January 17th,2010-23rd, 2010 Vol.17 No.3

信頼される教会となる (II)

有益な悲しみを通して信頼を得る (2コリント 7:8-16, マタイによる福音書16:21-23箴言 13:24,23:13,14)

 

1) 神様の意思にかなった悲しみは益となる (8-10)

あの手紙によってあなたがたを悲しませたとしても、わたしは後悔しません。確かに、あの手紙が一時にもせよ、あなたがたを悲しませたことは知っています。たとえ後悔したとしても、(8) 今は喜んでいます。あなたがたがただ悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めたからです。あなたがたが悲しんだのは神の御心に適ったことなので、わたしたちからは何の害も受けずに済みました。(9) 神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします。(10)

 パウロは聖書に入れられている二つの手紙以外にも、二通の手紙をコリントの教会に送っています。ひとつは第一の手紙の前に書かれた(コリント I 5:9)もので、もうひとつがここで言及されている「涙の手紙」(コリント II 2:4)と呼ばれている第一の手紙と第二の手紙の間に書かれたものです。この手紙は書いたパウロにとっても、読み手のコリントの教会にとっても辛く悲しいものでした。しかしこの手紙がなければコリントの教会はさらに堕落して、崩壊していたかもしれません。涙ながらに厳しく悔い改めを求める手紙だったのです。  悲しいこと、心が痛むことを避けて通りたいのは誰でも同じです。しかしそこを通らなければ成長できない、健康になれないということもあるのです。ユアチャーチのリーダーの一人が心臓の問題で今入院しています。強い痛みがあったので、医師に見てもらい、血管が詰まっていることがわかったのですぐに処置することができました。身体の痛みは、安静や治療を促すアラームでもあるわけです。それは神様との関係でも人間関係でも同じです。パウロには葛藤がありました。子供に適切な治療が必要だと知りつつも、痛さに泣き叫ぶ子供を親は不憫に思います。だからパウロは悩みと憂いに満ちた心で涙ながらに手紙を書いたのです。  イエス様もまた、時に弟子たちに厳しい言葉をかけています。

このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。 すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」 イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」(マタイ16:21-23)

この時ペトロは、まさか自分がイエス様の邪魔をしているとは思ってもいませんでした。ただ大好きなイエス様がそんなひどい目に会うことが耐えられなかったのです。イエス様も、恐ろしい話を懸命に否定しようとしているペトロを非難して、こう言われたわけではありません。むしろペトロを信頼し、未来の教会を彼に委ねようとしておられたからこそこう言わなければならなかったのです。ペトロは、このイエス様が受け入れようとしている恐ろしい事実こそ福音の原点であることをはっきりと知らなければなりませんでした。それを否定するのは、自然な感情ではあっても「神のことを思わず、人の事を思っている」イエス様を「邪魔する者」の態度なのです。  私たちは情に流されるという傾向を持っているのです。時には叱らなければならない立場にある人でも、厳しい人、意地悪な人と思われるよりは、優しい人、物分りのいい人と思われたいので、できれば叱らずに済ませてしまおうとするのです。しかしそれは情であっても愛ではないことを聖書は教えてくれます、箴言は数カ所で親が子に鞭を当てる責任に言及しています。

鞭を控えるものは自分の子を憎む者。子を愛する人は熱心に諭しを与える。(箴言13:24)若者を諭すのを控えてはならない。鞭打っても、死ぬことはない。 鞭打てば、彼の魂を陰府から救うことになる。(箴言23:13,14)

