2016/6/26 王を待つ

池田真理・ルカによる福音書19:11-27

 

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  今日読む箇所は、ルカによる福音書にだけ記録されているイエス様のたとえ話です。似ているたとえ話でタラントンのたとえ話というのがマタイ福音書にありますが、違っている点も多くあります。最初に11-14節を読んでいきましょう。

A. イエス様に対する期待と失望 (11-14)

11 人々がこれらのことに聞き入っているとき、イエスは更に一つのたとえを話された。エルサレムに近づいておられ、それに、人々が神の国はすぐにも現れるものと思っていたからである。12 イエスは言われた。「ある立派な家柄の人が、王の位を受けて帰るために、遠い国へ旅立つことになった。13 そこで彼は、十人の僕を呼んで十ムナの金を渡し、『わたしが帰って来るまで、これで商売をしなさい』と言った。14 しかし、国民は彼を憎んでいたので、後から使者を送り、『我々はこの人を王にいただきたくない』と言わせた。

この11-14節の中で、イエス様がなぜこのたとえ話をしたのかが分かります。11節の後半に、「エルサレムに近づいておられ、それに、人々が神の国はすぐにも現れるものと思っていたから」だとあります。まず、イエス様がエルサレムに近づくことにどういう意味があったのでしょうか?当時、エルサレムを含むユダヤ一帯はローマ帝国の統治下にありました。ただそれはここ30年くらいの話です。30年前まではユダヤ地方にはユダヤ人の王がいました。ヘロデ大王 Herod the Greatの息子、アルケラオス Archelaus です。アルケラオスは残酷で自分の政敵は全て粛清するような人物だったらしく、人々は彼のことを嫌いました。そこで、ローマまで代表団を派遣して、アルケラオスを失脚させたのです。アルケラオスの失脚以来、ユダヤ地方にはローマから総督が派遣されて直接支配されるようになっていました。でも、ユダヤの人々には異国に支配されているという不満が募っていました。そんなところにイエス様が登場したので、人々はイエス様が自分たちの新しい王になってくれるかもしれないという期待をかけていました。でもイエス様はそういう政治的指導者になるつもりはなかったので、人々はイエス様に失望することになります。そして多くの人々が、アルケラオスにしたのと同じように、14節で言われているように「我々はこの人を王にいただきたくない」と言うことになります。だから、このたとえ話は、一つにはそういう間違った期待と失望を抱く人々に向けられているということです。
イエス様がこのたとえ話をしたのは、もう一つ理由があります。11節の後半に「人々が神の国はすぐにも現れるものと思っていたから」だとあるように、人々はイエス様がすぐにでも神様の超自然的な力で世界を変えてくださると期待していました。それは民衆一般というよりは、イエス様を信じてイエス様に従っていた人たちが持っていた期待です。でも、そのことは人々が思っているよりずっと時間のかかることでした。そのままもう2000年が経っています。すぐにでもイエス様が戻ってきて世界の王様になると思っていた人たちは、期待を裏切られました。イエス様は、それでもこの世界で生き続けなければいけないと教えるためにも、このたとえ話をしました。
私たちも今日、イエス様に対する間違った期待と失望を捨てなければいけません。神様がこの世界を変えるためにとった方法は、人間が世界を変えるために考える方法とは違いました。大きな力で圧倒するのでなく、一つ一つは変わったかどうかわからないくらいに小さな変化を積み重ねていく方法です。イエス様は十字架と復活の後に、天という私たちの手の届かない遠い国に旅立ってしまいました。でもたとえ話がそこで始まります。「そこで彼は、十人の僕を呼んで十ムナの金を渡し、『わたしが帰って来るまで、これで商売をしなさい』と言った。」私たち一人一人に、神様から委ねられているものがあります。イエス様が再びこの世界に戻ってこられるまで、その委ねられているものをどうするか、私たち次第です。私たちは、イエス様という王様に仕える良い僕と言えるでしょうか?それとも悪い僕か、王様の敵になってしまっているのでしょうか?続きを読んでいきましょう。

