November 21st, 2010 Vol.18 No.47 

預言されていたイエス様の誕生 クリスマスシリーズ 2

1) インマヌエル時代がはじまる (イザヤ 7:10-14)

クリスマスについて調べてみると、興味深いことがたくさんわかります。先週のイエス様にいたるまでの系図もそうでした。今週もイエス様が生まれる前の話をします。イエス様の誕生は、その700年以上も前から預言されていたということです。生まれてから2000年以上、毎年その誕生日が祝われる人もイエス様しかいなければ、生まれるずっと前からその誕生が期待されていたのもイエス様だけです。それではその預言を読んでみましょう。

主は更にアハズに向かって言われた。 「主なるあなたの神に、しるしを求めよ。深く陰府の方に、あるいは高く天の方に。」 しかし、アハズは言った。「わたしは求めない。主を試すようなことはしない。」 イザヤは言った。「ダビデの家よ聞け。あなたたちは人間にもどかしい思いをさせるだけでは足りずわたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか。 それゆえ、わたしの主が御自らあなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産みその名をインマヌエルと呼ぶ。(イザヤ7:10-14)

アハズは当時の王様です。この時代イスラエルは南北二つの王国に分裂していました。舞台は南のユダ王国で、エルサレムが中心都市でした。およその年数で話しますが、ダビデの王朝はイエス様の生まれる1000年前に始まり、900年前には分裂します。700年前に相次いで滅ぼされます。時代はその直前でした。神の民が神様を頼らず、周辺諸国との同盟や外交を頼った結果が滅亡という形で表わされようとしています。アハズは諸国の侵略をおそれ悩んでいました。イザヤはこの言葉の前に神様の言葉を取り次いで「落ち着いて静かにしていなさい。恐れることはない」と伝えました。そして神様に求めなさい、神様が信頼できるか試してみなさい、と言っています。アハズは一見信仰深そうに「主を試したりしない」と言っていますが、神様に背いて歩んだ王様で、こんな危機に陥っても、素直に従いたくはないという気持ちがこの言葉なのです。この預言は直接にはアハズに語られたのですが、実は全ての人に語られています。救い主のしるしが、ここで明らかにされたのです。けれどもアハズのように否定するか、それとも呼びかけに応えるかは一人一人にかかっています。それは、アハズのように勝手気ままに、しかし不安に苛まれながら生きるのか?それともインマヌエルという事実を受け入れて、イエス様と共に歩むかの二者択一の決断です。

 

2) インマヌエルと呼ばれる方はどのような方か? (イザヤ 9:2-7, 11:1-10)

イザヤはインマヌエル(神様が共におられる)とよばれる方は一体どのようにして、神様としてのご自身を表わされるのかということも、続く二つの個所で預言しています。

闇の中を歩む民は、大いなる光を見死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。 あなたは深い喜びと大きな楽しみをお与えになり人々は御前に喜び祝った。刈り入れの時を祝うように戦利品を分け合って楽しむように。 彼らの負う軛、肩を打つ杖、虐げる者の鞭をあなたはミディアンの日のように折ってくださった。 地を踏み鳴らした兵士の靴血にまみれた軍服はことごとく火に投げ込まれ、焼き尽くされた。 ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神永遠の父、平和の君」と唱えられる。 ダビデの王座とその王国に権威は増し平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。(イザヤ9:1-6)

驚くべき指導者・助言者、力ある神、永遠の父、平和の君という形容が誰に当てはまるのでしょうか?単なる指導者ではなく、あなたの人生を助言してくださる方、しかも神様?永遠に父のようで、平和をもたらす王子様、このすべての形容が矛盾無く当てはまる方はイエス・キリストの他に存在しません。 さらにイザヤは、その方がダビデの子孫として生まれることを11節で預言しています。エッサイとは、先週イエス様の系図で学んだようにダビデの父です。それで、エッサイの根といえばダビデ家を指すわけです。しかしダビデ家という由緒正しい家系とはいえ、そこに連なるなら、それでは神とはいえない、あの系図に出てくる他のすべての人と同様に、信仰に生きるとはいえ神様には程遠い存在の一人でしかありえないではないか?だから天の神様はイエス様をマリアにあのような方法で身ごもらせたわけです。

