August 1st, 2010 Vol.17 No.31

愛すること、仕えること ガラテヤの信徒への手紙5章2-15

A. イエス様とともに歩むために

1) 律法か?信仰か?選べるのは一つだけ (2-4)

2 ここで、わたしパウロはあなたがたに断言します。もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります。 3 割礼を受ける人すべてに、もう一度はっきり言います。そういう人は律法全体を行う義務があるのです。 4 律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います。

パウロはとても熱心なユダヤ教徒で、誕生したばかりのキリスト教を迫害する人でした。ところがイエス様に出会って、彼の価値観はすっかり変わってしまいました。以前の彼は、律法と呼ばれる宗教的な戒めを守ることによって正しく生きる事ができると信じていました。律法は元々神様に与えられた、人間としての守るべき本質的なものでしたが、やがて形式的で表面的なものと変質してゆきました。イエス様は、戒律を守ることではなく神様に信頼をおくことが、正しく生きるという事だと教えてくださったのです。自分の力で正しく生きられると思うことこそ、思い上がりであり神様を恐れない態度だと警告されました。それは神様の意思を知ろうとせず、目に見える宗教的な行いをしていることで、自分を誇り、人を裁く態度です。神様を敬っていると言いながら、自分が神様のように振舞うひどい態度です。それはイエス様とは程遠い態度であって、神様の恵みを受けることはできない生き方です。  それでは、21世紀に生きるユダヤ人ではない私たちにとってこの警告はどのような意味があるのでしょうか?この部分は私たちに、神様を信頼せずに、自分に頼ることの危険を警告しています。私たちの生活の営みの様々な場面で「神様を信頼するよりわたしを信頼しなさい」と親しげにささやく声を聞きます。職業の選択、結婚、育児について、神様の思いを十分に聞こうとする前から、手っ取り早く、役に立ちそうな、自分の好みにあった指導者、マニュアル、カウンセラー、権威者、本、友人の声です。私たちは皆、神様の命じられたたった一つの簡単な命令を、蛇の声に耳を貸して破ったカップルの子孫です。聞こえてくる様々な声に耳をふさぐことはできません。しかし、正しい判断ができるように、神さまの声を聴き続けようとすることはできます。聴き続けようとすることは意識し続けていれば、気付かないうちに神様から遠ざかってしまうことはありません。ある人は、大きな代償を払うことが避けられなくなって初めて、神様を信頼し、間違った声に耳を貸さなければよかったと、後悔することになります。そうなる前に、イエスキリストにしっかりとつながりましょう

 

2) 愛の実践を伴う信仰 (5,6)

5 わたしたちは、義とされた者の希望が実現することを、“霊”により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです。 6 キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。

神様を信頼して生きるという事は、実践は必要ないということではありません。神様を信頼し神様の愛を喜んでいるならそこには自然と人々に対する愛の行為が現れてくるのです。宗教的な戒律を守ることは、愛することとは関係ないことです。それが神様を愛することだという人もいますが、神様ご自身はそんなことをされても喜ばれません。神様が本当に喜ばれるのは、律法の規定に合格した傷のない動物のいけにえではありません。私たちが心から献げる賛美、互いに仕え合う愛、社会のために自分の生涯をささげること。それらこそが神様を愛する行為なのです。

 

B. 愛によって互いに仕えなさい

1) 教会に律法主義を持ち込む者 (7-12)

7 あなたがたは、よく走っていました。それなのに、いったいだれが邪魔をして真理に従わないようにさせたのですか。 8 このような誘いは、あなたがたを召し出しておられる方からのものではありません。 9 わずかなパン種が練り粉全体を膨らませるのです。 10 あなたがたが決して別な考えを持つことはないと、わたしは主をよりどころとしてあなたがたを信頼しています。あなたがたを惑わす者は、だれであろうと、裁きを受けます。 11 兄弟たち、このわたしが、今なお割礼を宣べ伝えているとするならば、今なお迫害を受けているのは、なぜですか。そのようなことを宣べ伝えれば、十字架のつまずきもなくなっていたことでしょう。 12 あなたがたをかき乱す者たちは、いっそのこと自ら去勢してしまえばよい。

現代の教会で割礼をするべきだと言い出す人はいませんが、クリスチャンならこうすべきだ、こうすべきではないといった言葉を聞くことは今でも珍しくありません。敬虔そうな行いではなく、互いに対する愛が教会の印です。献金の額、礼拝や集会への参加の多寡、引き受けている奉仕の数ではありません。かつては酒を呑むこと、煙草を吸うことが「罪」と考える教会も多かったのです。しかしそれらは捨て去らなければ神さまの前に立てないような「罪」ではありません。健康の問題として考えなければいけません。行いがクリスチャンの在り方の判断に用いられるようになれば十字架は無意味なものになってしまいます。

 

2) 「自由」の使い方 (13-15)

13 兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。 14 律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。 15 だが、互いにかみ合い、共食いしているのなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい。

私たちはキリストに出会い、もう何の奴隷でもない自由な者となりました。自由だからこそ互いに仕え合うことができるのです。私たちは、奴隷のように強制されてではなく、自由な者として、自分でそうしたくて仕え合う、愛し合います。ある人はそれでは神様の奴隷だというかもしれません。神様は私たちを作ってくださった方です。不当に私たちを縛り付ける奴隷の主人ではないのです。 ただし、自由は簡単ではありません。長い間、様々なものの奴隷であった私たちは、自由に振舞うことになれていません。だから素晴らしい自由も肉に罪を犯させる機会となります。ここに人間が歪めてしまう前の神様が与えられた律法の出発点が記されています。それは人々を自分のように愛しなさいということです。私たちの自由は愛し合うためにあるのです。自分の欲望を満足させるためではありません。神様はあなたを奴隷としてではなく、子として見ておられますから、あなたがそうしても、無理に止めたりはなさいません。しかしあなたはそうした途端に欲望の奴隷に、罪の奴隷に再び転落してしまいます。そうならないように、互いに愛によって仕え合いましょう。

 

メッセージのポイント
律法によって正しい者と認められようとするのか?恵みによって正しいものと認められているのか?私たちはイエス様の十字架の犠牲によってすでに正しいもの、子として認められているのにもかかわらず、自分の行いによって正しいものと認められたいという誘惑にいつもさらされています。神様の基準で正しいものとされている自分に自信がないのは、人の基準が気になるからです。しかしそれでは、神さまを信頼していることにはなりません。私たちが「イエス・キリストを信じています」と言うとき、それが「私の宗教的アイデンティティーはキリスト教です」という意味なら、それは生きる力にはなりません。そうではなく、イエス様を信頼していますと言えるように、ただイエス様を見上げて、自信を持って歩んでゆきましょう

話し合いのヒント
1) あなたの信仰には愛の実践が伴っていますか?
2) ここで言われている「自由」とは?