諭すことを怠り、叱られることに慣れていないのは教会だけではなく社会全体の風潮かもしれませんが、特に私たちは、そこを譲っては、「神のことを思わず、人の事を思っている、イエス様を邪魔する者」になってしまう事に関して、厳しい戒め、真剣な悔い改めがなければ、教会が教会でなくなってしまうことを知らなければなりません。もちろん普段からの交わりで形作られた愛の関係がそこにあるということが前提です。それがなければ効果がないばかりか教会の分裂を生むことになってしまいます。親子関係でも同じです。 感情にまかせて叩くのは親の負けです。それは暴力であって愛の鞭ではありません。冷静でないなら、その時は鞭を振るう時ではありません。そこに愛があり、そうすることが神様の意志だという確信があるなら、冷静に理路整然と、こういうわけだから気がすすまないけれどもあなたを鞭で打たなければなりません、ということができるのです。このことも、先週お話した交わりの大切さの理由です。ミニチャーチは私たちを叱り上手、叱られ上手にも育ててくれます

 

2) 有益な悲しみのもたらすもの (11-16)

神の御心に適ったこの悲しみが、あなたがたにどれほどの熱心、弁明、憤り、恐れ、あこがれ、熱意、懲らしめをもたらしたことでしょう。例の事件に関しては、あなたがたは自分がすべての点で潔白であることを証明しました。(11) ですから、あなたがたに手紙を送ったのは、不義を行った者のためでも、その被害者のためでもなく、わたしたちに対するあなたがたの熱心を、神の御前であなたがたに明らかにするためでした。(12) こういうわけでわたしたちは慰められたのです。この慰めに加えて、テトスの喜ぶさまを見て、わたしたちはいっそう喜びました。彼の心があなたがた一同のお陰で元気づけられたからです。(13) わたしはあなたがたのことをテトスに少し誇りましたが、そのことで恥をかかずに済みました。それどころか、わたしたちはあなたがたにすべて真実を語ったように、テトスの前で誇ったことも真実となったのです。(14) テトスは、あなたがた一同が従順で、どんなに恐れおののいて歓迎してくれたかを思い起こして、ますますあなたがたに心を寄せています。(15) わたしは、すべての点であなたがたを信頼できることを喜んでいます。(16)

私たちが、御心に適った悲しみを避けずに、深く悲しみ、痛むことを通して、神様からも人からも信頼を得る事ができるようになります。そこには、信頼と共に正義が守られ喜びがあふれるのです。キリストの体であると同時に罪人の集まりでもある教会ですから、失敗や試行錯誤をすることは不思議ではありません。それを認めないなら、実態と離れた「聖なる教会」を演じなければなりません。しかし先々週お話したように「清い」と「聖い」は違います。この世界に生きている限り清くなることはできません。しかし主の体に連なって生きるなら、あなたは「聖い」のです。 問題を起こさないことが重要なのではなく、間違った時にどのような態度を取るのかが重要なのです。非難され、諌められたときに、それを愛の鞭と受け取るのか?迷惑な攻撃と受け取るのかでその先の道は全く変わってしまいます。 教会の交わりは愛することを学ぶ教室ですが、それは甘く優しいだけのことではありません。愛の鞭を与えたり、受けたりするレッスンでもあるのです。ここで私たちは世界を愛する者に成長します。私たちは、世の光として社会に遣わされている教会ですが、それは心を踊らせる希望の光であるだけではなく、ある時には不正義を暴く厳しい光であることも求められているのです。

 

メッセージのポイント
多くの権威が、そこにいる人々の不誠実な行いによって揺らいでいます。私たちにとっては、自分が不誠実であるなら神様の権威が揺らぐのです。ですからパウロはコリントの教会に大変厳しい手紙を送ったのです。それが本当のことであっても、叱られたくない、問題を指摘されたくないという思いが誰にでもあります。この思いは、問題を直視して解決することを妨げる、サタンに打ち込まれた楔のようなものです。コリントの教会の人々はパウロの手紙を読んで反発したり、打ちのめされたり、悲しんだりしましたが、それでも受け入れ、反省し、改善して教会が失いかけていた信頼を取り戻すことができました。

話し合いのヒント
1) 有益な悲しみとはどのようなものですか?
2) 神様のみ心の適った悲しみがコリントの人々に何をもたらしましたか?