エッサイの株からひとつの芽が萌えいでその根からひとつの若枝が育ち その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊思慮と勇気の霊主を知り、畏れ敬う霊。 彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。目に見えるところによって裁きを行わず耳にするところによって弁護することはない。 弱い人のために正当な裁きを行いこの地の貧しい人を公平に弁護する。その口の鞭をもって地を打ち唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。 正義をその腰の帯とし真実をその身に帯びる。 狼は小羊と共に宿り豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち小さい子供がそれらを導く。 牛も熊も共に草をはみその子らは共に伏し獅子も牛もひとしく干し草を食らう。 乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ幼子は蝮の巣に手を入れる。 わたしの聖なる山においては何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように大地は主を知る知識で満たされる。 その日が来ればエッサイの根はすべての民の旗印として立てられ国々はそれを求めて集う。そのとどまるところは栄光に輝く。(イザヤ11:1-10)

生まれてくる人は、神様の霊に満たされ、普通の人とは次元の異なる裁きをし、あらゆる隔ての壁を取り払うだろうと預言されています。最後の部分に、それはイスラエルという一つの民族の平和ではなく、すべての民の平和が実現すると予告されているのです。

 

3) それはいつ?どこで?When? Where? (イザヤ 6:9-13, ミカ 5:1, 2)

エフラタのベツレヘムよお前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのためにイスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。 まことに、主は彼らを捨ておかれる産婦が子を産むときまで。そのとき、彼の兄弟の残りの者はイスラエルの子らのもとに帰って来る。(ミカ5:1,2)

イザヤは6章で、いつになったら新しい時が来るのかと神様に尋ねています。神様はイザヤに答えて、徹底的な破壊、占領、強制移住、焼き尽くされることを経て、切株が残る。その切株とは聖なる種子である」とおっしゃいました。敗戦と荒廃、宗教の堕落と、正義の衰退のはてに時は満ちたのです。11章の最初に何と書いてあったでしょうか?切株とは、聖なる種子とはイエス様にほかなりません。 最後にもう一人ミカという預言者を紹介します。ミカもイザヤと同時代の預言者です。この預言によって、救い主はベツレヘムで生まれるということが知られていたのです。 これらの言葉を聞いて皆さんはどう思いますか?当時の預言者たちも、王も、民も自分の目で救い主を見ることはできませんでした、そこからまた何世代も待ち続けなければならなかったのです。でも私たちは違います。もうイエス・キリストは来られているのです。イマヌエルを味わえるのです。拒むこともできるのです。誰も強制することはできません。けれどもどうかこの神様からの最初で最後のクリスマスプレゼントをあなたも受け取ってください。

 

メッセージのポイント
救い主イエス様の誕生は、その数百年前にすでに預言されていました。それは神様が、背を向け離れさってしまった人類に歩み寄ってきてくださるという待ち遠しい預言でした。今私たちに与えられている時は、人類に与えられた最初で最後の決定的なチャンスです。その人と共におられる神様、和解と平和をもたらす神様、イエス・キリストとして、ご自身を現して下さるまで旧約の民は数百年待たなければなりませんでした。私たちはなんと恵まれた時代に生かされているのでしょうか?しかも、その時代においても背を向けたままの人が多くいる中で、私たちはより早く見出され救われたのです。この恵みに感謝して、この喜びを一人でも多くの人に伝える者として歩みましょう。

話し合いのためのヒント
1) 各預言者にそれぞれ<しるし>として与えられたのはどのようなことでしたか?
2) インマヌエルとはどのような意味ですか?