September 20th,- 26th, 2009 Vol.16 No.38

キリストの教えにとどまっていなさい 2ヨハネ

A 愛に歩む

1) なぜ愛し合うことがたいせつなのか?(1-3)

1 長老のわたしから、選ばれた婦人とその子たちへ。わたしは、あなたがたを真に愛しています。わたしばかりでなく、真理を知っている人はすべて、あなたがたを愛しています。 2 それは、いつもわたしたちの内にある真理によることで、真理は永遠にわたしたちと共にあります。 3 父である神と、その父の御子イエス・キリストからの恵みと憐れみと平和は、真理と愛のうちにわたしたちと共にあります。

聖書は私たちに愛し合いなさいと教えています。その大切さを知る上でこの手紙はとても重要です。選ばれた婦人とは、手紙の宛先である教会のことを指しています。これは長老ヨハネが自身と関連する教会の人々に送った手紙です。その書き出しは、単なる気の利いた挨拶として読み過ごしてしまいそうですが、ここには本当の愛を知る上で欠かすことのできない真理が含まれています。「私はあなたがたを本当に愛しています」というラブコールに続けてすぐに、「愛は人間同士の相互の感情や意志ではなく、私たちがそれぞれのうちに持っている真理によって成り立つものです。」ということを言っています。真理とはイエス・キリストです。愛はイエス様から来るものであり、イエス様と私たちを結ぶものでもあるのです。永遠に共にいて下さるイエス様の愛の中でのみ、私たちが求める恵み、憐れみ、平和が実現するのです。

 

2) 愛とは父の掟に従って歩むこと(4-6)

4 あなたの子供たちの中に、わたしたちが御父から受けた掟どおりに、真理に歩んでいる人がいるのを知って、大変うれしく思いました。 5 さて、婦人よ、あなたにお願いしたいことがあります。わたしが書くのは新しい掟ではなく、初めからわたしたちが持っていた掟、つまり互いに愛し合うということです。 6 愛とは、御父の掟に従って歩むことであり、この掟とは、あなたがたが初めから聞いていたように、愛に歩むことです。

神様が、イエス様の十字架を通して私たちにして下さった恵みに応える教会の在り方は一つだけです。それは「互いに愛し合うこと」です。そしてこのことは神様を愛することなしには不可能なことです。もちろん神様の掟には「互いに」だけではなく、イエス様が言われたように、神様を愛するという原点があり、世界に愛を届けるというヴィジョンも含まれていますが、この手紙は教会という交わりの中に迫っている「反キリスト」の悪影響という問題に焦点を当てているので、教会の一致を保つという観点から「互いに愛し合うこと」を特に強調しているのです。

 

B キリストの教えにとどまる

1) 惑わす者が多い世の中だからこそ(7-9a)

長老ヨハネがこの手紙をイエス様の愛のうちに歩むことから始めたのは、この教会にも、反キリストがアプローチしてくることを予想していたからです。人々が反キリストの主張を聞き入れ始めれば、恵み、憐れみ、平和は破壊されてしまいます。反キリストの教えは、イエス様が人となられた神様、私たちをその愛の中に招かれた神様であることを否定するものだからです。イエス様の愛の教えにとどまらなければ恵み、憐れみ、平和を得ることはできません。

7 このように書くのは、人を惑わす者が大勢世に出て来たからです。彼らは、イエス・キリストが肉となって来られたことを公に言い表そうとしません。こういう者は人を惑わす者、反キリストです。 8 気をつけて、わたしたちが努力して得たものを失うことなく、豊かな報いを受けるようにしなさい。 9a だれであろうと、キリストの教えを越えて、これにとどまらない者は、神に結ばれていません。

