August 9th, - 15th, 2009 Vol.16 No.32

愛:生きている証(シリーズ:ヨハネの手紙 7)(Iヨハネ3:11-18)

 

A 神様の子供たちのライフスタイル (11-15)

1) 聖書の教えの原点 (11)

なぜなら、互いに愛し合うこと、これがあなたがたの初めから聞いている教えだからです。(11)

この節は先週の最後の節「神の子たちと悪魔の子たちの区別は明らかです。正しい生活をしない者は皆、神に属していません。自分の兄弟を愛さない者も同様です。(10)」の理由として書かれていますが、同時に今週のメッセージのキーポイントです。 私たちが初めから聞いているシンプルな教えは「互いに愛し合う」ことです。それはシンプルですが、困難でもあり、奥深いものでもあります。しかし、それがどんなに困難であっても、そこから離れることは、イエス様から離れることです。 私達は自分の満足のためでも、立派な組織を立て上げるためでもなく、神様が創られたすべてのものが、互いに愛し合う世界を目指して、神様を愛し、互いに愛し合い、この世界を愛するためにここに置かれているのです。 愛し合うとはどのようなことなのか、私達は聖書から学び、この教会でレッスンし、実際に愛するために出てゆくのです。

 

2) 聖書の中の反面教師 (12,15, 創世記4章)

カインのようになってはなりません。彼は悪い者に属して、兄弟を殺しました。なぜ殺したのか。自分の行いが悪く、兄弟の行いが正しかったからです。(12) 兄弟を憎む者は皆、人殺しです。あなたがたの知っているとおり、すべて人殺しには永遠の命がとどまっていません。(15)

愛する者となるためには、イエス様を初めとする「愛のお手本」に親しむこととともに、反面教師を観察することも役に立ちます。カインは数多くいる聖書の中の反面教師のなかでも、第一級の反面教師です。何しろ世界で最初の殺人者、アダムとエヴァの罪の最初の体現者、そして私たちは皆、彼の霊的DNAを受け継いでいるのです。私たちは、自分の悪を顧みず、かえって正しい者を憎む、という傾向を持っています。憎しみは邪魔をするものがなければ殺人に行き着いてしまいます。聖書は様々なところで、憎しみを保ち続ければ悲惨な結果をもたらすことを警告しています。憎しみはいけないと教育することも、刑を重くすることも、人の心に生まれる憎しみを制御することはできません。この憎しみに打ち勝つ力はイエス様だけが持っておられます。

 

3) この世界で愛に生きるということ (13,14)

だから兄弟たち、世があなたがたを憎んでも、驚くことはありません。 わたしたちは、自分が死から命へと移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。愛することのない者は、死にとどまったままです。(13,14)

愛に生きると憎しみに直面するとはなんと皮肉なことでしょうか?しかし、永遠の命を信じない、その価値を知らない社会の中で神様の愛に生きようとするなら、無理解、反対、抵抗にあうのは当然のことなのです。悪魔は、外側からの攻撃と、教会を内側から腐らせてしまう働きの両方を用いて、私たちに戦いを挑んできます。だから、この世界で愛に生きることはそう簡単なことではないのです。教会はこの世における愛の砦です。この砦を拠点として戦うのでなければ、愛によって憎しみに打ち勝つことはできません。この中で、休息を得、訓練を受け、あるときは一人、二人で、あるときは隊列を組んで世に戦いを挑み、またここに戻ってきます。ですからこの砦が内側から脆くなることには十分に警戒をしなければなりません。そのためにも、「互いに」愛し合うことを初めから教えられてきているのです。すぐ隣にいる兄弟を愛さないなら、遠くの兄弟を愛することも、ひいては神様を愛することも出来ません。世界にでて行くことは大切ですが、それが良くできるように、まず互いに愛し合うことから始めましょう。それはその人のニーズを知り、それを満たすことです。

 

B イエス様に倣って (16-18)

1) イエス様の愛 (16)

イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。(16)

15節と16節は内容が際立って対照的です。さきほど憎しみに打ち勝つ力を持っているのはイエス様だけ、と言いましたが、それはイエスキリストと共に生きる、つまり15節の生き方を捨て、16節の生き方を選び取るということです。そして誰もが自分のうちにその力のないことを知っています。どうしたら、愛せるのでしょうか?それはイエス様の弟子となることです。イエス様の招きは、ただ神様の恵みをいっぱい受け取ることにとどまらず、私たちがイエス様の弟子となって、イエス様のように愛する人生への招きなのです。

 

2) 同情から行いへ (17-18)

世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう。 子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。(17,18)

私たちは皆、様々な問題に直面し様々な助けを必要とします。経済的なことだけではありません。それは、能力であり、時間であり、体力でもあります。あなたがそれらを、見返りを求めずに誰かの必要のために用いる時、あなたはその人を愛しているのです。あなたが神様の内にとどまっているなら、神様の愛があなたの内にとどまって、そのように愛することができます。行ないには一人でできることもあれば、誰かと協力しなければできないこともあります。大勢に人が様々な形で重荷を負わなければできないこともあります。例えば海外宣教がその一つです。一人の宣教師を送り出すためには、その何百倍、何千倍の人々の行いを必要とするのです。 同情から行動に踏み出す第一歩は祈ることです。そして自分ができることから始めましょう。

 

メッセージのポイント
聖書のメッセージの全体を一語で表現するなら、それは「愛」です。愛とは何か、誰に愛されているのか、誰を愛するのか、なぜ愛するのか、どのように愛するのか、いつ愛するのか、私達はその答えを聖書から見いだすことができます。神様は愛です。ところが人類は歴史の始めから、創造主に背を向けて歩んできました。背を向けることをやめ、愛に生きようとすれば、罪の支配する社会の中で抵抗を受けるのはやむを得ないことです。しかし私達はこの世界を見限ることはできません。なぜなら人々は罪からの解放を待ち望んでいるからです。中にはそれ気付かない人もいれば、積極的に悪を働いている人もいますが、神様はあなたを、人々を罪から救い出すレスキュー隊員として、一人でも多くの人が永遠の命を取り戻すように、この世界に派遣されているからです。

話し合いのためのヒント
1) なぜ世界があなたを憎んでも驚くことはないのでしょうか?
2) 「兄弟のために命を捨てる」とはどういう意味ですか?