April 3rd, 2011 Vol.18 No.14

神様に近づく方法 (ヘブライ人への手紙 7:1-19)

A イエス様の予型:メルキゼデク

1) 義と平和をもたらす永遠の祭司(1-4)

このメルキゼデクはサレムの王であり、いと高き神の祭司でしたが、王たちを滅ぼして戻って来たアブラハムを出迎え、そして祝福しました。アブラハムは、メルキゼデクにすべてのものの十分の一を分け与えました。メルキゼデクという名の意味は、まず「義の王」、次に「サレムの王」、つまり「平和の王」です。彼には父もなく、母もなく、系図もなく、また、生涯の初めもなく、命の終わりもなく、神の子に似た者であって、永遠に祭司です。この人がどんなに偉大であったかを考えてみなさい。族長であるアブラハムさえ、最上の戦利品の中から十分の一を献げたのです。(1-4)

 神様に祝福されたアブラハムがメルキゼデクに十分の一を献げたのは、彼を神様と自分を結ぶ仲介者だと理解していたからです。彼は民族の系図の外にあり、その生まれも死も記録されていない謎の人物でした。イエス様が来られて、メルキゼデクが神様によって示されたイエスキリストの予型として存在したことがわかったのです。イエス様を信じることは、旧約聖書に矛盾することではなくむしろ、旧約聖書を正しく受け取るなら、それがイエス様を指し示していることが分かります。  メルキゼデクの名前の意味は重要です。彼が指し示した永遠の義と平和の王イエス・キリストの体の一部である日本のキリスト教は、その人口は少なくても社会に大きな影響を与えてきました。教育や福祉、社会正義、平和の前進のために良い働きをしてきました。それは古い制度や習慣、その背後にある文化伝統の見直すことも意味しています。もちろんそれらを全否定することではありませんが、神様の目に正しくない物事は変えなければなりません。 どこにも純粋な文化、伝統といったものはありません。混ざり合い、分岐して変わってゆくものです。イエス様が望まれるのは文化を入れ替えることではありません。それぞれの文化が聖書の真理を土台として再構築されることです。ですから、違う文化(外国、自分と異なる世代)の人に福音を伝えるとき、ついでに自分の文化を押し付けてはいけません。義と平和は神様の愛によってもたらされます。どのようなものであれ、義も平和も特定の文化によってもたらされるものではありません。

 

2) 受ける十分の一、献げる十分の一 (5-10)

ところで、レビの子らの中で祭司の職を受ける者は、同じアブラハムの子孫であるにもかかわらず、彼らの兄弟である民から十分の一を取るように、律法によって命じられています。それなのに、レビ族の血統以外の者が、アブラハムから十分の一を受け取って、約束を受けている者を祝福したのです。さて、下の者が上の者から祝福を受けるのは、当然なことです。更に、一方では、死ぬはずの人間が十分の一を受けているのですが、他方では、生きている者と証しされている者が、それを受けているのです。そこで、言ってみれば、十分の一を受けるはずのレビですら、アブラハムを通して十分の一を納めたことになります。なぜなら、メルキゼデクがアブラハムを出迎えたとき、レビはまだこの父の腰の中にいたからです。 (5-10)

筆者はこの部分でも、イエス様こそ祭司であり王であるということを分からせようとしています。ユダヤ人にとって、レビ族が祭司として他の部族とは異なり他の民から十分の一の捧げ物によって生活するということは当然のことでした。メルキゼデクは、レビ族誕生前に存在し、アブラハムが民族全体の代表として彼に十分の一の捧物を捧げたのですから、正確に言えばメルキゼデクは、レビ族の血統以外の者ではなく、以前の者です。私達が収入の十分の一を献げる根拠はここにあると思います。ある人は旧約の律法だからクリスチャンには関係ないといいます。しかし律法の体系の外でアブラハムは献げ、メルキゼデクは受けたのです。世界の中で神様の働きを支えるために十分の一は良いスタンダードだと思います。しかしそれは、それ以下だから罰せられる、それ以上だから祝福されるという律法主義的なものではありません。 ユアチャーチは、十分の一の献金を教会のメンバーの責任の一つと信じていますが、誰がどれだけ捧げているかということは、神様以外は誰も知らないようにしています。

