September 19th, 2010 Vol.18 No.38 <喜び生きる人となる 3/8 >

仕える人は喜ぶ フィリピの信徒への手紙 2:1-18

A. 互いに仕え合う<交わり>

1) 神様が喜んでくださる交わり (1,2)

そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。(1,2)

教会にはあって、それ以外のコミュニティーには無いものがここに紹介されています。キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わりです。逆に言えばそれらがないなら、教会の交わりではありません。神様からの励まし、神様の愛に基づく慰め、聖霊の臨在こそが、クリスチャンの人間関係の基盤です。これらが確かであってこそ、慈しみや、憐れみの心は状況に左右されない本物になるのです。この基盤の上に一致しなさい、とパウロは勧めています。この一致が大きな喜び産みます。この喜びは私たちの心に満たされるだけではありません。この喜びはやがて皆さんの周りにいるまだ主を信じていない人にももたらされるのです。一致は掛け声だけでは実現しません。一致は互いに仕え合うことによってもたらされるものなのです。

 

2) 人々のことを心にかけること (3-5)

何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。 互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。(3-5)

どんなに立派に見える行動も、神様はその動機をご存知です。利己心や虚栄心は私たちのうちに住む扱いにくい厄介者ですが、おとなしくさせる方法があります。それもまた、最初に紹介した、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わりなのです。イエス・キリストに仕えることの原点は、この後お話する礼拝ですが、その次に重要なのは互いに仕え合うことです。なぜなら、互いはキリストの体の一部、互いに仕え合うことはキリストに仕えることに他ならないからです。奇妙なことは、多くのクリスチャンにとって、礼拝することよりも、互いに仕え合うことよりも、実際の何かの仕事、教会内外での働きなど何かをすることの方が、主に仕えているという実感があるようです。しかし、目に見える成果を生み出す働きは、利己心や、虚栄心をも元気にさせてしまう危険を持っています。私たちに期待されていることは、何かをすることである以上に、互いに関心を持ち、気遣い、心にかけることです。

 

B. 主に仕える<礼拝>

1) 礼拝と賛美にふさわしい方 (6-11)

キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。 このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。 こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。(6-11)

キリスト教の神とはどのような方なのですか?と尋ねられたらあなたはどう答えますか?ここに簡潔な答えがあります。「すべてを創られた方であり、イエスというひとりの人としてこの世界に来られ十字架の死によって、私たちが、ご自身の似姿として創られた本来のあり方を取り戻してくださった方です。今その体を見ることはできませんが、神様の霊、聖霊として、今も、信じる者を導いてくださいます。」と答えることができます。私たちはこの方にしっかりとつながり、導いていただくために、あらゆることに優先して、この方を礼拝するのです。先にも触れましたが、仕えるというと、つい奉仕をするとか、出ていって宣べ伝えるとか、働くことを考えがちですが、原点は礼拝です。仕えることが喜びを生むと言っても、礼拝をおろそかにしているなら、どのような“キリスト教的”働きからも喜びは生まれません。礼拝を大切にして喜びを確かなものにしましょう。

 

2) 神様に対する従順 (12-18)

だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。 あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。 何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。 そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう。こうしてわたしは、自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう。 更に、信仰に基づいてあなたがたがいけにえを献げ、礼拝を行う際に、たとえわたしの血が注がれるとしても、わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。 同様に、あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい。(12-18)

従順な心がなければ、本当に仕えていることにはなりません。そこには喜びもありません。もちろん神様に対する従順について述べているのです。明日、二人の方が洗礼を受けます。それは、神様に従順な者となる決心でもあります。神様に仕える人生を歩もう、という決心とも言えます。私たちの置かれている社会では、多くの人は「神様に対して従順に生きる」という考え方を持っていません。そうではなく自分の願いに従順であることを理想としているのです。それが明らかに反社会的な考えや、犯罪的な考えではなくても、人から賞賛されるような良い事を追求する生涯であっても、神様に従順であったとは限りません。イエス様を伝えるということでさえ、先週のテキストにあったように、虚栄心や妬み、争い、自分の利益のためにすることもできるのです。しかし私たちはそうではなく、従順な心で神様の働きに加えられていたいのです。これは目に見える組織に対する従順ということではありません。牧師に対する従順でもありません。教会は神聖なキリストの体ですが、地上に置かれている限り、罪人の集まりという側面から逃れることはできません。ですから教会では相手が誰であれ自由に議論することができます。虚栄心や妬み、争い、自分の利益のためそうするなら主の体を傷つけることになってしまいますが、神様に対する従順からそうするなら、それは教会を建て上げる喜びにつながるのです。

 

メッセージのポイント
クリスチャンが喜びつつ歩めるのは仕える人であるからです。私たちが互いに仕え合い、互いに注意をむけあい、支えられていること、支えていることによって喜びは枯れることがないのです。私たちはいわば喜びを運ぶもの、喜びの源泉は神様です。この尽きない喜びを運び続けるためには、絶えず源泉に足を運ばなければなりません。私たちは礼拝という泉に集い、喜びで満たされます。しかし喜びを汲み上げ誰かに届けるときに、その喜びはもっと大きなものになるのです。

 

話し合いのためのヒント
1) 互いに仕え合うことは実際にはどのような形で表されますか?
2) 主に仕えることの原点はどこにありますか?