 

B. 三種類の態度 (15-27)

15 さて、彼は王の位を受けて帰って来ると、金を渡しておいた僕を呼んで来させ、どれだけ利益を上げたかを知ろうとした。16 最初の者が進み出て、『御主人様、あなたの一ムナで十ムナもうけました』と言った。17 主人は言った。『良い僕だ。よくやった。お前はごく小さな事に忠実だったから、十の町の支配権を授けよう。』18 二番目の者が来て、『御主人様、あなたの一ムナで五ムナ稼ぎました』と言った。19 主人は、『お前は五つの町を治めよ』と言った。20 また、ほかの者が来て言った。『御主人様、これがあなたの一ムナです。布に包んでしまっておきました。21 あなたは預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい方なので、恐ろしかったのです。』22 主人は言った。『悪い僕だ。その言葉のゆえにお前を裁こう。わたしが預けなかったものも取り立て、蒔かなかったものも刈り取る厳しい人間だと知っていたのか。23 ではなぜ、わたしの金を銀行に預けなかったのか。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きでそれを受け取れたのに。』24 そして、そばに立っていた人々に言った。『その一ムナをこの男から取り上げて、十ムナ持っている者に与えよ。』25 僕たちが、『御主人様、あの人は既に十ムナ持っています』と言うと、26 主人は言った。『言っておくが、だれでも持っている人は、更に与えられるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられる。27 ところで、わたしが王になるのを望まなかったあの敵どもを、ここに引き出して、わたしの目の前で打ち殺せ。』」

 

1) 良い僕

最初に良い僕についてお話しします。1ムナというのは、労働者の100日分の賃金程度だそうです。現在の感覚でいうと、1日1万円だとしたら100万円です。ちなみに、1タラントンは労働者の賃金6000日分、単純に換算すると6000万円です。ムナとタラントンでは桁の違う話をしているということです。でも、ムナのたとえ話でもタラントンのたとえ話でも、良い僕をほめる主人の言葉はほとんど同じです。「お前は小さなことに忠実だった」という言葉です。100万円も6000万円も結構な大金ですが、世界の支配権と比べれば小さなものです。その小さなものにも忠実に、主人に言われた通りに商売をした人が良い僕です。自分に預けられているものは小さくても、主人を喜ばせるために自分にできることを精一杯するのが良い僕だということです。

 

2) 悪い僕

では次に悪い僕の話をしましょう。悪い僕は、主人から預かった1ムナを何もせずにしまっておきました。その理由をこう言っています。「ご主人様、あなたは預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい方なので、恐ろしかったのです。」この僕は、1ムナでは何も預けられていないも同然、種の蒔かれていない畑と同じだと言います。つまり、1ムナでは少なすぎて何もできませんよ、ということです。そして、自分は悪くない、主人がケチだから悪い、自分はひどい主人を持って惨めだと言わんばかりです。私たちは誰もこんな悪い僕になりたいとは思いません。でも、神様が自分に与えてくださっているものの価値がわからなくなるという点では、この悪い僕と同じです。確かに何か新しいビジネスを始めるのに100万円の元手というのは、決して多い額ではありません。私たちに神様が与えてくださっている能力や経験や知識も、自分では少なすぎると感じるかもしれません。でも、神様が与えてくださったものなら、決して少なすぎて無いに等しいなんてものはありません。謙遜は、行き過ぎれば神様への侮辱になります。神様はあなたにはできるからやりなさいと言われているのに、私にできるわけがないと反抗していることになってしまうからです。1ムナが少ないとしても、それを主人は自分に預けているという事実を忘れてはいけません。何も与えられていない人はいません。それぞれに与えられている1ムナは何か、どうぞ今週考えてみてください。

 

3) 王の敵

さて、王様の帰りを待つのは僕たちだけではありませんでした。今日3番目にお話したいのは、この王様の帰りを望まない、王様などいらないという人たちについてです。もう一度14節と27節を読みます。
14 しかし、国民は彼を憎んでいたので、後から使者を送り、『我々はこの人を王にいただきたくない』と言わせた。

