August 23rd, - 29th, 2009 Vol.16 No.34

霊を見分けなさい(シリーズ:ヨハネの手紙 9)(Iヨハネ4:1-6)

A 霊を見分ける方法

1) 神の霊 (1,2)

愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです。 イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります。(1,2)  

これは、テレビのバラエティーショーの心霊現象を簡単に信じてはいけませんよ、という話ではありません。そんなことより遥かに重要な私たちの生き方の根本にかかわる話です。ヨハネが「愛する者たち(Dear friends)」という呼びかけるときは、極めて重要なことを告げる時なのです。  重要なこととして命じられているのは、「全ての霊を信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめる」ということです。そこには、正しい教えは神様の霊、聖霊によって保証され伝えられているという信仰の前提があるからです。もし悪霊を背景に持つ教えであれば、それを信じる者は、神様の内を歩んでおらず、また神様はその人の内にとどまってはおられません。イエス様を主と信じ従ってはいないということです。自分ではそのつもりでも、聖書の教えとは異なる教えを信じていたとしたらイエス様に従ってはいないのです。そのような異なる教えを伝える偽預言者と呼ばれる者たちがこの時代に既に大勢現われていました。わざわざ確かめなさいと命じられているのは、偽りの教えが表面的には聖書を用いた教えで、イエス様の教えと紛らわしく、教会の中に入り込み影響を受けた者が少なからずいたからです。誰でも礼拝の中で、今日は聖書ではない別の教典から学びましょうと言えば、おかしいと思うでしょう。しかし、聖書から学びましょうと言われると惑わされてしまうことがあるわけです。  ここでヨハネは確かめる基準ははっきりとおしえてくれています。イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表すかどうかです。現代も様々な教えがかたちを変えて教会の中に入り込んできますが、私たちはこの基準で確かめ、注意深く排除することができます。その教えが、「イエス様は父、聖霊とともに神様であり、人としてこられ十字架にかかり、私たちを神様との和解に導かれた、従うべき唯一の主である」ということと矛盾しないかどうか、というこの基準は今でも有効です。教会が神様の霊に正しく導かれているかどうかの判断は、どれほど繁栄しているかでも、どれほどしるしや奇跡が起きているかでも、預言や異言がなされているかでもなく、イエスキリストの教えが誤りなく伝えられているか、それが愛として結実しているかでなされるのです。

 

2) 反キリストの霊 (3)

イエスのことを公に言い表さない霊はすべて、神から出ていません。これは、反キリストの霊です。かねてあなたがたは、その霊がやって来ると聞いていましたが、今や既に世に来ています。(3)

反キリストの霊とは、イエス様が肉体を持ってこられた神、救い主であることを公に言い表さない全ての霊のことです。悪魔に起源を持つ悪霊どものことです。ところで、私たちが霊を確かめなければならないのは、誤った教えをよく知るためでも、その背後の悪霊をよく知るためでもありません。そうではなく神様の霊に従うためです。ですから、私たちの悪霊について事細かに知る必要はありません。それはむしろ信仰者にとって落とし穴となる危険を持つことです。好奇心から想像を膨らませて、種々の霊や、霊界、悪霊について聖書以上の知識以上のことを知ろうとするのは賢いことではありません。最も大切なことは、イエス様を主と信じ従って歩むことです。主に従って歩むのに、諸霊についての細かな知識を得ようとするのはむしろ有害で、その人の関心を「十字架の罪の赦しと復活」から引き離してしまいます。霊の働き(と感じられる物事)に心を奪われるなら、イエス様が与えられた勝利の確信さえ揺らぎかねません。それこそ悪魔の望むところです。パウロはコリントの信徒への手紙(1)の中で「兄弟たち、私もそちらに行ったとき、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした。なぜなら、あなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです」(2:1,2) と言っています。それは彼が『十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味のないものにする。」』(同1:18,19) ということを知っていたからです。それはパウロが思いつきで言ったのではなく、預言者イザヤを通して神様が既に教えられていたことでした。(イザヤ29:13,14)

 

B 神様の子供たち V.S. 偽預言者たち

1) 神様に属している私たち (4)

子たちよ、あなたがたは神に属しており、偽預言者たちに打ち勝ちました。なぜなら、あなたがたの内におられる方は、世にいる者よりも強いからです。(4)

