思い出した。 イエスがラザロを墓から呼び出して、死者の中からよみがえらせたとき一緒にいた群衆は、その証しをしていた。 群衆がイエスを出迎えたのも、イエスがこのようなしるしをなさったと聞いていたからである。 そこで、ファリサイ派の人々は互いに言った。「見よ、何をしても無駄だ。世をあげてあの男について行ったではないか。」 (ヨハネ 12:12-19)

旧約聖書の預言者を通して預言されていたとおり、イエス様は王や将軍の乗るような立派な馬ではなく、ロバの子に乗ってこられました。人々はイエス様が強力な政権をとるために都に入られると理解し歓迎しましたが、イエス様は今までに登場した権力者たちとは全く違うリーダーとしてこられたのです。小ろばに乗っておられたことはそのことの象徴でした。イエス様は支配するリーダーではなく、仕えるリーダーです。羊のために命をかける羊飼いであり、僕の足を洗う主人のようなリーダーです。そして私たちにもそのようなリーダーとなることを求めておられるのです。  小ろばに乗られたイエス様がもう一つ私たちに教えていて下さることは、小ろばのように小さく弱くてもイエス様のために働くことができるということです。

4/6 宮潔め(マタイ21:12-13, イザヤ56:7)
神の家を商売の場としてはいけない

それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。 そして言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている。」 (マタイ 21:12-13)

教会は神殿ではありません。イエス様が来てくださり、聖霊として信じるものの心に住んでいてくださるのですから、私達自身が神様の神殿(住まい)なのです。そこで私たちが覚えなければならないのは、私達にとっての宮清めとは一人一人の心を清く保つことだということです。商売自体が悪いと言っているのではないのです。神様を使って自分の利益を求めることを戒めているのです。私達は心の思いが本当に神様のためのものなのか?それとも自分のためなのかを良く吟味するべきです。

4/7 権威についての問答(マタイ21:23-27)
あなたに神様が与えられた権威

イエスが神殿の境内に入って教えておられると、祭司長や民の長老たちが近寄って来て言った。「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか。」 イエスはお答えになった。「では、わたしも一つ尋ねる。それに答えるなら、わたしも、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。 ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか。」彼らは論じ合った。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と我々に言うだろう。 『人からのものだ』と言えば、群衆が怖い。皆がヨハネを預言者と思っているから。」 そこで、彼らはイエスに、「分からない」と答えた。すると、イエスも言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」(マタイ 21:23-27)

イエス様の言葉は誰の目から見てもそれが神様からの権威だということははっきりしていました。私たちもまた神様の権威によって宣べ伝えています。しかしこの権威は時として疑われ、軽んじられ、踏みにじられるのです。イエス様のように与えられている権威を疑うことなく、どのように扱われようと、怒りや悲しみに支配されることなく、神様からの知恵や、慰めをいただいて歩み続けましょう

4/8 香油の日 (マタイ 26:6-13)
人を自分の価値観で裁いてはいけない

さて、イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家におられたとき、 一人の女が、極めて高価な香油の入った石膏の壺を持って近寄り、食事の席に着いておられるイエスの頭に香油を注ぎかけた。 弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。「なぜ、こんな無駄遣いをするのか。 高く売って、貧しい人々に施すことができたのに。」 イエスはこれを知って言われた。「なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。 貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。 この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた。 はっきり言っておく。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」(マタイ 26:6-13)

イエス様は決して貧しい者にほどこしをすることを軽んじているのではありません。ただどんなによい行いも、神様に自分のベストをささげよう、という意志に勝るものは無いということに、ここで私たちは気付かされます。「よい行い」はしばしば自己満足・偽善の隠れ蓑になります。また、他の人々の考えや行動を非難する道具に使われます。お金の使い方に関しては、神様への十分の一の献げもの以外は誰からも非難されることは何もないのです。

4/9 洗足の木曜日・最後の晩餐 (ヨハネ 13:1-15)
互いに仕え合う僕として生きてゆきなさい

イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、 食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。 それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。 シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。 イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。 ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。(ヨハネ 13:3-8)

あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。 ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。(ヨハネ 13:13-15)

この部分は、神様が望まれる人間関係のあり方を明確に教えています。普通、足を洗うのは僕であり、洗ってもらうのは主人です。イエス様は支配者として君臨するために来られたのではなく仕えるために来られました。その頂点が、すべての人の身代わりに十字架の刑を引き受けるということだったのです。主の御名によって罪の赦しの宣言を受けた者は皆、イエス様に足を洗ってもらった者だと言えます。そこで私たちは自問しなければなりません。「私もまたイエス様と同じように僕(しもべ)として歩んでいるだろうか」と。

4/10 受難の日 (ルカ22:54-23:56)
イエス様の十字架を背負おう

ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。 「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。 〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。 民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」 兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」 イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。 十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」 すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。 我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」 そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。 するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。(ルカ23:32-43)

この二人の犯罪人のイエス様に対する態度は、人間の自分の罪に対する二つの態度でもあります。自分の罪を顧みず、問題はすべて自分以外にあると信じ、イエス様の十字架を間近に見ても救い主と受け入れない人と、イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してくださいという人。イエス様を真ん中に、全く同じような姿で十字架につけられている二人ですが、一人は永遠に神様から引き離された状態に置かれることとなり、もう一人は、このあとすぐイエス様とともに神の国に向かい、永遠に主とともにいることとなります。

4/11 暗黒の土曜日 (ヨハネ19:38-42) 
十字架と復活の間

その後、イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していたアリマタヤ出身のヨセフが、イエスの遺体を取り降ろしたいと、ピラトに願い出た。ピラトが許したので、ヨセフは行って遺体を取り降ろした。 そこへ、かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモも、没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり持って来た。 彼らはイエスの遺体を受け取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料を添えて亜麻布で包んだ。 イエスが十字架につけられた所には園があり、そこには、だれもまだ葬られたことのない新しい墓があった。 その日はユダヤ人の準備の日であり、この墓が近かったので、そこにイエスを納めた。(ヨハネ 19:38-42)

アリマタヤ出身のヨセフは、同じく議員であったニコデモ(ヨハネ3:1-21, 7:51)ととものピラトに願い出て、イエスの遺体をひきとって埋葬しました。彼はイエス様の弟子となっていましたが、人々を恐れてそのことを隠していました。イエス様に対しても、イエス様に公然と従っていた弟子たちに対しても彼は後ろめたさを持っていたはずです。しかしこのとき、いままで勇敢にイエス様に従っているように見えたおもだった弟子たちは皆、ユダヤ人を恐れて遺体を引き取るどころか逃げさってしまいました。そこで同じような境遇のニコデモとともに勇気を出してこの申し出をしたのです。

メッセージのポイント
今日から始まる受難週。イエス様がエルサレムにこられ、十字架の死に至った一週間の歩みを共にたどるように深く黙想する時として過ごしましょう。毎日の聖書の言葉と祈りによって、深く主の十字架を心に刻み、この十字架を負って歩む者としての決意を新たにしましょう

話し合いのためのヒント
1) 十字架の出来事以外に受難週に起きたどの出来事が最も印象的でしたか?
2) 黙想を通して与えられた新しい思いをシェアしましょう