November 15th,- 21st, 2009 Vol.16 No.46

見えないものに目を注げ IIコリント4:16-5:10

A. まず、見えないものを見ることが出来る「内なる自分」を見つけよう(4:16-18)

だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。(16) わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。(17) わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。(18)

先週、私たちは土の器のようなものであっても神様の栄光という素晴らしい宝に満たされている、とお話ししました。そのようなわけで、私たちはどんなことがあっても落胆し、失望し、敗北することはないというのです。そうではあっても私たちの感情は落胆し、失望感、敗北感に圧倒されてしまうことがあります。どうしたらパウロが言っているように落胆しない者でいられるのでしょうか?そこで、ここにある「外なる人」と「内なる人」ということばに注目しましょう。「外なる人」とは、私たちの肉体です。それは衰えてゆくものであり、傷つき、また病むものです。この「外なる人」はこの世界の見えるものに左右される部分でもあります。一方、内なる人とは私たちの「霊」のことです。それは様々な感情を覚える「心」のことではありません。私たちの心は肉体の状態に強く影響を受けています。ですから心はむしろ外なる人に属する部分なのです。体の衰えにつれて心の機能も衰えます。しかし人の内にはもっと深い部分として「霊」が存在するのです。 創世記第2章7節に、主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。とあります。この吹き込まれた神様の息こそ「霊」です。復活され人々の前に姿を現されたイエス様は地上を去られ前に、彼らに息を吹きかけられ「聖霊を受けなさい」と言われました(ヨハネ20:22)。神様は霊と体を持つ存在として私たちを創って下さいました。イエス様は、罪にとらわれた私たちの霊を解放されただけでなく、聖霊を与え、私たちの霊が聖霊と結びついて神様の権威を持つ者として下さったのです。そこで、クリスチャンの「内なる人」は日々新しくされ、主と同じ姿に変えられてゆくのです。クリスチャンの「内なる人」は、目に見える物事に左右されず、ただ聖霊に従っているので、肉の目には見えないものを見ることができます。物事の本質を正しくつかむことが出来ると言い換えてもいいでしょう。私たちは目に見える物質、例えば財産、食べ物よりも、目に見えないもの、例えば友情、名誉、愛情の方が尊く、簡単には無くならないことを知っています。しかし目に見えないものでも消え去るものがほとんどです。パウロが目を注ぎなさいと言っているのは、目に見えないものの中でも、永遠に存続するもののことなのです。それは何でしょうか?それは、神様が与えて下さる三つのものです。パウロはコリントの信徒への第一の手紙13:13 で「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」と教えています。私たちの外側がどんな状態であっても、私たちの「内なる人」は信仰と希望と愛で歩めるのです。それではこの三つを5章から見てゆきましょう

 

B. 見えないものに目を注ごう

1) 希望(5:1-4)

わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。(1) わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています。(2) それを脱いでも、わたしたちは裸のままではおりません。(3) この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです。(4)

順番が変わりますが、このテキストから希望について考えてみましょう。18節でパウロが言っている「目を注ぐ」とは、それに注目し自分の生き方の基礎とするということです。ここでいう希望とは目先の希望とか10年後の希望ではなく、この地上での歩みを終えるときの希望です。それは目に見える世界での人生の歩みがどのようであろうとも、私たちに備えられているその先の希望です。それがどのようなものであるか具体的なことは知らされてはいませんが、テントとビルディングの違いに例えられているほどの違いがあります。テントは旅の仮住まいです。建物は永遠の住まいです。 この世では様々な状況の変化に一喜一憂する私たちですが、それを乗り切ったあとの永遠の住まいが用意されているのです。パウロが言いたかったのは、死後の住まいを楽しみに、この世での苦労を我慢しなさいということではありません。それは、地上の住まいを脱ぎ捨てたいのではなく、地上のすみかの上に、天のすみかを着たいというちょっと不思議な表現から分かります。それは地上での肉体を持つという弱さを持った存在のままで、永遠のすみかの約束を確信して、この世の歩みを喜んで生きよう、という勧めです。

 

2) 信仰(5:5-7)

わたしたちを、このようになるのにふさわしい者としてくださったのは、神です。神は、その保証として“霊”を与えてくださったのです。(5) それで、わたしたちはいつも心強いのですが、体を住みかとしているかぎり、主から離れていることも知っています。(6) 目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。(7)

私たちの外なる人がどれほど神様からかけ離れているかを、私たちは良く知っています。しかし、そうであっても「私は主とともに歩んでいます」というべきです。私たちは、ときには遠くはなれているかのように感じられる神様に信仰によってつながっています。ヘブル書の11章1節によれば「望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認すること」です。聖霊は、私たちの心に働きかけ、永遠の希望、救いの事実を明らかなものとして私たちに思い起こさせて下さいます。だから私たちは、目に見えるものに頼らずに、イエス様を信頼して歩み続けることが出来るのです。

 

3) 愛(5:8-10)

わたしたちは、心強い。そして、体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます。(8) だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。(9) なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。(10)

目には見えなくても永遠に続くもの。その中でも最も大いなるものとパウロが紹介した「愛」こそ、私たちの生き方の根本です。愛に生きるなら、御自身が犠牲となり、十字架の上で最高の愛を示されたイエス様に喜んでいただけます。愛して下さっているイエス様にふさわしく、愛する人になりたいというのが私たちの願いです。裁きの座の前で「失敗もしました。あなたの目から見れば十分でもありませんでした。けれども愛することをあきらめませんでした」と言えるように歩み続けましょう。あなたが神の国の市民としてふさわしい者だということは、神様が認めていて下さったことであり、聖霊が実際に助けて下さるので、そのように歩むことが出来るのです。

 

メッセージのポイント
私たちが目に見える物事だけを見ているなら、お金の心配、健康の心配など思い煩いはいくらでも繰り返しやってきます。しかし私たちはイエス様に「目に見えないものに目を注ぐ」生き方を教えられました。目に見えるものは確かなようで実ははかないものです。時が立てば壊れたり無くなったり使えなくなったりするのです。ですから、私たちはもっと尊い目に見えない物事に目を注いで生きてゆきます。目に見えないけれど永遠に続く「信仰」「希望」「愛」に生きるのです。そのようなわけで地上では不自由なテント生活をしている旅人のようであっても、帰る家が天に備えられていることを思い、主に喜ばれる者として歩んでゆきましょう。

話し合いのためのヒント
1) ここでいわれている見えないものとは何ですか?
2) 信仰によって歩むとは?