July 10th, 2011 Vol.18 No.28

献げる信仰 ヘブライ人への手紙 11:17-22

A アブラハムの場合

1) アブラハムはなぜイサクを献げようとしたのか? (17,18)

信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。つまり、約束を受けていた者が、独り子を献げようとしたのです。 この独り子については、「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる」と言われていました。

聖書の神様は人を犠牲として求められたことは一度もありません。アブラハムにイサクを献げなさいとおっしゃったのは、アブラハムに試練を与えるためでした。神様がなさることは、時として私達の理解を超えています。ある人は、神様だってそんなふうに人を試すべきではないと反発します。しかし試練が人を強くすると先週お話ししたように神様はアブラハムの信仰を更に強くして、祝福をイサク、ヤコブ、ヨセフ、そしてやがてすべての民が信仰によって生きるようにアブラハムを試練にあわせました。アブラハムは、神様の祝福の約束とそれまでの導きを信じて、神様がやめなさいと言われるまで命令に従いました。イサクから生まれる子があると言われている以上、神様はたとえイサクに手をかけることを許したとしても生き返らせてくださるとさえ信じていました。 ところがアブラハム自身は納得しているのに、私達がこの話に不愉快さをおぼえるのはなぜでしょう? それは私達の、何でも一度自分の手の中に入ると、自分の所有権を神様に対してでさえ主張したくなる厄介な性質からきています。 全ては神様が作られたと認めるなら、全ての所有権は神様にあることを認めなければなりません。私達が持つことができるのは、神様が私達に託しておられるからです。神様は私達が生きるのに必要なものをすべてご存知で豊かにお与え下さいます。しかし、それを取り去られるのも神様です。このことを認めるとき私たちは真に豊かな者となれるのです。持っていない不満からも、失うかもしれないという恐怖からも開放されるからです。そしてこれらの人々の間では争いはありません。しかしそのような理想を理解していても、大切なもの、特に自分自身や愛する人々の命が目に見える世界から、取り去られるということは、他の物事とは比べられないほど辛いことなので、神様を恨んでしまう人もいるのです。一般論としては命の長さは誰も自分にコントロール出来ないということを知っていても、そう思ってしまいます。 アブラハムがすべての人の祝福の出発点とされたのは、自分自身の生涯も一人息子も神様に献げたものとして歩んだ人だったからです。

 

2) 祝福は信仰の結果 (19)

アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然です。

祝福という言葉はあまりにも小さくみられています。経済的に困らないこと、体が健やかなこと、社会的な成功をおさめること。それらは祝福の本質ではありません。 母マリアはイエス様誕生の前に、バプテスマのヨハネの母エリザベトから最も祝福された女性と呼びかけられましたが、30才を超えたばかりの息子を死刑にされた女性です。地上でのイエス様の生涯も、よく使われる意味での祝福された人生とはかけ離れたものでした。パウロは病気がちで家族もなく家も持たず、殉教の死を遂げたと考えられます。アッシジのフランシスコは自分が受け継ぐはずの莫大な財産には目もくれず、自分では何一つ所有しようとはしませんでした。しかし、彼らこそ本当に神様に祝福された人々です。それは、彼らが、全ては神様のものですと認め、手の内にあるものも、委ねられているに過ぎないものだから、神様がささげなさいと命じられるならば喜んで献げるという信仰。言い換えるなら、神様が与え、神様が取り去られる、という信仰を持っていたからです。 この信仰によって私たちは祝福されるのです。目に見える物事に左右されることなく、神様がいつも自分と共に歩んでいてくださるという喜び、必要なものは必要なときに与えられるという安心という祝福、恵みです。

 

B 祝福は世代を越えて続く (20-22)

信仰によって、イサクは、将来のことについても、ヤコブとエサウのために祝福を祈りました。 信仰によって、ヤコブは死に臨んで、ヨセフの息子たちの一人一人のために祝福を祈り、杖の先に寄りかかって神を礼拝しました。 信仰によって、ヨセフは臨終のとき、イスラエルの子らの脱出について語り、自分の遺骨について指示を与えました。

来週は洗礼式があり、献児式もこの夏何回か予定されています。洗礼は「自分を献げます。私はもはや自分のものではなく、神様、あなたのものです」という、信仰の告白です。献児式は文字通り、「彼らは私達のものではありません。神様あなたのものです。あなたの思いのままに、成長させ用いてください」という、両親の信仰の告白です。アブラハムがイサクの生涯を神様に献げたように、「この子を神様の意思に従って成長させ用いてください」と願う親を神様は祝福し、成人するまで必要な全てを豊かに与えてくださるのです。そしてあなたの献げる信仰が、子どもたちの祝福された人生につながります。私たちは自分の益となることのためにでも、この国の益となるためでもなく、神様の働きを担う人々を育成しているのです。最後に、ヨセフが住んでいたエジプトで葬られることを望まなかった事を考えてみましょう。エジプトは目に見える世界の象徴です。この時代のエジプトはモーセの時代とは異なり、ユダヤ人はヨセフのゆえに尊敬され、ヨセフ自身も王に次ぐ権力の座にあり、成功者でした。しかしヨセフはそこが自分の属するところではないことを知っていたのです。私達も富んでいようと、貧しかろうと、この世では旅人です。不便さもあるのですが、神の国のパスポートが、なすべきことならすべてを可能にしてくれます。マリアを祝福された人と呼んだエリザベトは、その言葉を「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」(ルカ1:45)と結んでいます。神様は、私達がこの「献げる信仰」で祝福された生涯を歩むことだけでなく、それを次の世代にバトンタッチすることも願っておられるのです。

 

メッセージのポイント
アブラハムは神様の約束を信じていたので、人間の目から見れば、その約束とは矛盾するような神様の命令に従ったのです。私たちも信仰によればアブラハムの子孫です。イサク、ヤコブ、ヨセフが信仰によって祝福を受けたように、同じ祝福が約束されています。この祝福をいただくためのたった一つの条件は、私達の罪を清算するために十字架でその命を献げ、三日目によみがえられたイエス・キリストを主と信じ、彼に従って生きることです。それは自分のために生きることを捨て、神様のために生きることです。アブラハムの行為は私達にとって、神様を100%信頼して従ってゆくことを教えてくれます。もし私達に「これだけは神様に命じられてもてばなしたくないもの」があるなら、神様を100%信頼していることにはなりません。どんなに大切なものであろうと、大切な人であろうと、さらには自分自身でさえ、自分のものではなく神様のものです。そしてこの信仰によって歩む者を、神様は祝福されます。

話し合いのヒント
1) イサクを献げようとしたときアブラハムには心の葛藤がなかったのでしょうか?
2 ) あなたはイサク、ヤコブ、ヨセフにどのような印象を持っていますか?