October 25th,- 31st, 2009 Vol.16 No.43

キリストの香りになろう IIコリント2:12-17

A それはどのような香り?

1) キリストによって神に献げられる良い香り (15)

救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。

良い香りは神様への献げ物として、創世記の時代から礼拝の大切な要素でした。ノアは洪水の後、箱船から出て最初にしたことは礼拝でしたが、そのときに焼き尽くす献げ物がささげられ、神様はその香りをかいで喜ばれました(創世記8:20-22)。この香りはおいしい香りですが、出エジプト記に30章には、香草の香を焚くことやそれらから作られた香料の香りが神様に献げられる香りの献げ物であったことが記されています。誰かにイエス様を紹介する人は皆、キリストの香りです。救いの道をたどる者とは、この香りによって指し示されるイエスキリストを信じ、神様との和解に導かれる人々のことです。それに対して、滅びの道をたどる者とは、この香りに気付いたのにもかかわらず、イエスキリストを信じないで神様に背を向け続ける人々のことです。しかし旧約聖書の伝統のとおり、この香りは人々にイエス様を指し示すだけの目的で存在するのではありません。それ自体が神様への献げ物なのです。

 

2) 命の香りか?死の香りか? (16)

滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです。このような務めにだれがふさわしいでしょうか。

なぜ、この同じ良い香りが、ある人にとっては命を、またある人にとっては死をもたらすのでしょうか? しかも、単に命、死といっているのではなく、命から命に至らせる、死から死へ至らせる、と言うのは、それが決定的な、変わることのない永遠の命と、永遠の滅びを意味しているのです。それは誰であっても「イエスキリスト」とどう関わるかによって、人生は全く別なものになるということです。私自身、イエスキリストを唯一の救い主と信じるまでは、このことの重要さに気付いてはいませんでした。イエス様のことを聞く前はもちろん、その名を聞いても信じるまでは分からなかったのです。人は皆、死に向かって生きることが避けられないように思えますが、全く違う生き方が出来るのですそれは、命から命に向かって生きるということです。聖書は人間の本質が肉体ではなく魂であることを教えてくれます。魂は、人を創られた神様にイエスキリストを通してつながっているなら決して滅びることはありません。聖書はこれを『永遠の命』と呼びます。しかし、イエスキリストに背を向けるなら、体は生きていても魂は死んだ状態です。『死から死へ至る』それは魂が、体が生きていようと、滅びてしまおうと死に続けている。それは永遠の命の正反対の『永遠の滅び』です。一人でも多くの人が、死から死に至る人生から、命から命に至る人生に変われるようにキリストの香りとなる人が必要なのです。

 

B あなたもキリストの香りになれる

1) 不安があっても(12-14)

わたしは、キリストの福音を伝えるためにトロアスに行ったとき、主によってわたしのために門が開かれていましたが、兄弟テトスに会えなかったので、不安の心を抱いたまま人々に別れを告げて、マケドニア州に出発しました。 神に感謝します。神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。

キリストの香りは、クリスチャンとしての立派な行いといったものから放たれるのではありません。パウロは大胆にイエス様のことを伝えましたが、人間的な弱さをもっており、決して何時でも自信満々だったわけではありませんでした。 パウロは旅行の計画を変更してコリントには向かわず、北に向かいトロアスという町で、イエス様を伝える機会を与えられたにもかかわらず、マケドニア州に向かいました。それは、トロアスでテトスに会うことができなかったからです。テトスと会えば、心配していたコリントの教会の様子を聞くことができたはずだったのです。マケドニア州でようやくテトスに会えたとき、コリントの教会も落ち着いてきたことを聞かされ、パウロはようやく慰められ神様に感謝できるようになったのです。自分の状態がどうであるかはあまり重要ではありません。重要なのはあなたが「勝利の行進」に連なっているかどうかということです。それは、心が不安であってもキリストの体である教会にしっかり連なって、養いと恵み、いやし、慰めを受けながら、イエス様に従う喜びを伝え続けるということなのです。

 

2) 誠実に、キリストに結ばれて(17)

わたしたちは、多くの人々のように神の言葉を売り物にせず、誠実に、また神に属する者として、神の御前でキリストに結ばれて語っています。

香りは第一に神様に喜んでいただくためのものです。もちろん人々に気付いてもらわなければなりませんが、人々にいい香りだなと思ってもらうことは第二のことです。このことを忘れるとき、私たちはイエス様の素晴らしさを利用して自分の栄光を求める者となってしまいます。素晴らしい説教者、信頼できる相談相手、多くの人を導く伝道者、宣教師、模範的な働き人、感動的な礼拝を導くワーシップリーダーなどといった評判を得ることを求める誘惑に負けるなら、人々は良い香りだと思ってくれても、神様には喜んではいただけません。かつてペトロはイエス様が十字架の苦難と復活について弟子たちに打ち明け始めたとき、そんなことはあってはならない、イエス様が殺されるなんてあり得ない、イエス様だってそんなことを言うべきではない、言ったら起こらなくてもよいことまで起こってしまうと、イエス様を心配して諌めました。イエス様はそれに対して「あなたは私の邪魔をしている。神のことを思わず人間のことを思っている」と叱りました。  神殿で香りを焚くことが絶やされなかったように、私たちが生涯を通して自分をささげ続けて、良い香りであり続けましょう。自分が立派なごちそうとなる必要はないのです。また旧約時代の人々が全焼の献げ物を献げたように、またマリアがイエス様に大変高価な香油を惜しみなく差し出したようにベストを尽くしてイエス様に仕えましょう。

 

メッセージのポイント
内心の不安があったとしても、あなたがイエス様の勝利の行進に加わっていることは確かです。この行進は、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせるものです。神の言葉を売り物にせず、誠実に、また神に属する者として、神の御前でキリストに結ばれて伝えてゆきましょう。

話し合いのためのヒント
1) キリストの香りとはどのような香り?
2) どうすればキリストの香りになれますか?