当時の反キリストは、神様を全能、栄光といった人とはかけ離れた超越的な存在としてだけ伝え、聖書の伝える最も大切な出来事、イエスキリストが肉となって来られたことを認めませんでした。イエス様を神様と認めないなら、十字架の罪の赦しも、それによって示された愛も、意味がなくなります。苦しむ者、悲しむ者、小さい者に寄り添われた神様であるイエス様が人として歩まれたことを信じないなら、それはもうキリスト教ではありません。イエス様だけが信じ従うべき神様であることを否定する教えは、今日では注意深く見分けられ、日本の社会の一般常識では混同されていますが、少なくともクリスチャンは、例えばモルモン教や、エホバの証人をクリスチャンだとは考えていません。そこで今、私たちが注意すべきことは、今それが反キリストと言えないまでも、福音からそれてゆく方向性を持ったものを教会の中にはびこらせないことです。イエスキリストが人となられた神様であること、十字架の赦し、復活の勝利、すなわち「福音」がその教会の教えの中心でなくなるとき、信仰の先輩たちが守り続けてきたものを失い、豊かな報いを得られなくなってしまいます。9節前半の「だれであろうと、キリストの教えを越えて、これにとどまらない者は、神に結ばれていません。」とは興味深い言葉です。神様に結ばれていない者として特に、異教徒でも、キリストの教えに届かない者でもなく、いったんキリストの教えに到達した後に、さらにどこかへ行ってしまった者を指しているのです。そのような者に教会が耳を傾けるなら、その教会は福音を伝えるところではなくなります。そこでは繁栄、成功、政治的活動、カウンセリング、ボランティア活動、リクリエーション、教養、芸術、律法主義などが福音の座を奪っているのです。

 

2) しっかりとどまって妥協してはいけない(9b-11)

9b その教えにとどまっている人にこそ、御父も御子もおられます。 10 この教えを携えずにあなたがたのところに来る者は、家に入れてはなりません。挨拶してもなりません。 11 そのような者に挨拶する人は、その悪い行いに加わるのです。

イエス様の福音とずれた教えが、教会の中に入り込んできたとき、わたしたちはそれに対して一切妥協してはならないとヨハネは命じています。これは、他の宗教を信じる人を無視しなさいというようなことではありません。これはキリストの教えですと言いながら福音を語らない者に対する態度について教えているのです。家に入れてはいけない、挨拶もしてはいけない。つまり、少しでも近づいてはいけないという警告です。むしろ、はっきりと反対の態度をとらなければ、神様の目から見れば「反キリスト」の側にいる事になるという警告です。

 

3) よい交わりを保つ(12-13)

12 あなたがたに書くことはまだいろいろありますが、紙とインクで書こうとは思いません。わたしたちの喜びが満ちあふれるように、あなたがたのところに行って親しく話し合いたいものです。 13 あなたの姉妹、選ばれた婦人の子供たちが、あなたによろしくと言っています。

長老ヨハネは、この深刻な問題について、手紙で注意を喚起するだけで十分であるとは考えませんでした。顔と顔を合わせて話し合う、という交わりの中でこそ教会の健康が保たれることを彼は知っていました。教会の霊的健康を保つために役立つ書物や、有益な意見を聞かせてくれる先生は沢山いますが、最も重要なのは交わりなのです。この手紙の結びの部分から、私たちの交わりがこのユアチャーチの中だけにとどまらないということを知ることができます。例えばホープチャペルのラルフやアロンはユアチャーチにとっては長老ヨハネのような存在です。またホープチャペルの人々は私たちのことを祈りのうちに覚えていてくれます。私自身も、友人の牧師やその教会を励ましたり、慰めたり、注意を促したり、反省を促したりすることがあります。そして、皆さんが覚えて祈っている牧師や教会にはユアチャーチの人々が、あなたによろしくと言っています、と伝えています。

 

メッセージのポイント
せっかくイエス様を知ったのに、そこにとどまらず、どこかへ行ってしまう人々が今も昔も存在します。そのような人は自分の考えこそ正しい聖書の教えだと主張します。しかし、聖書はそのような人々をはっきりと『反キリスト』だと断じています。ここに出てくる反キリストは、イエス・キリストが人となられたことを否定する者ですが、今日ではもっと様々な反キリストが、キリスト教を自称して人々の心を惑わせます。このような世の中だからこそ、私たちに最も必要なことは愛し合うことです。それは優しく受け入れるというだけのことではありません。愛する者が『反キリスト』に引きずり込まれないように警告したり、惑わす者をきっぱりと排除したりするという、妥協のない厳しい態度をとるべき時もあるのです。

話し合いのために
1) ヨハネはここで、愛とは何だといっていますか?
2) キリストの教えを越えるとはどのようなことを指していますか?