May 1st, - 7th, 2010 Vol.17 No.18

キリストの僕(しもべ)として生きる  ガラテヤの信徒への手紙1:6-10

A. キリストの僕の嘆き

1) 他の福音に乗り換えてしまう人々 (6)

キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。

これはガラテヤ教会が出来て5年以内に起きた出来事です。パウロが呆れ果ててしまうのも無理ありません。しかし、彼らに同情できる点もあるのです。彼らには現代の教会が持っている、信仰を正しく保つために欠かすことできない物を持っていませんでした。新約聖書です。彼らが知っていたのは福音書の原型となる言い伝えだけで、今取り上げられているパウロの手紙も聖書として読んだのではなく、最新の手紙として読んでいるわけです。もちろん他の教会に宛てられた手紙は知らなかったでしょうし、例えばローマの信徒への手紙は書かれてもいませんでした。彼らに比べれば、私たちはとても恵まれています。完成した聖書を持っているので、信仰の基準がはっきり知られています。聖書は神様の言です。でもそれは、突然降ってきたようなものではなく、神様の意思に従おうと、この地上での歩みを懸命に歩いたモーセや預言者、イエス様とイエス様に従った人々に神様の霊が臨んで言になったものです。手紙の部分は、一見人間臭い、当時の生々しい教会で実際に起きた問題が取り上げられていますが、わたしたちはそこから学ぶことによって、今を生きる私たちの日常生活の問題をよく考えることができます。現代のキリストの僕の務めは、自らも先人の血と汗と涙を通して神様に与えられた聖書の教えに忠実に生き、福音を伝え、そこから離れてしまわないように教えることです。

2) 人々をそそのかして福音を覆そうとする者 (7)

ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく、ある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音を覆そうとしているにすぎないのです。

パウロは、他の福音という言い方が誤解されないように、「神様からの良い知らせはたった一つしかありません。そこから離れるということは、神様からはなれることです。」と言い直しています。人々が福音から離れるのは、本人の信仰の問題でもありますが、それを働きかける力も存在します。ここでは、異邦人クリスチャンも律法を守るべきだと考え、それを教えようとガラテヤで活動してユダヤ人クリスチャンです。今では、ユダヤの律法をそのまま守るべきだという教えを持ち込む者はいませんが、別の他の福音は、絶えず教会に持ち込まれようとしています。 お隣の韓国には1200万人位のクリスチャンがいるそうですが、最近では、このクリスチャン人口の1/4に当たる300万人のキリスト教系カルトも存在するのだそうです。彼らは教会に秘かに入り込み、熱心に仕えるふりをして発言力をつけて、教会を乗っ取るという方法で増えてきました。日本でも少ないですが、例は見られます。油断するわけにはいきません。私たちはいただいている聖書の教えに従って、福音のようで福音ではないものは教会の中に入り込まないように気をつけることも私たちの務めです。

B. キリストの僕は福音に関して妥協しない

1) 相手がどんなに評判がよく、地位が高くても (8,9)

しかし、たとえわたしたち自身であれ、天使であれ、わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい。 わたしたちが前にも言っておいたように、今また、わたしは繰り返して言います。あなたがたが受けたものに反する福音を告げ知らせる者がいれば、呪われるがよい。

起こっている出来事は大変深刻なものであることが、呪われるがよい、と二度も繰り返していることから分かります。「キリストの福音に反することを教える人は神様の怒りに触れて滅び去るから、そのような人々の言うことに耳を傾けてはいけない」と言う強い警告です。最初にお話ししたように、ガラテヤの教会は、パウロにその多くの部分を負っている新約聖書を持っていない教会でした。パウロが創設者といっても、パウロの使徒としての権威は確立していませんでした。そこに入り込んできたのは、自分たちが、パウロよりもエルサレムで活動していた中心的な使徒たちに近い者だと考える人々です。教会の混乱を経験したガラテヤの人々には、彼らの教えが立派に見えたのでしょう。以前ユダヤ教を信じていた人が一流クリスチャン、異邦人は二流クリスチャンという、誤った劣等感もありました。それも彼らの判断を誤らせた原因の一つです。日本の教会には、よりキリスト教の盛んなアメリカやヨーロッパ、韓国のキリスト教に対する似たような意識が見られます。私は、様々な国からやってくる宣教師、伝道者に会ってきました。私が一番尊敬しているのは純粋に福音を伝えたいという以外に何の動機も持たず、大人になってからの生涯のほとんどを日本での宣教に費やし、結婚することもせず、最後はお隣の相模原市で生涯を終えたスウェーデン人の女性の宣教師です。しかし、来るべきではなかった人も多いのです。そのような人々は、その人間的な熱心からある程度成功すると、様々な誘惑に負けてスキャンダルを起こし、逮捕されたり、国に逃げ帰ったりと、イエス様の評判に泥を塗る事だけをしにきたようなものです。パウロが言った通りに呪われた存在となってしまった人々です。このような事件に、評判の良い普通の教会までもが巻き込まれます。霊を正しく見分ける事が出来ていないからです。私たちもそうなってしまわないように、聖霊の助けを受けて歩み続けましょう。

2) 人に気に入られなくても (10)

こんなことを言って、今わたしは人に取り入ろうとしているのでしょうか。それとも、神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、何とかして人の気に入ろうとあくせくしているのでしょうか。もし、今なお人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではありません。

耳ざわりの良い新しい教えに無警戒に飛びつかないようにという、パウロのテモテに対する教え(テモテII 4:1-5)は私たちにも有効です。イエス様御自身も、預言者イザヤの言葉を引用して 『この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。 人間の戒めを教えとして教え、むなしくわたしをあがめている。』(マタイ15:8,9) と言われたように神様の戒めといいながら、聖書の言葉を用いながら、そうではないものを教える者は旧約の時代から存在したのです。多くの人は、自分を捨て自分の十字架を負って、主イエスキリストに従う人生、愛するために犠牲を惜しまない歩みについてより、どうしたらもっと祝福されるか、繁栄するためにはどんな祈りをするべきか?を学びたいのです。ユアチャーチでは、恵まれる方法は学べません。私たちが学ぶのは従うこと、愛することだけです。信仰は自己実現の道具ではありません。私たちが神の国の実現のための道具なのです。

メッセージのポイント
パウロはイエス様を伝えるためなら、自分のあり方にこだわらず相手のようになってアプローチしましたが、彼が絶対妥協しないことがありました。それは、十字架につけられよみがえったイエスを主と信じる信仰だけが人に救いをもたらすという真実についてです。このパウロが命がけで伝え続けた信仰を、いとも容易く捨ててしまう人々。キリストの使徒と自称しながらキリスト教風律法主義を福音の代わりに人々に伝えようとしていた者たちが教会の歴史の始めから、今にいたるまで幅をきかせています。それが起こっているのは、一般にも知られている、エホバの証人やモルモン教だけではありません。伝統的といわれる教派の中にも、混じりけのない福音だけが宣べ伝えられているわけではないのです。しかし十字架と復活の福音だけは時代がどんなであっても、有力な人が反対しても、人々の受けが悪くても決して妥協することはできません。支え合い、助けあってキリストの僕として歩み続けましょう。

話し合いのヒント
1) 福音を乗り換えるとか、覆すとか、それはどのようなことを指すのでしょうか?
2) キリストの僕(しもべ)とはどのような人の事ですか?