July 31st, 2011 Vol.18 No.31

私たちは完全? ヘブライ人への手紙 22(11:30-40)

A 信仰によって生きる人の

1) 喜び (30-35a)

信仰によって、エリコの城壁は、人々が周りを七日間回った後、崩れ落ちました。信仰によって、娼婦ラハブは、様子を探りに来た者たちを穏やかに迎え入れたために、不従順な者たちと一緒に殺されなくて済みました。 これ以上、何を話そう。もしギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル、また預言者たちのことを語るなら、時間が足りないでしょう。信仰によって、この人たちは国々を征服し、正義を行い、約束されたものを手に入れ、獅子の口をふさぎ、燃え盛る火を消し、剣の刃を逃れ、弱かったのに強い者とされ、戦いの勇者となり、敵軍を敗走させました。 女たちは、死んだ身内を生き返らせてもらいました。(30-35a)

手紙の筆者は、旧約聖書に記されている信仰者たちの人生を回顧して、信仰を持つ人がいかに喜びにあふれて生きたか、ということを伝えようとしています。しかし「神様を信じるならこんなに良いことがあるよ」という宗教的宣伝がされているわけではありません。神様を信じて生きるということは、あらゆる問題に根本的な解決を与えるものです。けれどもそれは、インスタントに状況が変わるとか、その人が素晴らしい人に変化するとか、目の前の問題が手品のように消え去る(時にはそういうこともありますが)ということではありません。むしろ状況がどのようであっても、喜びつつ歩めるように心が変えられてゆくということです。(そのこと自体も時間がかかるものです。) 旧約聖書に登場するこれらの信仰者たちは、その地位も性別もユニークですが、共通点は自分に頼らず、神様を信頼して従ったということです。そこに変わらない喜びの源泉があるのです。それは神様が私と共にいてくださるという喜びです。 苦しみや悲しみが無くなるわけではありません。むしろ信じるが故の苦しみというものが存在します。

 

2) 苦しみ (35b-38a)

他の人たちは、更にまさったよみがえりに達するために、釈放を拒み、拷問にかけられました。 また、他の人たちはあざけられ、鞭打たれ、鎖につながれ、投獄されるという目に遭いました。 彼らは石で打ち殺され、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊の皮や山羊の皮を着て放浪し、暮らしに事欠き、苦しめられ、虐待され、荒れ野、山、岩穴、地の割れ目をさまよい歩きました。世は彼らにふさわしくなかったのです。(35b-38)

私たちは、異教徒を改宗させる目的でこの世におかれているわけではありません。イエス様の弟子となろうとする者を見つけ出し、その助けとなるために教会は存在しているのです。単に信者を増やすことが目的なら、筆者はこの部分を書きはしなかったでしょう。しかし、神様に従おうとする時、それを快く思わない者たちから苦しみを受けることは避けられません。それは旧約聖書の時代から現代に至るまで変わっていません。ここで言われていることは、「そのような試練に対して立派に戦わなければ信仰を持っていることにはならない」ということではありません。相手を恐れ、心ではイエス様を信じながらも、肉体的な苦痛や恐怖から、主を知らないと言ってしまった弟子たちをイエス様は赦され、その彼らに宣教を委ねたのです。しかし一方で、殉教の死を厭わなかった人々がいたからこそ、クリスチャンは尊敬され、福音は今でも宣べ伝えられているのだという事実を忘れることはできません。例えば、お隣同士の韓国と日本なのに、どうして人口に対するクリスチャンの比率がこうも違うのだろうか?とよく話題になります。様々な要因がありますが、そのひとつに、日本占領下の朝鮮で死を厭わずに多くのクリスチャンが神社参拝を拒否した時、日本の教会は彼らを助けるどころか、日本政府と一緒になって神社参拝を強要したという罪深い事実があるのです。多くの日本の教会が苦難を避け、権力に妥協していたとき、朝鮮半島では、神学校と200以上の教会が閉鎖され、2000人以上クリスチャンが投獄され、50人以上の牧師が殉教しました。(当時平壌の教会のチュ・ギチョル牧師は、投獄される前の最後のメッセージで「私の老いた母と、私の病気の妻を主に委ね、私の幼い子供たちと私の愛する羊の群れを、慈悲深い手に委ねます。私は主に従って、主に従って、主の血の跡に従っていこうと思います」と語り、七年間の拷問と病苦の刑務所生活のあと獄死されました。)日本の教会も赦されていると信じます。しかし、この国で主の弟子たちが増えることを望むならば、韓国教会を羨む前に、私たちは韓国教会に心から謝罪の気持ちをもって、彼らから弟子のあり方を謙虚に学ぶ必要があります。

