August 30th, - September 5th, 2009 Vol.16 No.35

Yes, 愛 Can !(シリーズ:ヨハネの手紙 10)(Iヨハネ4:7-21)  

A 愛されているから愛する

はじめに7-13節を読みます。ここでヨハネは霊を見分けるという話題からもう一度、互いに愛し合うことに話を戻しました。それはこの手紙の主題なのです。前の部分で教えられてきた霊を見分けるということも、それ自体が目的なのではなく、霊的な混乱によって互いに愛し合うことができなくなることを防ぐために必要なこととして書かれたのです。この部分でヨハネは、私たちがなぜ互いに愛しあうことができるのか根拠を示し、私たちに愛において成長することを勧めています。

1) 神様に愛されているから愛することができる (10,19)

わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。(10)

わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。(19)

ヨハネは愛し合いましょうという勧めから始めていますが、私たちは、まずその理由から考えてゆきたいと思います。今読んだ10節、そして19節がその理由をはっきりと教えていてくれます。私たちの内側にある愛情は常に見返りを求めます。口には出さなくても、こんなに愛して尽くしているのだから、そちらからも相当なものを頂けるのが当然と感じているのです。こんなに自分を犠牲にして育てているのだから、自慢の息子、娘になってね、と期待しますが、恥をかかされればもう出て行けということになったりします。愛情は、愛ではありません。愛情はコンディションによって変わってしまいますが、愛は変わりません。多くの人は愛情を知っていますが愛を知りません。愛はおよそ2000年前までこの世界には存在しませんでした。10節をもう一度読んでみましょう。私たちが神様に背いているという罪の故に愛することのできない存在であった時に、イエスキリストはその罪を赦すために来られ十字架の苦しみを身に受けられた、それが愛です、というのです。あなたがどんなに罪深い存在であっても神様はあなたを愛しています。あなたの、信じます、従いますという決心を聞く前に、あなたの身代わりとなったのです。ここに愛があります、とヨハネが言っているように私たちはイエス様の十字架に『愛』を見たのです。愛を見なければ愛がどのようなものかを知ることはできません。そこで私たちは愛を知りました。しかし、イエス様はわたしたちが愛されていることを知るだけでは満足されませんでした。イエス様の十字架を自分の罪のあがないと信じ、イエス様を主と信じ従う者には、その人の内にとどまることを決心されたのです。(13) それは、心にイエス様を迎えた人は神様の愛に包まれているだけでなく、神様の愛で愛することができるようになるということです。

 

2) だから愛し合おう (7-9,11-13)

そこで、もう一度7-9,11-13節を読みましょう。

愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。 愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。 神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。(7-9)

愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。 いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。 神はわたしたちに、御自分の霊を分け与えてくださいました。このことから、わたしたちが神の内にとどまり、神もわたしたちの内にとどまってくださることが分かります。(11-13)

この部分で今日注目したいポイントは四つあります。

(1) 神様はわたしたちが生きるようになるためイエス様を遣わされた(8)
(2) 神の愛がわたしたちの内に示されました (9)
(3) 神の愛がわたしたちの内で全うされている (12)
(4) 神はわたしたちに、御自分の霊を分け与えてくださいました (13)

ここで聖書は、生きるということの本質が愛することにあるということを教えてくれています。愛し合っているのでなければ、本当に生きていることにはなっていないということです。神様の愛は空の遠く彼方に示されたのではなく、わたしたちの内に示されました。あなたのどこか遠くで現されるのではなく、わたしたちの内で全うされているのです。聖霊が私たちの内に住んで下さるので、私たちは愛がどこか遠くではなく、自分の内にあり、自分の内から溢れ出すことを喜ぶことができます。愛も青い鳥と同じです。人々は愛をどこか遠くに見いだそうとしますが、私たちは自分の内にあることを知っています。私たちがするべきことはもう愛せる理由を探すことでも、愛がどこにあるかを見つけることでもなく、愛することです。JUST DO IT ! - NIKE

 

3) 神様は愛(14-16)

わたしたちはまた、御父が御子を世の救い主として遣わされたことを見、またそのことを証ししています。 イエスが神の子であることを公に言い表す人はだれでも、神がその人の内にとどまってくださり、その人も神の内にとどまります。 わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。(14-16) 聖書全体を最も短く要約すると「神は愛です」となります。神様が愛だということは聖書の核心です。私たちのすべてが求めて止まない「愛」ですが、多くの人々は愛に満たされているという実感がありません。求めても満たされないのは、正しい求め方をしていないからです。愛を求めるということは神様を求めるということなのです。そして神様に至る唯一の道はイエスキリスト以外にはありません。

 

B 愛に生きるということ

1) 愛には恐れがない (17,18)

こうして、愛がわたしたちの内に全うされているので、裁きの日に確信を持つことができます。この世でわたしたちも、イエスのようであるからです。 愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。(17,18)

愛に満たされていないということは、恐れがその人の心に常にあるということです。完全な愛は恐れを締め出すとあるように、神様の下さる愛は恐れと共存することができません。この愛があるところには恐れは存在できないのです。神様の愛が善いことの根源であるなら、恐れは悪い感情の根源です。同じ事態に直面しても、その人の内に神様の愛がとどまっていなければ恐れがそこにとどまります。恐れは疑い、不安、怒りとなってその人の心を支配し、それが外側にも現われます。それに対してイエス様を主と信じ従っている人のうちには神様からの愛/神様への愛があります。この愛が、その人の心を安心させ、神様に対する信頼は揺るぎません。そしてその人の心には人々に対する愛、受け入れ、赦しが生まれます。愛の心を持つということは恐れのない心を持つということでもあるのです。

 

2) 人を憎みながら神様を愛することはできない (20,21)

「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。 神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。(20,12)

憎しみもまたその根には恐れがあるのです。その人の心に神様の愛がとどまり、恐れが閉め出されているのなら、その人は憎むことができないはずです。私はこの人を憎みますが、神様あなたのことは愛しています。ということはあり得ません。このことを聞いた人の反応は二通りに分かれます。1)私には赦せない人がいる、だから私には神様の愛がとどまっていないのだ。2)私には豊かに神様の愛が注がれている。だから感情的に赦せない人もきっと赦せるようになる。もちろん皆さんには二番目の考え方をしていただきたいのです。愛することも憎むことも、本質は感情ではなく意志です。憎しみという感情はなかなか消えないかもしれません。しかし、大切なのは意志です。憎むという意志を持ち続けるなら、感情はますます強くなってゆきます。しかし、憎まないという意志を持てば、神様は憎しみの感情を和らげ、やがて消し去って下さいます。

 

メッセージのポイント
愛することは、「愛しています」と口にするより遥かに難しいことです。それでも、誰でも愛し合えるならそれが一番いいに決まっていると思っています。それが実現に至らないのは、神様を知らないからです。神様を知るということは、神様から愛されていることを知ることでもあります。神様から愛されていることに確信を持てれば、私たちは見返りを求めずに愛することができます。神様もあなたに愛されることを喜ばれます。それは、心からの礼拝をささげるという直接的な表現だけではなく、人々を愛するということが実は神様を愛することになるのです。なぜならどんな人も神様がお作りになった大切な一人一人だからです。

話し合いのためのヒント
1) 私たちはなぜ愛し合うことができるのですか?
2) 愛には恐れがないとはどのようなことなのでしょうか?