27 ところで、わたしが王になるのを望まなかったあの敵どもを、ここに引き出して、わたしの目の前で打ち殺せ。』」

これを読むと、王様の国民だったはずの人たちは王様の敵になってしまったことが分かります。それは、国民が間違った期待を王様にかけて、失望したからです。今日最初にお話したように、人々はイエス様に間違った期待をかけていました。自分たちの生活を、神様の強い力やカリスマ的なリーダーシップですぐにでも変えてくださるという期待です。でもイエス様は、人々を力で圧倒するどころか、人間の手にかかって十字架につけられてしまいました。イエス様は十字架で全くの無力でした。そんな弱い王様はいらないと考える人たちは、結局は王様を自分に役に立つか立たないかで選んでいるだけです。それは、ユダヤの人々がヘロデ大王にも不満、アルケラオスにも不満、ローマ帝国にも不満が尽きなかったのと同じです。自分が王様なので、本当の王様を王様と認めることができません。
私たちは、神様に色々な変化を求めて、願いを打ち明けます。神様は時には劇的に事を動かして、私たちを驚かせてくださいます。でも、そういう劇的な瞬間というのはその時突然訪れるわけではありません。その事が起こる前から、私たちがそれを見ない前から信じて待っていることなしには、奇跡も奇跡にはなりません。王様が留守をしている国で、王様はそこにいなくても王様であることに変わりありません。そこにいないから、すぐに問題を解決してくれないから、もう王様はいらないというなら、私たちは王様の敵になってしまいます。王様を信じて待ち、自分に委ねられているものを守りましょう。

 

C. 救いとは

さて、これでたとえ話に登場する人々の話は終わりです。でも今日は最後に、聖書に書かれていないことを私の想像でお話しします。聖書には出てこないので、私の想像があっているか間違っているか、どうぞ皆さんご自分で判断してください。それは、主人に預けられたお金を使って商売をしてみたけれども、うまくいかなくて何も利益をあげられないとしたら、主人はその僕に何て言うのだろう、ということです。それでもとにかく主人の言いつけどおりに商売にチャレンジしたことを喜んで良い僕だと言ってくださるのか、それともやっぱり悪い僕だと言われてしまうのか、皆さんはどう思いますか?私は、イエス様のたとえ話にそういう僕が登場しないというところに答えがあると思います。つまり、主人に預けられたお金で商売をして、失敗することはありえないということです。主人に言われたことをよく聞き、委ねられたものを守るなら、必ず実を結ぶことができるということです。
種をまく人のたとえ話を思い出してください。イエス様自身がたとえ話をこう説明しています。「良い土地に蒔かれた(種)は、み言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである。(マルコ4:20)」私たち全てに種が蒔かれており、1ムナが預けられています。そのことを忘れなければ、いつか主に「良い僕だ。よくやった。お前はごく小さな事に忠実だった」と言っていただけるでしょう。

 

メッセージのポイント

イエス様は再びこの世界に戻ってきて、王として全ての人をその行いに応じて裁くと約束しました。私たちは今はまだ戻ってきていない王様を待っている僕です。良い僕である条件は簡単です。王様の言われたことをよく聞いて、王様のために自分ができる小さなことを続けることです。失敗を恐れる必要はありません。神様が自分に委ねられた人々に誠実に仕え続けましょう。

話し合いのために

1) 悪い僕の何が悪いのですか?
2) 神様があなたに委ねた1ムナは何ですか?

子供達のために

「ごく小さなことに忠実であること」を中心に考えてみてください。良い僕と悪い僕の話は良い子と悪い子の話になりがちですが、そうならないように気をつけて下さい。それぞれができないことがあっても、失敗することがあっても、自分にできることを続けることが大切です。神様は一人ひとりに、必ず何かしら役割を与えています。家族の中でも学校でも、自分にしかできない役割があるはずです。そんなものない、と思ってしまうのが、一番神様のがっかりすることです。