イエス様が弟子たちに伝えた教えは新約聖書としてまとめられ、旧約聖書と共に私たちが信じるべき唯一の言葉として2000年の間保たれてきました。この教えの歴史は、新約聖書がまとめられる以前のこの手紙が書かれた頃から既に偽預言者たちの曲解にさらされてきたことがわかります。けれども心配しすぎる必要はありません。なぜなら神様は最初から教会を偽預言者から守り、今に至るまで教会はイエス様の教えにとどまり続けることができているのです。私たち自身がどんなに弱くても、私のうちに住んでおられる神様は世にいる者よりも強いことを、いつも忘れずにいましょう。3節までは、神様の霊と反キリストの霊との比較で語られてきましたが、4節以下では神様に属するのか、世に属するのかという比較を用いてわたしたちがどれほど祝福されているかということを教えてくれています。ここでいう世とは、いまだに悪魔の影響下にあるこの世界のことです。私たちはこの世界に住んでいますが、この世に属しているのではありません。ですから、私たちが神様とともに歩んでいる限り、どんな偽りの教えが出てきても打ち勝つことができるのです。

 

2) 世に属している偽預言者 (5)

偽預言者たちは世に属しており、そのため、世のことを話し、世は彼らに耳を傾けます。(5)

なぜ人は偽預言者に耳を傾けるのでしょうか?それは彼らが世を支配する反キリストの霊によって、世に住む人々に耳ざわりの良い教えを説くからです。人々が真理に気付くことを妨げることが悪魔の目的です。ですから彼らに耳を傾ける人が多くいたとしても気にする必要はありません。また、わたしたちに耳を傾ける人が少ないことを嘆く必要もありません。神様はご計画に従って私たちを用いて人々を招かれます。ですから私たちは人々に取り入って福音を耳ざわり良くアレンジしてはいけないのです。例えば、私たちは「イエス様を信じましょう。そうすれば経済的に豊かになります。」とは教えません。もちろん神様が私たちの経済的な必要を満たして下さることは事実です。しかし、イエス様はリッチになるために私を信じなさい、とおっしゃったのではありません。イエス様は私に従いなさいとおっしゃったのです。イエス様に従うとは、犠牲を伴う愛に生きることです。富や名声や個人的な満足を求める人々に人気がないのは当然です。またある人々は、十字架による罪の赦しとか、イエス様以外に救いの道はないといった理解してもらいにくい教えは無視しても、社会活動や慈善事業はできる。そういったものに人々を参加すればイエス様の弟子だと考えてもいいのではないかと主張します。しかし聖書は十字架による罪の赦しと、イエス様を主と信じ従う事なしには何も意味がない、と教えているのです。この最も大切な掟に関して妥協の余地はありません。愛の行いとともに、神様の教えを率直に伝えてゆきましょう。

 

3) 聞く耳を持つ人、持たない人 (6)

わたしたちは神に属する者です。神を知る人は、わたしたちに耳を傾けますが、神に属していない者は、わたしたちに耳を傾けません。これによって、真理の霊と人を惑わす霊とを見分けることができます。(6)

ヨハネや他の使徒たちが、イエスキリストの福音から人々がそれて行かないように熱心に教えても、耳を貸さない人々がいました。偽預言者たちです。それ以来、今に至るまで偽預言者は何度となく登場して人々をまどわしています。教会では誰も彼らに耳を貸さなくかると彼らは、教会から出てゆき偽教会を作ります。そしてやがて歴史の舞台から消えてゆくのです。人を惑わす霊による企てを神様はお許しになりません。わたしたちはただ真理の霊に従って、パウロのテモテに宛てた手紙を自分たちへの戒めとして歩みたいと思います。 御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。 だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。 しかしあなたは、どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい。(テモテへの手紙 II 4:2-5)

 

メッセージのポイント
聖書の霊についての教えはとてもシンプルです。私たちは好奇心から想像を膨らませて、種々の霊や、霊界、悪霊について聖書以上の知識を得ようとしがちですが、それは賢いことではありません。このテキストは、霊に関するエキスパートでなくても、霊を見分けることができることを教えてくれています。すべての人にとって大切なことは、イエス様を主と信じ従って歩むことです。主に従って歩むのに、霊についての細かな知識はむしろ有害で、その人の関心を「十字架の罪の赦しと復活」から引き離してしまいます。霊の働き(と感じられる物事)に心を奪われるなら、イエス様が与えられた勝利の確信さえ揺らぎかねません。主イエス様の背中を追いつつ、聖霊に満たされ、神様の内を歩むことに心を注ぎましょう。

話し合いのためのヒント
1) どのように神様の霊と反キリストの霊を見分けられますか?
2) 耳を傾けてくれる人(あるいは、くれない人)に対して私たちに何ができますか?