June 26th, 2011 Vol.18 No.26

ひるんで滅びるものではなく ヘブライ人への手紙 10:26-39

A 初めの確信を保とう

1) 故意に罪を犯し続ける者の行く末 (26-31)

もし、わたしたちが真理の知識を受けた後にも、故意に罪を犯し続けるとすれば、罪のためのいけにえは、もはや残っていません。ただ残っているのは、審判と敵対する者たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れつつ待つことだけです。モーセの律法を破る者は、二、三人の証言に基づいて、情け容赦なく死刑に処せられます。まして、神の子を足げにし、自分が聖なる者とされた契約の血を汚れたものと見なし、その上、恵みの霊を侮辱する者は、どれほど重い刑罰に値すると思いますか。「復讐はわたしのすること、わたしが報復する」と言い、また、「主はその民を裁かれる」と言われた方を、わたしたちは知っています。生ける神の手に落ちるのは、恐ろしいことです。

始めにはっきりしておかなければならないことは、この恐ろしい罰を受けるのにふさわしい人について、私たちが決して外面から判断することはできないということです。それをするなら私たちはまたしても律法主義者の仲間入りをすることになってしまいます。ここに、罪を犯し続ける者がそのような報いを受けると警告されていますが、罪とは何かということについても確認しておいたほうがいいでしょう。罪とは神様に背を向けて生きることです。それは盗み、姦淫といった十戒に書かれているような具体的な行為として見ることもできます。しかし具体的な行為自体が罪そのものではありません。たとえば長い間、自死は大変な罪で教会での葬儀も許されないと考えられてきましたが、故意に犯す罪ではなく病の結果であることも多いことが分かってきました。また、神様は文化を超えた方です。しかし、私たちが罪と呼ぶ違法な行為というのはその文化に規定されています。あるクリスチャンは、飲酒や喫煙を罪とみなしていますが、別の文化的背景の中では、修道院でビールを製造販売することとか、神学校で教授がパイプを片手に講義をすることに何の問題も感じません。誰も自分の文化を神様にも人にも押し付けることはできません。ここで言われているのは、そのようなこととは次元の違う本質的なことです。それは「神の子を足げにし、自分が聖なる者とされた契約の血を汚れたものと見なし、その上、恵みの霊を侮辱する者」と表現されています。イエス様の十字架の死による罪の赦しを否定し、聖霊の導きを否定して再び自分勝手に歩き始めた人々のことです。誰の目にも明らかにそのような人々がヘブライ人たちの教会にはいたのでしょう。しかしすぐあとで、神様ご自身が報いをされると書かれています。私達が裁くべきことではないのです。しかし、ここで私達にとって最も重要なことは、私達自身がそのような者になることなく、どのような時でも主を信頼し続けるということです。どのようにして、それは可能なのでしょうか?32-34節を読みましょう。

 

2) 苦しみを共に耐える (32-34)

あなたがたは、光に照らされた後、苦しい大きな戦いによく耐えた初めのころのことを、思い出してください。あざけられ、苦しめられて、見せ物にされたこともあり、このような目に遭った人たちの仲間となったこともありました。実際、捕らえられた人たちと苦しみを共にしたし、また、自分がもっとすばらしい、いつまでも残るものを持っていると知っているので、財産を奪われても、喜んで耐え忍んだのです。

神の霊が弟子たちの上に豊かに下ることによって始まったキリスト教会ですが、試練はすぐやってきました。イエス様を救い主として認めないユダヤ人からも、異邦人からも危険な存在と考えられ、多くの弟子たちは殉教しました。それでも福音は留まることなく伝わって、信じる者は増えてゆきました。ローマ皇帝の庭園では、クリスチャンが皇帝ネロによって大群衆の中で見世物として殺されました。捕らえられた人の家族を助け、苦しみを共にする経験もしました。財産も奪われました。それでもイエス様に従うことをやめなかった人々がいたのです。ところが、いまその中にいた人々が信仰から離れてしまうかもしれないことを、筆者は心から心配しています。皆さんの中には自分にイエス様を紹介してくれた人が今はもうイエス様とつながっていない、という方はいませんか?一人では抱えきれない苦難があるのです。しかしこの箇所には、それを乗り越えることの出来る答えがあります。ここで心に留めたいことは、共に耐え忍ぶということです。教会とは共に楽しみ、共に喜ぶだけではなく、共に苦しみ、共に泣くためにも存在するのです。共になら、耐え忍ぶことができます。主が再びこられる時まで、あるいはこの世から取り去られる日まで耐え忍ぶことができます。この忍耐の先には神様からの素晴らしい報いがあります。後半の部分を読んでゆきましょう。

 

B 確信に対する報い

1) 得るためには忍耐が必要 (35, 36)

だから、自分の確信を捨ててはいけません。この確信には大きな報いがあります。神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです。 誰もがその大切さを知っているといいながら、多くの人にとって苦手なこと。それが「忍耐」です。世の中では、忍耐することは不便なことで、できるだけ待ったり我慢したりすることを少なくすることが進歩だと考えられています。だから忍耐することはまるで、重力に逆らうかのように苦しい物なのです。しかし忍耐は人を成長させます。またより正しい判断をもたらします。しかも、あなたひとりが忍耐するのではありません。イエス様ご自身の体全体が、約束の日を待ち望みながら、共に忍耐しているのです。神様の御心を行えば、みんなが喜んでくれるような社会はまだ来ていません。神様を知った私の大きな喜びを、なぜこの人は知ってくれようとしないのだろう?なぜ反対したりするのだろう?実は自分が間違っていたのだろうか?という気にさえなってしまうこともあるでしょう。でも、約束のものをいただくためにまだ忍耐が必要なのです。もう一度一緒に35,36節を読んで心に刻みつけましょう。

 

2) 私たちは信仰によって命を保つ (37-38)

「もう少しすると、来るべき方がおいでになる。遅れられることはない。わたしの正しい者は信仰によって生きる。もしひるむようなことがあれば、その者はわたしの心に適わない。」 しかし、わたしたちは、ひるんで滅びる者ではなく、信仰によって命を確保する者です。

イエス様は、あらゆる物事の価値が揺らぐ中で、決して変わることのない真理です。神様に届く道です。そして約束として与えられている永遠の命を持っておられる方です。だからこの方に信頼を寄せて生きることが、何よりも大切な事なのです。この世の歩みの中では、予想を超えた困難に直面します。地球規模で、国家的な規模で、家庭の中で、自分の内側にさえも!実際、私達を取り巻く不確かさを考えれば、私たちはペトロのように水の上を歩いているようなものです。イエス様を見つめてさえいれば、歩き続けることができます。しかしひとたび、強い風の音、荒れる波にひるんで主から目を逸らすとき、私たちは溺れかけるのです。ペトロはその時どうしたでしょうか?「主よ、助けてください」と叫んだのです。そしてイエス様は彼の手をとって助けられました。あなたの足元が不安なら、あなたのするべきこともペトロと同じです。そうすれば「ひるんで滅びる者ではなく、信仰によって命を確保する者」となれます。

 

メッセージのポイント
イエス様を信じて歩み始めた時の喜びを忘れてしまう人は少なくありません。この世の困難や快楽が私たちの目をくらませてしまうのです。苦しむ者と共に喜び、悲しむ者と共に悲しむイエス様の弟子として歩むには忍耐が必要です。忍耐して確信を持ち続け、信仰によって命を確保する者となりましょう。

 

話し合いのヒント
1) なぜ忍耐することを勧められているのですか?
2) 故意に罪を犯し続けるとはどのようなことを指しているのでしょうか?