July 26th, - Aug 1st, 2009 Vol.16 No.30

神様の子供たち(ヨハネの手紙I 2:28-3:3)

A ずっと御子の内にとどまる者でいよう

1) 信頼することによって (2:28)

さて、子たちよ、御子の内にいつもとどまりなさい。そうすれば、御子の現れるとき、確信を持つことができ、御子が来られるとき、御前で恥じ入るようなことがありません。(2:28)

この手紙の時代の人々は、彼らが生きているうちに、天に昇られたイエス様が再び来られると考えていました。彼らには期待と共に緊張感がありました。「私は胸を張ってイエス様の前に立つことが出来るのか?」ということからの緊張です。しかし、もうこの時代には、そんなことは起こらないと主張する偽預言者も現われていたことを、私たちは前回学びました。シリーズ前回のテキストの最後の節を憶えていらっしゃいますか?「だから教えられたとおり、御子の内にとどまりなさい。」(2章27節)でした。ヨハネは反キリストについての部分を終えるにあたって、様々な教えや風潮に惑わされることなく、愛の道を歩むために「御子の内」にとどまりなさいと命じています。そしてこの部分を始めるにあたって、もう一度同じ言葉を繰り返します。言うまでもなうそれが魂を健康に保つ上で非常に大切なことだからです。イエスキリストの内にとどまるとはどのようなことを意味しているのでしょうか?それはキリストの体の一部として生きているということです。「バプテスマを受けたからクリスチャンですが、目に見える体に属してはいません」というのでは御子の内にいることにはなりません。ペーパーワークの上で何々教会教会員というだけでも、特定の教会の礼拝に定期的に出席していると言うだけでも不足です。とどまるということは、居たくないところに無理矢理居させられることではありません。教会は生きて働くキリストの体であって、天国行きのフライトを待つクリスチャン専用のファーストクラスラウンジでもありません。イエス様と一緒に、今与えられている働きを忠実に果たしているということです。  約束を信じて希望を持って働き続けることは時に困難を覚えます。しかし現代の教会は100年どころか2000年の歳月が経っても、この希望とそして緊張感を持っているからこそ健康を保って存在することができるのです。  たとえ命のあるうちに再び来られるイエス様にお会いできなくても、自分がこの地上での命を終えるときのことを考えるなら、同じ希望と緊張感を持たざるを得ません。ちょうど、家の中で命じられた仕事をしながら留守番をする子供たちのように、イエス様を待つのです。仕事をせずに遊びほうけてイエス様をがっかりさせたくないという気持ちから来る緊張感と素晴らしいお土産を持って帰ってこられるという期待を胸に人生を生きているのです。そのように「御子の内に」歩み続けられるのは、私たちがイエス様を信頼しているからです。すべての約束が成就する日まで、あるいは地上での命を終える日まで、イエス様を信じ、従ってゆきましょう。

2) 正しく歩むことによって (2:29)

あなたがたは、御子が正しい方だと知っているなら、義を行う者も皆、神から生まれていることが分かるはずです。(2:29)

私たちはイエス様が正しい方だと知っています。そうであるなら、キリストの体であり、神の子供たち、神の家族である私たちも義を行なう者として、世におかれているということです。目に見える不義に目を背けるわけにはゆきません。私たちは神様に、自分ができることを見つけて不義を正すことを期待されています。それは先週お話しした、世界を愛することの一つです。ただ私たちには限界があります。全てのことを行なうことはできません。また正しいと信じてしていることでも後で誤りだと気がつくことがあります。私たちが(ユアチャーチが)するべきこと、しなくても良いことを、神様にしっかりと聞きながら歩む必要があります。そうでなければイエス様を主とするのではなくて、自分を主とする者になってしまいイエス様の内から迷い出し、正しく歩むことはできなくなってしまいます。

B 胸を張って『私は神様の子供です』と言おう

1) 御父の愛を知ることによって (3:1,2)

御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。世がわたしたちを知らないのは、御父を知らなかったからです。 愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。(3:1,2)

神様があなたをどれほど愛しておられるか、あなたは知っていますか?ヨハネのように、私もあなたに言いたいのです。あなたは神様の子供として愛されています。親は喜んで子供のために犠牲を払います。事実、神様はイエスキリストとして、十字架の上で私たちがもう一度神様の家に子供として帰れるように、私たちの身代わりとなって、神様に背を向けたという罪のために死をもって償われました。創って下さった神様に背き自分を神のようにして歩むことは、死をもってしても償うことのできない大きな罪です。この時代にささげられた傷のない動物の犠牲でも不可能でした。犠牲となれるのは罪のない一人の人だけです。そしてそのような人は、イエスキリスト以外には一人もいないのです。聖書はあなたが現状に満足できないこと、怒り、悲しみ、無力感、依存症といった問題の根本にこの罪があることを教えています。どうぞあなたもこの罪を悔い、イエスキリストの十字架を信じ、イエス様に従って生きる新しい道を踏み出して下さい。2節は既にこの歩みを始めている人々を励ましてくれます。私は大人になるまで神様を知りませんでしたから、もちろん自分が牧師になるとは思ってもいませんでした。クリスチャンになってからも、数年間は思ってもみませんでした。神様の私に対する計画をもっと前に知ってしまったなら、ヨナのように逃げ出していたに違いありません。絶妙のタイミングで示されたので、ためらうことなく方向転換をしました。そして、与えられた務めを楽しんでいます。それは自分なりにうまくやれていると言う自信があるからでは決してありません。自分がどれほどイエス様の姿から遠いかということは痛いほど分かっているのです。でも神様がこんな私を子供としてくれたことを思えば、今自分がどれほどイエス様に似た者となっているかはたいした問題ではないことが分かります。終わりの日まで完成はありません。しかし神様の子供という事実は既にあり、家出をしない限り誰にも奪われることはないのです。

2) 御子に望みをかけることによって (3:3)

御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます。(3:3)

ここの書かれていることは、クリスチャンはクリスチャンらしく自分の身を清めなさい、と言う命令ではありません。イエス様に再び実際にお会いでき、しかも自分もイエス様に似た姿に変えられるという望みを持って歩み続けるなら、イエス様の清さに近づいてゆけるという良い知らせです。いつ終わりが来るのか、自分はいつ天に召されるのか、そんな心配はする必要がありません。いつも御子の内にいるなら、今の状態がどんなにも未熟であっても、いつその時が来ても大丈夫です。あなたは神様の子供なのですから。いつでも、神様の子供として、胸を張ってイエス様の内にとどまっていましょう。

メッセージのポイント
私達には神様の子供たちという素晴らしい身分が与えられています。それは私達が優れているからでも、何か良いことをしたからでもありません。ただ憐れみによって、心の目が開かれ、イエス様を主と受け入れることができたので、この身分が与えられているのです。私達は、家出をするように、この身分を捨てることも出来るのです。私達がイエス様の元にとどまっているために必要なことは、彼を信頼し続けてゆく事です。そしてイエス様が体現された神様の愛と義を行動の規範とすることです。そして、イエス様の内にとどまっているならば、神様の愛をもっと深く経験し、もっと大胆にイエス様を信頼できるようになり、神の子供であることの恵みを実感できるのです。

話し合いのためのヒント
1) 御子の内にとどまるとはどういう事なのでしょう?
2) なぜ私達は自分が神様の子供だということができるのですか?