September 26th, 2010 Vol.18 No.39

真の礼拝 ローマ12:1; ヨハネ4:20-21; 詩編51:17-19; イザヤ1:11-17

犠牲を払わない礼拝はない - 神様が喜ばれる犠牲とは

こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。 (ローマ12:1)

礼拝は誰のためにあるのでしょうか?あなたが恵まれるためでしょうか?日曜日の朝の礼拝なら、一週間を生き抜く力を得るためにあるのでしょうか?確かに礼拝では豊かに恵みを受け、慰められ、励まされ、力を得ることができます。しかし礼拝は第一に、神様に捧げることであることを忘れてはいけません。イエス様を知らなかった旧約の民は、動物の犠牲を捧げて神様を礼拝しました。今私たちは動物を携えて来なさいとは命じられていません。そうではなく自分自身を捧げものとして持ってきなさいと言われているのです。それは、「わたしの歩みは神様に献げられたものです。今週もどうぞ用いてください。」ということを神様に告げることが私たちの礼拝だということです。

 

場所や形式にとらわれてはいけない - 歌うこと、捧げること、祈ること、聞くこと、いただくこと

女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。 わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」 イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。 あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。 しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。 神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」 (ヨハネ4:20-24)

ユダヤ人はエルサレムという場所にとらわれていました。また細かい規定や作法、形式を守らなければなりませんでした。それに対してイエスさまはどうおっしゃったのでしょうか?「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。 神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」 神様は形式を求めておられるのではないということです。大切なのは私たちの心です。最初の項でお話ししたように、今求められている正しい犠牲、すなわち自分自身を捧げものとして携え、どうか私を豊かに用いてくださいと、進みでて跪くような心からの礼拝であることが大切なのです。私たちが心からの礼拝を捧げるとき、神様もそこで私たちに豊かに応えてくださいます。そこで私たちは<結果として>恵まれ、慰められ、励まされ、癒され、力づけられるのです。いろいろな教会でいろいろな形式の礼拝が捧げられています。形式は問題ではありません。自身は神様に献げられたものだと自覚している者が中心となって、全身全霊で献げられているかどうかが問題なのです。

 

賛美の伴わない礼拝はない - なぜユアチャーチではこのような歌を歌うのか?

主よ、わたしの唇を開いてくださいこの口はあなたの賛美を歌います。 もしいけにえがあなたに喜ばれ焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのならわたしはそれをささげます。 しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を神よ、あなたは侮られません。(詩編51:17-19)

自分自身を捧げものとして携えてくるとは、単に象徴的なことではありません。様々なことのうちの何よりも神様を礼拝が大切だという心が、週の始めを礼拝で始めるという行為に表わされるのです。週日も一日を礼拝で始め、あるいは礼拝で終えるということでも表わされます。私が、何があっても必ず日曜礼拝を守りましょうと言わないのは、礼拝が大切でないと考えているからではありません。正反対です。大切であるからこそ、強制されてではなく、喜びを持って自発的に来てほしいからなのです。日曜日に、誰かに仕えるためにここに来られなくても、どこでもあなたが礼拝を捧げることができます。  ところで私たちは礼拝の中で多くの歌を歌います。時にはひとつの歌をなんども繰り返して歌います。これは私たちの捧げ物の一つです。ヘブライ人への手紙13章15節には「だから、イエスを通して賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえる唇の実を、絶えず神に献げましょう。」 と記されています。全身全霊を注いで礼拝を捧げるということは、全身全霊を注いで歌うということでもあるのです。

 

日常生活の出発点・到着点 - 逃げ込むところ、出てゆくところ

お前たちのささげる多くのいけにえがわたしにとって何になろうか、と主は言われる。雄羊や肥えた獣の脂肪の献げ物にわたしは飽いた。雄牛、小羊、雄山羊の血をわたしは喜ばない。 こうしてわたしの顔を仰ぎ見に来るが誰がお前たちにこれらのものを求めたかわたしの庭を踏み荒らす者よ。 むなしい献げ物を再び持って来るな。香の煙はわたしの忌み嫌うもの。新月祭、安息日、祝祭など災いを伴う集いにわたしは耐ええない。 お前たちの新月祭や、定められた日の祭りをわたしは憎んでやまない。それはわたしにとって、重荷でしかない。それを担うのに疲れ果てた。 お前たちが手を広げて祈っても、わたしは目を覆う。どれほど祈りを繰り返しても、決して聞かない。お前たちの血にまみれた手を洗って、清くせよ。悪い行いをわたしの目の前から取り除け。悪を行うことをやめ善を行うことを学び裁きをどこまでも実行して搾取する者を懲らし、孤児の権利を守りやもめの訴えを弁護せよ。 (イザヤ1:11-17)

私たちが共に捧げる日曜の朝の礼拝は、一週間の出発点であり到着点でもあります。私たちの捧げる礼拝が神様に受け入れられるかどうかは、私たちの心と、私たちの日常の歩みにかかっていることがこのテキストで分かります。私たちの日常が神様から遠く離れたものならば、どんなに厳かな、宗教的に意味深そうな儀式を行っても、立派なお祈りをしても、神様は目を覆い、耳をふさいで聞いてくださらないというのです。週日と日曜日が乖離していてはいけません。真の礼拝が、神様の意思に従って歩む週日をもたらし、その祝福された日常生活がさらに豊かな礼拝をもたらすのです。といっても、タフな一週間の末にやっとこの場に導かれてくるという経験をすることもあるのです。そのようなときには豊かな礼拝を捧げることはできないのでしょうか? そんなことはありません。日曜礼拝は一人で捧げているわけではないからです。あなたが手を上げるどころか顔さえも上げられなかったとしても、心を引き上げられることが起こります。だから、ひどく神様を悲しませてしまったような週のあとの日曜日でも期待をもって来ることができるのです。

 

メッセージのポイント
クリスチャンが最も大切にするべきことは礼拝です。礼拝はこの「週の初めの朝の礼拝」だけではありません。こういう場所で、こういうやり方でささげなければならないと考えるならそれは律法主義の始まりです。しかしどのような形であれ、それが礼拝であるためには欠かせない性質があります。それは、神様に対して、自分自身をささげる行為であるということです。厳粛な礼拝か気楽で楽しい礼拝か?伝統的か現代的か?讃美歌かワーシップソングか?献金はどうあるべきか?聖餐式はどのように行うべきか?という議論も大切ですが、そこに私たち一人一人が自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして携えてくるのでなければ、虚しい議論になってしまいます。

話し合いのために
1) 礼拝とは何ですか?
2) 礼拝に私たちが携えてくるべき捧げものとは何でしょうか?