 

B イエス様はパズルの最後のピース

1) 世は私達にふさわしくない (38b)

世は彼らにふさわしくなかったのです。(38b)

旧約時代の信仰者たちも朝鮮のクリスチャンたちも、その苦しみについて神様に文句を言いはしませんでした。社会が信仰者にはふさわしい、心地のよい場所ではないこと。そのような場所に、神様があえて信仰者たちをおかれたことを喜んで認めていたからです。神様が彼らを、そこで苦しむ小さく弱い者たちのために派遣したことを誇りに思っていたからです。神様は私達を祝福しておられます。それはこの世での富や名声を与えるということではありません。苦しみ、悩み、悲しんでいる人々に希望を与えることができる者とされるという祝福です。さてどうしたら私のようなものに、そのようなことが可能となるのでしょうか?

 

2) 完全な方と共にいることが完全 (39,40)

ところで、この人たちはすべて、その信仰のゆえに神に認められながらも、約束されたものを手に入れませんでした。神は、わたしたちのために、更にまさったものを計画してくださったので、わたしたちを除いては、彼らは完全な状態に達しなかったのです。(39,40)

5000ピースのジグゾウパズルが4999までできていても、最後の一つをなくしてしまっていたら意味がありません。いやむしろかけた時間や努力が多ければ多いほど、最後の一つがないことに気づいた時の落胆は大きいのではないでしょうか。旧約聖書の信仰者たちは、約束されたものを手に入れていなかった。それはイエス様の十字架による赦しです。彼らは、それを知らずに、いつか、神様がはっきりと主としてご自身を表してくださるだろうと期待しながら、従ったということです。私たちは、神様がイエス様の十字架を通して赦されたという事実を知っています。その意味で、約束されたものをすでに手にしています。聖書はそれを完全な状態だというのです。決して私達が完全な存在だというのではありません。自分自身の内に完全を求めるなら失望するしかありません。どんなに完全と見える人でも、神様との和解を実現してくださったイエス様を知らないなら完全ではないのです。反対にどんなに小さく、弱く、ダメな人間に見えても、その人の内にイエスキリストという最後のワンピースが収まっていることによって完全なのです。マタイによる福音書19章に金持ちの青年が紹介されています。当時の律法を守り、自分こそ永遠の命を得るにふさわしいと考えていたようです。しかし、イエス様がすべてをわきにおいて私に従いなさいと、おっしゃったとき、彼は弟子たちのようには従うことができませんでした。すべてのことはお任せしてイエス・キリストに従って歩む。それが人として完全な状態なのです。その意味で、すべての思い煩いをイエス様にゆだねて歩んでいる皆さんは完全な者とされているのです。

 

メッセージのポイント
旧約聖書の信仰者たちはまだ約束されていただけで手にはいれていない報いを待ち望みながら、それぞれの人生を歩み通しました。それは大きな喜びとともに、大きな苦難を伴う道でした。神様に敵対する世を歩むのですから、ただ快適であるはずがありません。神様はイエス・キリストの十字架と復活によって、約束の恵みを与えられました。イエス様を知っている私たちは、旧約時代の人々に比べればはるかに苦難の少ない歩みをしています。それでもなお、神の国が完成したわけではありません。征服されつつありますが、悪の力、罪の誘惑はこの世界でまだ働いています。それでも私達が完全といえるのは、完全な方と共に歩んでいるからです。

話し合いのヒント
1) お気に入りの旧約の信仰者についてシェアしてください
2) なぜ自分は完全だといえるのでしょうか?