 

B イエス・キリストによって神様に近づく

1) 人間からのアプローチ  (11,12)

ところで、もし、レビの系統の祭司制度によって、人が完全な状態に達することができたとすれば、——というのは、民はその祭司制度に基づいて律法を与えられているのですから——いったいどうして、アロンと同じような祭司ではなく、メルキゼデクと同じような別の祭司が立てられる必要があるでしょう。祭司制度に変更があれば、律法にも必ず変更があるはずです。(11,12)

祭司の職がレビ族にまかされていた旧約の時代は、人が正しい行いによって神様に近づくという考えによって支配されていました。それは現代の多くに宗教にも共通するものです。修行や功徳を積むこと、捧げ物、献金が仏や神々に近づく道だと考えられています。しかし人間の側からの試みでは、人は完全な状態に達することはできません。何教でも哲学でも同じです。だから人間の側からのアプローチとしての祭司制ではだめなのです。それでは神様に近づくことはできません。筆者は、だからアロンと同じような祭司ではなく、メルキゼデクと同じような別の祭司が立てられる必要があると伝えるのです。そして、それこそがイエス様であり、十字架でたった一度、ご自身を完全な犠牲として献げられたのだということを教えています。

 

2) 唯一の希望:イエス・キリスト (13-19)

このように言われている方は、だれも祭壇の奉仕に携わったことのない他の部族に属しておられます。というのは、わたしたちの主がユダ族出身であることは明らかですが、この部族についてはモーセは、祭司に関することを何一つ述べていないからです。このことは、メルキゼデクと同じような別の祭司が立てられたことによって、ますます明らかです。この祭司は、肉の掟の律法によらず、朽ちることのない命の力によって立てられたのです。なぜなら、「あなたこそ永遠に、メルキゼデクと同じような祭司である」と証しされているからです。その結果、一方では、以前の掟が、その弱く無益なために廃止されました。——律法が何一つ完全なものにしなかったからです——しかし、他方では、もっと優れた希望がもたらされました。わたしたちは、この希望によって神に近づくのです。(13-19)

ユダヤ人にとって、レビ族出身でない者が祭司というのは考えられないことでした。しかしメルキゼデクを引き合いに出して、イエス様こそ、人間である祭司にはすることのできない、神様と私達の関係を修復してくださる方であることを証しています。17節は詩編110編の引用です。完全な王は完全な祭司でもあるはずなのです。この箇所は、直接にはダビデに向けられた言葉です。しかしユダヤ史上最も優れた王であったダビデも、弱さを多く持った人間であることには変わりありません。ユダヤ人はダビデのようなリーダーをメシアとして待ち望んでいましたが、イエス様はそれ以上の方、完全な王であり完全な祭司となって下さったのです。ここに私達の希望があります。繰り返しますが、義と平和は神様の愛によってもたらされます。一人ひとりの心に、そしてこの世界にもたらされるのです。

メッセージのポイント
レビ族の制度的な祭司職に慣れたユダヤ人にとって、神の子としてのイエス様が実質的に祭司となられたことを理解するためには、創世記に出てくる、いと高き神の祭司メルキゼデクの存在は大きな助けになりました。膨大な律法の体系の中で見落とされがちだった旧約聖書内のいくつかの事実は、イエス様が神、そして大祭司として来られたことの根拠となっています。私たちは、人間の守ってきた制度や慣例を超えて神様の意思が働くことを認めなければなりません。イエス様ご自身が言われた「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハネ14:6)という真理が旧約においても教えられていたのです。またここで「十分の一」が私たちの捧げ物の基準として妥当であることが分かります。

話し合いのためのヒント
1) メルキゼデクとはどのような人物ですか?
2) なぜイエス様のことを伝えるのにメルキゼデクを紹介しているのですか